覚醒
「先生! 実験体の二百四十番が目を覚ましました……!」
遠くで誰かの焦ったような声が聞こえ、少女はわずかに顔をしかめた。
少女の目はかすみ、視界にはボンヤリとした色しか映らない。瞬きをしても、視界がはっきりと映ることはない。気持ち悪さに視線を彷徨わせるも、“何かの色がある”ということしかわからない。
とにかく何も考える気力が起きなくて、少女はただ宙をぼんやりと眺めていた。
「ねぇ、私の言葉が理解できる?」
肩を少し強めの力で叩かれ、少女はその痛さに顔をしかめる。
「ここは……どこですか……」
ポツリとかすれた声でそう言えば、少女に声をかけてきた“誰か”は息を飲み込んだ。
「本当に言葉を……先生、これは――……」
「ああ……蘇ってしまった……始祖人間が……知能を有する唯一の人間が……」
そりゃあ喋るだろう、と少女がぼんやりとした頭でそう思う。
色々突っ込みどころのある言葉だったにも関わらず、この時の少女には物事を深く考える力と余裕はなかった。
ただただ、だるい体を早く休ませたいと目を閉じる。
そうして、また薄っすらと視界が暗くなっていき、次の瞬間にはまた意識がなくなった。
* * * * *
「……?」
少女が次に目を覚ましたのは、窓の外の太陽が空のど真ん中まで登った時の事だった。
あれからどのくらい経ったのかはわからなかったものの、お腹が空いていないから、もしかしたらそんなに経っていないのかもしれない……と思いながら窓の外を眺めていた。
そして、ボーっとしながら何度か瞬きをして、少女はようやく自分の視界が戻っていることに気づいた。
そこでようやく辺りを見渡せば、腕に二本の点滴の管がついている。ついでに胸と指には計器がつけられ、規則的な電子音が部屋へ響いていた。何も着せられないままベッドに寝かされているものの、毛布をかけずとも部屋の温度は適温に保たれていて温かい。
真っ白な壁に真っ白のカーテン。ベッド以外には機材類しかない。
「……病院?」
枕元にコールのようなものがあるのに気づいて、少女は小さなボタンをゆっくり押し込んだ。ビープ音が鳴り、数分後に部屋の外からバタバタと足音がする。それと同時に、少女は自分が何も着ていないのを思い出し、慌てて布団の中へと潜り込んだ。
そしてまさしくその瞬間、部屋のドアは勢いよく開き、誰かが飛び込んでくる。
それは二足歩行の服を着た柴犬であった。
「……えっ」
「おはよう! もしかしてあなたがコールを押したのかしら? それとも偶然触っちゃったの?」
「なんでっ……犬が……!?」
慌てる少女をよそに、柴犬は満面の笑みを浮かべて少女を見ている。
一定の音を出していたはずの計器は乱れて激しい音を立て初め、それに気づいた柴犬は、慌てた様子で少女から距離を取ると、両手を挙げて頭の上で組んだ。
ホールドアップ、というやつだ。
「待って待って! 何もしないわ!」
「なんで!? なんで喋ってるの!? テレビ? 特殊メイクですか!? 凄い……!」
「違うわ。違うの。えーと、そうね、あの、まずは落ち着きましょう……!」
少女と同じくらい動揺している柴犬は、手をパタパタふると大きく深呼吸した。
その全身に生えている毛も、小さな耳も、せわしなく動くしっぽも、少女からしてみれば非常にリアルな造形だ。
「まず、えーと……近寄っても良いかしら……? たぶん私に触ってもらったら、特殊メイクではないとわかるはずよ」
そう言って一歩近づく柴犬に、少女は小さな違和感を覚えた。
「……足、腕も……細い……?」
着ぐるみではありえない細さ。あそこに、人間の四肢は収まらない。
では、目の前のこれは一体なんなんだろう――……
そう思った瞬間、少女の顔から血の気が失せた。
「……来ないで下さい」
ポツリと言った言葉に、柴犬は何度か頷いて『そうね、そうよね』とつぶやいた。その耳と尻尾は垂れ、ショックを受けているように見える。
一瞬少女の心のうちに罪悪感がよぎるも、身の保身を考えてその考えを思考の彼方へ押しやった。
「うーん、状況説明が必要だわね。ここは人類学研究所よ」
「じ、人類学……?」
「そう。あなたみたいな人間のことを研究しているの」
「……へぇ。夢か」
気のない返事をすれば、柴犬は小さく「困ったわね」とつぶやいた。
「……ええと、本当なのよ。あの……端的に言うと、人類は滅亡したわ。ここは人類が滅亡して何百年以上も経った日本よ。今は、動物と人間の立場が逆転しているの」
目の前の柴犬から少しだけ犬くさいニオイがただよってくるのに気づき、少女の口角がほぼ反射的に引きつった。
果たして夢の中ででもニオイをかぐことは可能なのだろうか。それにシーツの感触も、やたらとリアルすぎる。
「……本当に……? でも、そんな……馬鹿なことが……」
だから――少女は、目の前にいる生物が本物の“獣である可能性が高いと気づいた。
「……あなたは……本当に、犬……なんですか……?」
いまだ暴れる計器。
ふと、少女は自分に刺されている点滴の成分が気になった。
「これ、は……なんですか? なんの薬ですか?」
一体なにが、体に入れられているのだろう。
そう思うと恐ろしくなり、管をつかんで一気に引き抜く。血と薬剤が飛び散って腕に激しい痛みが走った。
「いっ……」
「あら、大変……!」
「さ、触らないで……! 来ないで……!!」
こんな状況なのに頭の中は酷く冷静で、何か異変が起こっても欠片も見逃さないよに全神経を尖らせているのを自覚した。
そして少女の目の前にいる柴犬は、少し戸惑った後、悲しそうな顔をして『まだ早かったわね』とつぶやくと注射器を取り出す。
「……やめて……」
後ずさる少女。
柴犬は、ただ困った表情を浮かべたまま少女の方へ向ける。
「一度少し寝ましょう? 起きたらご飯をあげるから。ね?」
「やめて……来ないで……」
荒い息を吐きながら、少女はベッドの上を移動する。ゆっくりベッドを降り、退路を探すべく窓の外を見た。しかし、地面ははるか下にあり、窓から逃げることは不可能だと知った。
では、と入り口の方を見れば、柴犬は警戒したように立ち位置をずらす。
「大丈夫よ」
「何が……?」
少女の瞳が揺れ、ポロポロと涙がこぼれる。それを見て、柴犬は痛ましそうな顔になった。
少女はただその痛ましそうな顔を冷静に見つめながら、どうすればこの危機を脱することができるのかを考える。しかし、冷静と言っても思考が停止しているだけの脳は、少女に答えなど与えやしなかった。
「大丈夫、酷いことはしないわ」
「酷いこと? 何? やめて、本当に、来ないで……触らないでよ! 来ないでってば!!」
叫んでも柴犬は歩みを止めず、こちらに向かってくる。少女はとっさに枕をつかみ、思いっきり柴犬の顔面に叩きつけた。
キャンッと短い悲鳴が上がり、柴犬が注射器を取り落とす。それを目の端で捉えながら一気に駆け出すと、よろける柴犬を思いっきり押し倒して床に転がし、注射器を柴犬の胸に突き刺して薬剤を注入する。
― この薬剤が何なのかなんて考える必要はない。だってここはきっと現実ではないし、目の前にいるのは“犬”だから。 ―
少女はそう自分に言い聞かせながら、荒い息を吐く。
「あな……た、は……」
柴犬の顔はゆがみ、その顔は恐怖におののいている。
まだまだ余裕で動けそうな柴犬の延ばす手を振り払い、少女はそのまま扉の外へと飛び出していった。
「待ち、なさい……! 外は危ないわ……!!」
少女はここにいる方がよほど危ないと思った。声を無視して、脇目もふらず走る。
そしてだんだんと遠ざかっていく声が、少女を追いかけることは無かった。
* * * * *
『――繰り返します。実験体二百四十番が脱走しました。見つけ次第、無傷での保護を優先して下さい』
先ほどから同じアナウンスが流れ、館内は少しピリピリしている。歩きまわっている動物達の目が、少女には怒っているように見えた。
空き部屋に駆け込んだ少女は、もう長いことこの狭っ苦しい倉庫の中にいた。走っている時にたまたま見つけた部屋だ。
「どうやって逃げれば……」
扉の隙間から外の様子を伺うと、黒豹、ネズミ、ウサギ――……少女が“どうもここにいるのはそのままの動物の形をした生物ではなくて、人と同じ等身をした動物達が服を着て歩いているようだ”と気づいたのは、部屋を飛び出してすぐのことだった。
そしてその動物たちは日本語を話している。
「わけがわからない……なんでこんなことに……」
唇を噛み締めると、わずかに血の味がした。
少女は“もしかしたら自分は何かの精神病で、人間が動物に見えてしまっているのかもしれない”とも思った。
しかし、アナウンスは“実験体”と言っている。あれは十中八九自分のことだと少女は思っていた。それに、事実そうだ。
「……というか、私のことを番号で呼ぶなんて失礼すぎない……? 私の名前は――」
名前を言おうとして、それが思い出せないことに気づく。
血の気が引いていった。
「名前……」
なぜ思い出せないのだろうと考え、今までの記憶までも失っていることに気づいた。
「なん、なの……?」
そうつぶやいたときのことだ。
部屋の奥から、ガタリと音がする。
『ここじゃないのか?』
『おい、大きな声を出すな。本当にここだとしたら、聞こえて逃げちまうだろ。なんせこちらの言葉を理解しているんだから』
『大丈夫さ。人間は俺らよりも耳が悪いらしいじゃないか。鼻だって自分の近くにあるニオイしか感じられないらしいぞ。それに本当に言葉が通じているのかも怪しいもんだ』
獣のニオイが、部屋の奥から漂ってくる。空調によって部屋中にニオイが漂っているなど、ダクトの中の“誰か”は気づきもしなかった。それに、人間が自分以外の体臭に対して、意外と敏感であると言うことも。
「…………」
やがてダクトを覆う蓋がガタガタと動き出す。
『ああ、クソ! 開かないな』
『早くしろよ……俺は狭いところが苦手なんだ。人間がこんな狭いところを通るとは思えないがなあ』
『まあ、待て。すぐ、に……ここをっ……よっ! クソ……なんだってこんなにっ……堅いんっ……だっ!!』
静かに、しかし確実にダクトの蓋がずれていく。
「逃げないと……」
後ろ手にドアのノブを握る。
そして一気に扉を開け放った時のことだった。
「やあ、ここにいたのか。知識のある人間と言うのは、少し厄介だな」
唯一の出口を覆うほど巨大なバッファローである。
獣くさいニオイが少女の鼻腔を刺激する。
「ヒッ……」
少女が最後に見たのは、自分に迫ってくる獣の手。
倒れていく少女を見てバッファローが動揺したのにも気づかず、ダクトから転がるようにして落ちてきたネズミ達に気づくこともなく、少女は床へと倒れふした。
ご無沙汰しております。
今月より予告通り活動再開ました。
したのはいいのですが……エタっていた作品のリメイクです。
そしてスランプからは抜け出せないままでした……質が悪い……
しかし止まれないので進みます。終わりは決まっていますので、ただひたすら進みます。