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人望ゼロの石田三成、関ヶ原の前夜に小早川秀秋の裏切りを止めに行く ~「せめて笑え」と言われたので、笑顔を練習しました~

作者: 島村 巡
掲載日:2026/10/27

 一六〇〇年 秋  美濃 大垣城



 わしは、人に好かれぬ。


 自分で言うのもなんだが、これは天下に知られた話だ。太閤殿下にお仕えして二十余年、検地をすれば百姓に恨まれ、兵糧の帳面を締めれば武将に恨まれ、朝鮮から戻った者たちの手柄を正しく記せば、正しく記したという理由で恨まれた。


 帳面は正しい。正しいことを書いて、何が悪い。


 そう思って生きてきた。そして今、そのつけを払おうとしている。


「殿。松尾山の件、やはり噂はまことのようにございます」


 島左近が、静かに膝をついた。わしの禄の半分を払って召し抱えた男だ。治部少輔に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城、と世間は歌う。わしの城とわしの家臣は褒められるが、わし自身が褒められた歌は、聞いたことがない。


「小早川中納言の陣に、内府の使いが出入りしている、と」


「確かか」


「伊藤殿の兵を追い出して、松尾山に陣取ったのが、何よりの証にございましょう」


 わしは、扇を閉じた。


 小早川秀秋。太閤殿下の北政所様が、我が子同然に育てた若者だ。一万五千の兵を連れて、関ヶ原を見下ろす松尾山に陣を張っている。あの兵が東につけば、この戦は終わる。西につけば、内府の首が取れる。


 天下の分かれ目が、一人の若者の腹ひとつにかかっている。


 そして、その若者は、わしを嫌っている。


「それと、殿。もう一つ」


「申せ」


「内府は今朝、赤坂の陣で、土地の者から大きな柿を献上されたそうにございます。それを手に取って、大柿が手に入った、と大笑いしたとか。東の陣では、皆がその話で持ちきりにございます」


 大垣と大柿。


「・・・くだらぬ」


「はい。くだらのうございます」


「くだらぬが、兵の士気には効く。内府は、そういうことをよく分かっておる」


 左近は、何とも言えぬ顔でわしを見た。殿もそういうことを分かってくだされば、と顔に書いてあった。


 ◇


 昼過ぎ、大谷刑部が大垣城に来た。


 白い頭巾で顔を覆い、家臣の肩を借りて歩いてくる。病が進んで、目もよく見えなくなっていると聞く。それでも、わしが家康を討つと打ち明けたとき、無謀だと三度止めたうえで、最後には味方についてくれた。天下でただ一人、わしに遠慮なくものを言う男だ。


「治部。松尾山へ行くそうだな」


「行く。中納言を説き伏せる」


「やめておけ」


 即答だった。


「お前が行けば、中納言は裏切る。迷っている者の背中を、お前ほど見事に押せる男はおらぬ。東の方へな」


「・・・ずいぶんな言いようだ」


「お前には人望がない。前にも言ったはずだ」


 言われた。三年前にも言われたし、去年も言われた。


「お前は正しい。正しいことを、正しい顔で、正しい順に言う。だから人は、お前の前に立つと、自分が叱られているような気になる。中納言は、ただでさえお前を恐れておる」


「恐れられるようなことは、しておらぬ」


「朝鮮のことを忘れたか」


 わしは黙った。


 朝鮮の役で、中納言は軽はずみな振る舞いを咎められ、太閤殿下から国替えを命じられた。中納言は、それを、わしが殿下に告げ口したせいだと思っている。


「告げ口ではない。報告だ」


「中納言にとっては、同じことだ」


 刑部は、頭巾の奥で、少し笑ったようだった。


「行くなとは言わぬ。どうせ、言っても行くのだろう。ならば、せめて笑え」


「笑え、とは」


「中納言の前で、一度でいい。笑って見せろ。お前の笑った顔を見れば、人は少しだけ安心する。この刑部が保証する。めったに見られぬものだからな」


 ◇


 刑部が帰ったあと、わしは左近を一室に呼んだ。


「左近。わしは、笑う」


 左近の顔が、わずかにこわばった。


「・・・は」


「刑部が、笑えと言った。今から、笑う。どう見えるか、正直に申せ」


 わしは、左近の前で、口の端を持ち上げた。目も細めた。頬にも力を入れた。


 左近は、しばらく黙ってわしの顔を見ていた。それから、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。


「殿。それは、笑顔ではございませぬ」


「では、何だ」


「検地の帳面に、隠し田を見つけた時のお顔にございます」


 わしは、口の端を下ろした。


 もう一度やった。今度は、口をもっと横に広げてみた。


「いかがだ」


「・・・兵糧の数が、帳面と一俵合わなかった時のお顔に、近うございます」


 三度目をやろうとしたところで、茶を運んできた小姓が、わしの顔を見て盆を落とした。小姓は真っ青になって平伏し、何度も詫びて、逃げるように下がっていった。


 左近が、咳払いをした。


「殿。笑顔は、やめておかれたほうがよろしいかと」


「刑部は、笑えと言った」


「刑部様は、殿の笑顔をご覧になれぬお目ゆえ、そう仰せになったのやもしれませぬ」


 わしは、左近をにらんだ。左近は、平然とわしを見返した。この男だけは、わしがどんな顔をしても逃げない。


「・・・土産を持っていく」


「土産、でございますか」


「中納言は酒を好む。だが、酒は判断を鈍らせる。戦の前夜に、迷っている者へ酒を持っていくのは、理に合わぬ」


「では、何を」


 わしは、城の台所から届けられたばかりの籠を指さした。橙色の実が、つやつやと山になっている。


「柿だ」


 左近が、目をしばたたかせた。


「内府が大柿を食らうと笑うなら、こちらはその柿を中納言に食わせる。柿は甘い。迷う者には、甘いものがよい」


「殿は、柿を召し上がりませぬのに」


「柿は痰の毒だ。わしは食わぬ。中納言が食えばよい」


 左近は、籠の柿をひとつ手に取り、しげしげと眺めた。何か言いかけて、やめた。


 あとで思えば、あのとき左近は、何かに気づいていたのかもしれない。


 ◇


 出立の前に、わしは左近に、もうひとつ頼みごとをした。


「中納言の役をやれ」


「・・・それがしが、でございますか」


「言うことを、一度通しておきたい。お前が中納言だと思って、わしの話を聞け」


 左近は、しばらく天井を見上げていた。やがて、観念したように座り直し、背中を少し丸め、目を伏せた。若い主君が、怖い奉行を前にして身を縮めている形らしい。妙に似ていた。


 わしは書付を広げ、一条目から読み上げた。秀頼様が十五になられるまでの関白職。播磨の加増。家臣への恩賞。兵糧の手当て。戦のあとの領地の線引き。


 七条目に差しかかったところで、左近の首が、こくりと前に落ちた。


「左近」


「・・・はっ。中納言様なら、このあたりで眠っておられるかと」


「わざとか」


「半分は」


 わしは書付を見下ろした。十七条、どれも欠かせぬことばかりだ。削るところなど、ひとつもない。


 左近は、居住まいを正して言った。


「殿。中納言様は、恩賞の数を聞きたいのではございませぬ。殿が、中納言様をどう思うておられるかを、聞きたいのでございましょう」


「そんなものは、書付に書けぬ」


「ですから、書付を置いて、お話しくだされ」


 わしは返事をせず、書付を懐にしまった。しまったが、捨てはしなかった。



 一六〇〇年 秋  美濃 松尾山



 松尾山の道は、細く、ぬかるんでいた。


 夕方から、細かい雨が降りはじめていた。わしは柿の籠を下げた家臣と左近を連れて、ぬれた笹をかき分けながら登った。


 山の上の陣では、篝火が雨に煙っていた。小早川の兵たちが、わしの顔を見て、いっせいに口をつぐんだ。治部少輔が来た、と誰かがささやくのが聞こえた。


 陣の端で、足軽が二人、身を寄せ合って小声で話していた。


「治部様のお顔を見ると、なぜか年貢を取り立てられる気がする」


「おれは、兵糧を数え直される気がする」


 わしが振り向くと、二人は泥の中に額をこすりつけた。左近が、わしの袖をそっと引いた。殿、ここは聞かなかったことに、と目が言っていた。


 陣幕の奥で、中納言は盃を手にしていた。


 色白の、線の細い若者だった。わしを見ると、盃を持つ手がぴくりと震えた。そばに控えた家老の平岡頼勝が、わしに冷たい目を向けた。内府とのつなぎ役は、この男だと聞いている。


「治部少輔殿。このような雨の中を、わざわざ」


「中納言様に、申し上げたき儀がございます」


 わしは、中納言の前に座り、懐から書付を取り出した。昨夜のうちに、言うべきことを順にまとめておいた。


「まず、此度の戦に勝った暁の恩賞にございます。秀頼様が十五になられるまで、関白の職を中納言様にお預けする。これは、毛利殿、宇喜多殿も承知のこと。次に、播磨一国を加増。次に」


「治部殿」


「次に、中納言様の御家臣への恩賞。平岡殿、稲葉殿には、それぞれ」


「治部殿、その、書付は、いくつまで」


 中納言の目が、わしの手の中の紙の厚みを、測るように泳いでいた。


「十七条ございます」


 中納言は、小さくあくびをかみ殺した。平岡は、露骨に横を向いた。陣幕の外で、雨の音だけが大きくなっていく。


 後ろで、左近が小さく咳払いをした。


 分かっている。刑部の言葉が、頭の中で繰り返される。笑え。一度でいい。


 わしは書付を置き、中納言の顔を見て、口の端を持ち上げた。


 中納言の手から、盃が落ちた。


 酒が膝にこぼれ、中納言は小さく悲鳴を上げて身を引いた。平岡が刀の柄に手をかけかけ、陣幕の内が一瞬、凍りついた。


「・・・治部殿。い、今のは」


「笑顔にございます」


「笑顔」


 中納言は、わしの顔と、こぼれた酒とを、何度も見比べた。


「笑顔にございます」


 中納言は、助けを求めるように左近を見た。左近は、目を伏せたまま、静かにうなずいた。


 ◇


 長い沈黙のあと、中納言が、ぽつりと言った。


「治部殿は、わしのことが、お嫌いでしょう」


「なぜ、そう思われます」


「朝鮮のことです。治部殿が、太閤殿下に、わしのことを悪しざまに申し上げた。それで、わしは国を替えられた。皆、そう申しております」


 わしは、少しのあいだ黙っていた。


 言い訳は、いくらでもできる。あれは告げ口ではなく報告だった。報告は奉行の務めだった。わしが申し上げずとも、誰かが申し上げた。全部、正しい。


 そして、全部、この若者の耳には届かない。


 刑部の言うとおりだ。わしは正しいことを、正しい順に言う。だから人に好かれぬ。


 わしは、書付を懐にしまった。


「中納言様。わしは、人に好かれぬ男にございます」


 中納言が、顔を上げた。


「検地をすれば百姓に恨まれ、帳面を締めれば武将に恨まれる。朝鮮のことも、中納言様に恨まれて当然と存じております。わしは、あの時、中納言様のお気持ちを一度も考えなかった。帳面の数字しか見ておらなんだ。そのことは、詫びまする」


 わしは、深く頭を下げた。治部少輔が頭を下げるのを、陣の者たちは初めて見たのだろう。陣幕の内が、しんとした。


「されど、中納言様。これだけは、帳面ではなく、わしの腹から申し上げる」


 顔を上げた。笑顔は、もう作らなかった。


「わしは、太閤殿下の御恩を、一日たりとも忘れたことはございませぬ。中納言様は、その殿下と北政所様が、我が子同然にお育てになった方。わしが中納言様を見捨てたことは、一度もない。これからも、ない」


 中納言の目が、揺れた。


「明日、中納言様がどちらにつかれようと、わしはそれを恨みませぬ。ただ、それだけを申し上げに来ました」


 わしは、家臣から柿の籠を受け取り、中納言の前に置いた。


「土産にございます。美濃の柿。甘いものは、迷う時によいと聞きます」


「・・・治部殿は、召し上がらぬのですか」


「柿は、痰の毒にございますゆえ」


 中納言は、籠の柿を見つめたまま、何も言わなかった。


 わしは一礼して、陣を出た。


 帰りの山道で、左近が並んで歩きながら、ぽつりと言った。


「殿。最後のお顔は、ようございました」


「笑っておらぬ」


「はい。だから、ようございました」


 ◇


 その夜、西軍は雨の中を大垣城から関ヶ原へ移った。


 ぬかるんだ道を、松明も満足にともせぬまま、兵たちは黙々と進んだ。山中の陣で、刑部が待っていた。


「で、笑えたか」


「一度だけ」


「中納言は、どうした」


「盃を落とした」


 刑部は、頭巾の奥で、腹を抱えて笑った。病で痩せた肩が、いつまでも揺れていた。



 一六〇〇年 秋  美濃 関ヶ原



 夜が明けても、あたりは真っ白だった。


 深い霧が、盆地の底に溜まっていた。わしは笹尾山の陣から、霧の向こうに目をこらした。何も見えない。ただ、どこかで馬がいななき、鎧の擦れる音がする。数万の兵が、この白い霧の中で、息をひそめている。


 昨夜の雨で、陣の土はぬかるんでいた。兵たちは冷えた手に息を吹きかけながら、槍を握り直している。わしは床几に座り、松尾山のある南の方を見つめていた。霧の向こうで、あの若者は、今どんな顔をしているのか。


 霧が晴れはじめたのは、朝の遅い時分だった。


 鉄砲の音が、どこかで弾けた。それを合図のように、関ヶ原のあちこちで鬨の声が上がった。


 戦は、思ったよりも西軍に分があった。宇喜多勢は福島勢を押し返し、刑部の隊は藤堂勢、京極勢を相手に一歩も引かない。左近は、わしの陣の前で、黒田勢と細川勢を何度も跳ね返した。


 だが、決め手がない。


 わしは、狼煙を上げさせた。松尾山の小早川と、南宮山の毛利へ、総攻めの合図だ。


 毛利は、動かなかった。


 小早川も、動かなかった。


 松尾山の旗は、霧の名残の中で、じっと止まっていた。


「殿」


 左近の声が、少しかすれていた。


「内府の陣から、松尾山へ、使いが何度も走っております」


「分かっておる」


 分かっていた。中納言は、今、迷っている。昨夜、わしの話を聞いたあとも、内府の使いの話を聞いている。平岡は、きっと東につけと言っている。


 わしは、懐に手を入れた。昨夜、出さずに終わった書付が、まだ入っていた。十七条。関白職、播磨の加増、家臣への恩賞。どれも正しく、どれも理に合っている。


 わしは、書付から手を離した。昨夜、置いてきたのは、この紙ではなかった。


 昼が近づいた。


 刑部の隊が、じりじりと押されはじめた。藤堂、京極の兵は数が多い。刑部は病の身で輿に乗り、輿の上から采配を振っていると聞く。わしは、拳を握りしめた。何もできない。ここからは、松尾山を見上げることしかできない。


 そのとき、松尾山の旗が、動いた。


 一万五千の兵が、山肌を雪崩のように下りてくる。


 陣じゅうが、息をのんだ。


 山の下には、刑部の隊がいる。中納言が東につくなら、あの一万五千は、そのまま刑部の横腹に突っ込む。そうなれば、西軍は崩れる。お前が行けば、中納言は裏切る。刑部の声が、耳の奥でよみがえった。結局、わしの話は、何ひとつ届かなかったのか。


 小早川の先陣が、山の裾で、大きく向きを変えた。


 刑部の隊ではなかった。刑部の隊を攻めていた、藤堂と京極の横腹へ、一万五千の兵が、まっすぐに突っ込んでいった。


「・・・左近。今、何が起きた」


「中納言様が、西に、つかれました」


 左近の声が、震えていた。


 小早川が動くと、麓に陣を張っていた脇坂、朽木、小川、赤座の隊も、雪崩を打つように小早川に続いた。藤堂と京極の隊は、前の刑部と横の小早川に挟まれ、崩れた。崩れた兵が、隣の隊を巻きこんでいく。


 東軍の陣が、端から順に、ほどけていった。


「総攻めだ」


 わしは叫んだ。


「今だ、全軍、押し出せ」


 ◇


 日が傾くころには、勝負はついていた。


 内府は、桃配山の本陣を引き払い、東へ退いていった。追い討ちは、宇喜多勢に任せた。わしは、まだ半分夢を見ているような心地で、陣幕の中に座りこんでいた。


 夕方、松尾山から使いが来た。平岡頼勝だった。昨夜、わしに冷たい目を向けた男が、今は泥だらけの顔で、妙な顔をして膝をついていた。


「治部少輔殿。主より、言伝てにございます」


「申せ」


「その前に、ひとつ、お尋ねしたき儀が」


 平岡は、言いにくそうに、懐から何かを取り出した。


 柿だった。ひと口、かじった跡がある。


「昨夜いただいた柿にございます。主は今朝、霧の中で、ずっとこれを手に持って迷っておられました。そして昼前、ひと口かじられた」


「それで」


「渋柿にございました」


 わしは、柿を見た。


 左近が、そっと横を向いた。肩が、小さく震えていた。やはり、こやつは気づいていたのだ。


「主は、口をすぼめて、しばらく声も出せずにおられました。それから、こう仰せになったのです。治部殿は、柿の甘い渋いも分からぬお方か、と」


「・・・面目ない」


「そのあと、主は、笑われました。腹を抱えて、涙が出るほどに。そして、こう仰せになりました」


 平岡は、居住まいを正した。


「あのお方は、嘘がつけぬのだ。柿の甘い渋いも分からぬほど、ほかのことを考えぬお方だ。そういうお方が、わしを見捨てたことはないと言うたなら、それはまことであろう、と」


 わしは、何も言えなかった。


「そして、全軍、山を下りよ、と。下りたら、刑部殿の隊ではなく、藤堂の横を突け、と」


 平岡は、頭を下げた。


「それがしは、内府殿につくべきと、最後まで申し上げておりました。されど、主のあのようなお顔は、初めて見ました。それがしの負けにございます」


 平岡が帰ったあと、わしは、かじりかけの渋柿を手のひらにのせて、しばらく眺めていた。


 左近が、そっと声をかけてきた。


「殿。籠の柿が渋いと、それがしは気づいておりました。台所の者が、干し柿にするつもりで取り分けておいた籠にございます」


「なぜ言わなかった」


「申し上げれば、殿は柿を替えられたでしょう。甘い柿を持って、十七条を読み上げて、笑顔を作って、帰ってこられた。それでは、中納言様は動かなかったと存じます」


 わしは、左近の顔を見た。左近は、いつもの平然とした顔で、わしを見返していた。


「・・・お前は、ときどき、わしより賢い」


「ときどき、でございますか」


 わしは答えず、渋柿を懐紙に包んで、懐へしまった。十七条の書付の隣に、ひと口かじられた渋柿が並んだ。


 ◇


 その夜、関ヶ原の陣で、ささやかな祝いの宴が開かれた。


 宇喜多殿の周りにも、小西殿の周りにも、人が集まっていた。わしの周りには、左近と、刑部と、数人の家臣しかいなかった。勝ち戦でも、わしの人望は相変わらずだった。


「勝っても、お前のところには人が来ぬな」


「放っておけ」


 刑部は、頭巾の奥で愉快そうに笑った。


 そこへ、小早川の使いが、大きな籠を担いでやって来た。


 籠の中には、柿が山と積まれていた。つやつやと、橙色に光っている。添えられた書付には、若い字で、短くこう書かれていた。


 今度のは、甘うござる。


 左近が、こらえきれずに吹き出した。刑部も、声を立てて笑った。家臣たちまで、下を向いて肩を震わせている。


 わしは、籠の柿を見下ろした。


「柿は、痰の毒だ」


「知っております」


 左近が、笑いながら答えた。


 わしは、籠の中から、いちばん小さな柿をひとつ取った。皮をむき、ひと口かじった。


 甘かった。


 思っていたよりも、ずっと甘かった。


「治部」


 刑部が、見えぬはずの目を、こちらに向けていた。


「お前、今、笑っておるだろう」


「笑ってなどおらぬ」


 わしは、もうひと口、柿をかじった。


 隣で左近が、殿、それは笑顔にございます、と小さな声で言った。今度ばかりは、言い返す気にならなかった。

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― 新着の感想 ―
笑顔の練習で盃を落とされる三成に笑ってしまいましたが、最後は不器用な誠実さが秀秋に届いたのがよかったです。渋柿まで伏線になっているのが面白いですね。
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