甘くない菓子は、菓子ではないそうです
侯爵家の宴に出る菓子は、都の流行りで銀箔をまとう。カティアの鍋で煮えているのは、灰色の塊だ。
「カティア、それは何?」
鍋を覗きに来たのは、下働きのミナだ。
「大奥様のぶんですわ」
「……お菓子、ですか?」
「菓子です」
匙で持ち上げると、とろりと糸を引いて、音もなく落ちた。甘い匂いは、しない。
この菓子がなんのためにあるのかを、カティアは七年、誰にも説明していない。説明すると、長い。
あとの全員は、彼女が好きでやっていると思っている。
カティアは匙の先を返して、鍋の中をゆっくり一周させた。
(匙が立つほど固くては、駄目。流れるほど緩くても、駄目——今日のは、いい按配ですわ)
火から下ろして、木の型に流す。手は、音を立てない。鍋も匙も型も、置くときに鳴らさない。七年かけて、そういう手になった。
この一鍋は、屋敷の献立表に載っていない。それでも、都から菓子が届く日も届かない日も、朝いちばんに火にかかる。
「中身は、なんなんです?」
ミナがまだ覗いている。
「裏ごしした豆と、蒸したお芋。それと、煮詰めた果実ですわ」
「……地味ですね」
「味は悪くありませんのよ。甘くないだけで」
「大奥様は、甘いのがお嫌いなんですか」
「お嫌いではありませんわ」
「じゃあ、どうして甘くしないんです?」
「長くなりますの」
「長くても、聞きますけど」
「では今度、夜なべの晩にでも」
ミナは少し嬉しそうに頷いて、薪を取りに戻っていった。いい子だ。訊いて、分からなくて、それでも竈の火を絶やさない。厨房で大事なことは、だいたいそれで足りる。
裏ごしは三度する。豆の皮ひとつ、残さない。理由を訊かれたら、性分だと答えることにしている。
三年こればかり。その前の四年は、屋敷の茶のための甘い菓子も焼いていた。宴の菓子は、いつも都から取り寄せた。
もっとも、地味なのは三年前に始まったことではない。甘い菓子を焼いていた頃から、カティアの菓子には色も飾りもなかった。「好きでやってるんでしょう」は、七年言われてきた言葉だ。
男爵家が潰れた年に、菓子の腕ひとつで侯爵家の厨房に入った。十九の春だった。家の名は畳んだ荷物と一緒に置いてきて、残ったのは口の利き方だけ。厨房で「ですわ」と言う女は、この屋敷で彼女ひとりだった。
直そうとした時期も、あるにはあった。厨房で浮くからだ。直らなかった。言葉は菓子と違って、煮直しがきかない。今では誰も気にしないし、ミナに至っては、たまにうつって「ですわ」と言う。
冷めた塊を布で包む。今日は六つ。包みながら、数を確かめる。日にひとつ、お客のある日はふたつ。減る速さと煮る速さが釣り合っているうちは、この菓子は足りている。
竈の脇の棚に置いた。棚板は、鳴らなかった。
若奥様のベアトリスが都から嫁いできて、そろそろ三月になる。式は都で挙げて、領地へのお披露目はまだ先だ。それでも近隣の奥方たちは、若い夫人の顔を見にやってくる。
その日の茶会は、南の庭でひらかれた。菩提樹の木陰に白い卓を三つ出して、奥方が六人。若奥様を囲む笑い声が、厨房まで届いていた。
カティアは大奥様の盆を持って、庭の端を通りかかった。呼び止めたのは、隣の領から来た男爵夫人だ。
「あなたが例の、甘くないお菓子の方?」
「はい。カティアと申しますわ」
「大奥様のお茶請けも、あなたが? まあ、灰色」
盆の上の小鉢を見て、夫人は扇を口に当てた。悪意のある顔ではない。めずらしい虫を見つけた、というだけの顔だ。
「道楽がおありでいいわね」
ベアトリスが、隣で同意の笑みを浮かべて頷いた。それも、悪意のある頷きではなかった。都の姫君が、領地の名物にひとつずつ頷いてまわる、その続きの頷きだった。
(道楽。今年はそう来ましたのね。去年は「変わり者の菓子番」でしたわ)
カティアは頭を下げた。
「恐れ入りますわ」
訂正はしない。この小鉢の中身がなんであるかを話せば長くなるし、茶会は菓子の講釈を聞く場所ではない。夫人はもう、都の帽子の話に戻っている。
卓に菓子が回りはじめたのは、その後だ。都から取り寄せた焼き菓子の箱が開いて、奥方たちの声が上がる。砂糖の花を散らした、白い菓子だった。「まあ、都の香りがするわ」と誰かが言って、それ以上の意味のない言葉に、みんなが頷いた。
アグネスが、そこで立ち上がった。
「年寄りは、お先に失礼しますよ。お庭は、若い方の声が似合いますからね」
杖もつかず、背筋を伸ばして、大奥様は自分の足で回廊へ歩いていく。奥方たちは礼をして、すぐ菓子に戻った。慣れているのだ。
大奥様は、三年前から家族と同じ卓に着かない。茶会でも、祝いの席でも、菓子が出ると席を立つ。理由を口にする者は、この屋敷にいない。訊く者も、いない。
回廊の途中の長椅子で、アグネスは待っていた。
「騒がしいところを、逃げてきましたよ」
「お庭は、若い方にお譲りになったのでは?」
「そういうことにしておきなさいな」
「はい。そういうことに、しておきますわ」
「あなたも、お座りなさいな」
「お勤めの途中ですわ」
「四半刻で、罰は当たりませんよ」
結局、押し切られて隣に腰を下ろした。いつもそうなのだ。この方の「お座りなさい」に、勝てたためしがない。
カティアは小鉢と匙を渡した。木陰を抜けてきた風の中で、大奥様はひと匙ずつ、ゆっくり食べた。
「あなたの手は、いつ見ても静かねえ」
「うるさい手では、お屋敷の厨房は務まりませんの」
庭の笑い声は、遠かった。誰も、こちらを見ていなかった。それでいい、と思っている自分がいた。この長椅子の静けさは、七年でいちばん上等な部類の時間だった。
当主の弟のエリクは、用もないのに厨房へ来る。
「西の橋が落ちたらしい」
その日の第一声が、これだった。戸口の柱に肩を預けて、干した杏をひとつ摘まんでいる。
「まあ。どなたか落ちましたの?」
「橋だけだ。馬車が二日、遠回りになる」
「それは、都の菓子が二日遅れますわね」
「かもな。困る者がいるのか、それ」
「若奥様のお茶会が、ひとつ延びますわ」
エリクは声を出さずに笑って、次は馬の話をした。
「厩の栗毛が、また柵を越えた」
「まあ。今度はどちらまで」
「隣の麦畑だ。麦を三列食って、満足して帰ってきたらしい」
「大物ですわね」
「厩番は半泣きだった」
馬の話が終わると、都の噂になった。
「都では、羽根つきの帽子が流行ってるらしい」
「まあ。どんな鳥の羽根ですの」
「知らん。白いほど高いそうだ」
「白ければよろしいなら、裏の池の鵞鳥で間に合いますわね」
「その帽子は、都で笑われるだろうな」
そこまで話すと、帰っていく。いつもそうだ。
三年前から、十日に一度はこれがある。当主の弟が下がってくる場所ではないのに、来る。
「エリク様は、なぜ厨房にいらっしゃいますの」
一度だけ、訊いたことがある。
「涼しいからだ」
(竈が二つ燃えてますのに)
真顔でそう答える人なので、それ以上は訊かなかった。訊いても出てこないものは、練っても膨らまない生地と同じで、置いておくしかない。
エリクは、祖母の話をしない。三年通って、大奥様の「お」の字も出たことがない。菓子の話もしない。うまいともまずいとも、甘くないとも言わない。天気と、馬と、都の噂。それで帰る。
「エリク様、今日もいらしてたんですね」
ミナが芋の皮を剥きながら言う。
「ええ」
「なんのご用なんでしょう」
「涼みに、ですって」
「厨房、暑いですけど」
「暑いですわね」
ミナは真面目な顔で、しばらく考え込んでいた。カティアは鍋に向き直る。用もないのに来る人の用は、訊いても出てこない。灰色の按配だけが、今日も変わらずそこにあった。
大奥様の部屋には、夕方に行く。
湯を張った湯呑みと、灰色の塊をひとつ。匙で崩して、とろみにして、手の甲に一滴落として温さを確かめる。熱すぎては駄目で、冷めても駄目だ。三年続けてきた、日の終わりの仕事だ。
部屋には、物が少ない。若い頃の飾り物はあらかた手放して、残っているのは先代の絵姿と、窓際の椅子がひとつ。物の少ない部屋は、匙の音がよく通る。だからここでは、匙も鳴らさない。
「今日のは、杏が入っているのね」
「分かりますの?」
「分かりますよ。三年も食べていれば」
アグネスは匙を口に運ぶ。ひと匙ずつ、ゆっくり。喉が動くのを見届けてから、カティアは次の匙を渡す。急がない。急がせない。その決まりだけで、この部屋の夕方は三年回ってきた。
「若奥様は、よく笑う子ね」
「ええ。お声の明るい方ですわ」
「この家は長いこと、年寄りの静けさに付き合わせてきたから。ちょうどいいのよ」
窓の外で、日が暮れかけていた。その日、匙が半分まで進んだところで、アグネスが手を止めた。
「カティア。もう、いいのよ」
「……何が、ですの」
「あなたの鍋のこと。明日からは、いいの」
「明日も作りますわ。明後日も、その先も」
「若奥様がいらしたでしょう。この家の台所は、これから新しくなるの」
「新しくなっても、大奥様の菓子は変わりませんわ」
「カティア」
静かな声だった。責める声ではない。ただ、決めた人の声だった。
「嫁いできて三月の子に、年寄りの喉のことを最初に覚えさせるのはあんまりでしょう」
匙が、カティアの手の中で止まった。
言い返す言葉は、いつもならある。明るいのを、ひとつやふたつはすぐ出せる。それも仕事のうちだと思ってきた。
喉のことならお任せを、は違う。若奥様に知られないように続けますわ、も違う。どれを口にしても、この人が決めたことを軽くしてしまう。
それに、と思う。「続けさせてください」と頼むのは、順番が逆だ。この三年、頼まれて作ってきたものでは、最初からないのだから。
——何も、出てこなかった。
大奥様は笑って、カティアの手から匙を取った。残りは、自分で口に運んだ。ひと匙ずつ、ゆっくり。全部食べてから、言った。
「おいしかった。三年、おいしかったですよ」
いつも通りに器を下げて、いつも通りの挨拶をした。声は、いつも通りに出た。それが自分でも、少し不思議だった。
部屋を出ると、廊下は長かった。空になった器は、今日も鳴らずに盆へ戻った。
翌朝も、カティアは鍋を火にかけた。
もういいと言われて、はい分かりましたと答えた。それで手が止まるくらいなら、七年もこんな菓子を煮ていない。塊は六つできた。布に包んで、竈の脇に置いた。
昼前に、厨房へ人が来た。ベアトリスと、家令と、見たことのない男がひとり。男は白い上着を着て、竈も鍋も棚も、値踏みするように見回した。棚の覚え帳を手に取って、二枚めくって、すぐ戻した。読む値打ちを測る手つきだった。
「都から来ていただいた、菓子職人の先生よ」
ベアトリスの声は明るかった。
「宴もこれからのお茶も、この方にお任せすることにしたの。あなたは、今日まででいいわ」
あっさりしていた。悪意で研いだ刃ではなく、荷物の置き場所を決めるときの言い方だった。この人の中で、カティアは荷物の側なのだ。
(荷物あつかいは、初めてですわね)
カティアは前掛けの紐をほどかず、一歩だけ前へ出た。
「かしこまりましたわ。ひとつだけ、申し上げます」
「なに?」
「大奥様は、宴の菓子を飲み込めません」
ベアトリスが、まばたきをした。
「細かく刻んでも、喉で詰まります。大奥様のぶんだけは、別の誂えが要りますの」
ベアトリスは扇を閉じて、聞いていた。聞いてはいる。聞いたうえで、届いていない。それが顔で分かった。眉が少し寄って、それから、ほどけるように笑った。
「甘くない菓子は、菓子ではないでしょう? 刻めばよろしいのでしょう」
嘲りではなかった。安心させる声だった。難しい話を、自分に分かるところまで畳んで置いた、という声だ。
「あの方は、わたくしの家から連れてきた職人なの。都で三本の指に入る腕よ。年寄りへの気遣いくらい、心得ていらっしゃるわ」
それで話は終わった。白い上着の男は、もう竈の火加減を見ていた。
柱の陰で、ミナが何か言いたそうにこちらを見ていた。カティアは小さく首を振った。下働きの娘が口を挟んでいい場面ではない。この子の奉公は、これからも続くのだ。
荷造りの前に、鍋を洗った。洗って、拭いて、元の釘に掛けた。誰が次に使うのでも、すぐ使えるように。七年、そうやって一日を終えてきた。最後の日だけ変える理由が、見つからなかった。
荷造りは、半日で済んだ。七年いて、荷は袋ふたつ。
勝手口の外で、従者がその袋を開けさせた。
「都の先生が、型を持ち出されては困ると仰るので」
石の段の上に、カティアの七年が並べられていく。
着替えが三枚。うち一枚には、男爵家の紋の刺繍を解いた跡がまだ残っている。冬の肩掛けがひとつ。最初の冬に、町の古着市で買ったものだ。木の匙が一本。握りのところが、手の形に減っている。
焼き型の寸法を写した紙の束は、家のものだと言われて抜かれた。残りは、それで全部だった。七年は、石の段の上で、たいして場所を取らなかった。
従者は几帳面な男で、ひとつ検めるたびに小さく頭を下げた。
「畳み方が、雑ですわね」
そう言うと、従者は詫びて肩掛けを畳み直した。この人も、悪くない。誰も悪くないまま、七年が石の上に並んでいく。
家令が、灰色の表紙の帳面を袋に押し込んだ。
「これは、私物ですから」
覚え帳だ。三年、塊を煮るたびに書いてきた。固さ、量、湯の按配、喉の調子の見方。台所の棚に置いてきたのは、家の役に立つ紙だと思っていたからだ。
私物。そうか、あれは私物だったのか。三年、家の紙のつもりで書いてきた。家のほうは、そう思っていなかったらしい。
最後に、従者が竈の脇から布の包みを持ってきた。六つの、灰色の塊。それも袋の口へ押し込まれた。
「都の先生が、厨房に残すなと」
カティアはその手元を見ていた。六つ。もって、六日の数だ。それがいま、この家の台所から、彼女の古着の間へ移された。
「割れ物は、ございませんわ」
従者が顔を上げた。カティアは笑って、袋の口をしばった。
門を出るとき、振り返らなかった。振り返る代わりに、袋を抱え直した。布越しに、角の丸い重さが六つ。荷物は、来たときよりひとつ増えた。増えたぶんが、この六つだった。
屋敷の窓に、灯りが入りはじめていた。夕餉の支度の刻限だ。今日の竈の火加減を考えそうになって、やめた。もう、彼女の火ではない。
井戸の陰で、ミナが前掛けを握って立っていた。手を振ると、ミナは前掛けで顔を覆ってしまった。
(泣くほどのことでは、ありませんのに)
塊が六つ、荷物として門を出る。それだけのことだと、見送る側は思っていた。
町の焼き菓子屋には、三日目に拾われた。
「竈の前に立てるんなら、明日から来とくれ。うちは口より手を見るよ」
女主人のゾフィーは、カティアの手を一目見て、それで雇った。
朝から焼くのは、杏の入った丸い菓子と、蜂蜜を塗った平たい菓子だ。甘い匂いが、久しぶりに前掛けに染みた。
「あら、お上品な売り子さんだこと」
「本日は、杏がよろしくてよ」
「ふふ。じゃあ、それを三つ」
「ですわ」で客あしらいをすると、奥様がたが面白がって買っていく。昼には棚が空いて、翌日は倍焼けと言われた。
朝いちばんの竈では、売り物の前に、灰色の塊を六つ煮る。
「そりゃ何だい」
「賄いですわ。日持ちがよろしいの」
半分は本当だ。残りの半分は、説明すると長い。ゾフィーは肩をすくめて、それきり訊かなかった。訊かない人の店は、働きやすい。
店の竈は屋敷のより小さくて、癖があった。三日で手なずけた。火と粉の言い分は、どこへ行っても筋が通っている。人の言い分より、よほど。
昼の客が、店先で噂をしていく。
「お屋敷の若様の式は、都で挙げたんだとさ」
「三日後がお披露目の宴だろう。都の職人が来てて、砂糖細工を四十人分こしらえるって話だよ」
「銀箔つきだとさ。食べるのがもったいないね」
「もったいないのは、お代のほうだろうよ」
カティアは、蜂蜜の刷毛を止めなかった。四十人分の砂糖細工。都の流行りの、白くて固くて、きらきらした細工物。
刷毛は止めない。止めないが、頭の隅で誰かが算盤を弾いている。あの細工は、刻んでも固い。
「あんた、甘いの作れたんだね」
夕方、ゾフィーが売上げの銅貨を数えながら言った。
「作れますわ。四年焼いてましたもの」
「浮かない顔だね」
「浮いてますわ。……甘いのは、楽ですわ。売れるのが、ちょっと悔しいだけで」
宴の日は、町も朝から騒がしかった。屋敷へ上がる坂道を、酒樽の荷馬車が何台も登っていく。店の客の口数も、いつもより多い。朝のうちに、宴の見物に行くという客が、焼き菓子をきれいに買い占めていった。
その日の昼に、エリクが店へ来た。
上等の上着を着て、戸口で少し迷ってから入ってきた。厨房の戸口とは、勝手が違うらしい。
「宴の支度で、都に出ておりましたの?」
「……ああ。戻ったら、厨房に君がいなかった」
「ええ。町で、甘い菓子を焼いておりますの」
エリクは売り台を見た。杏の菓子と、蜂蜜の菓子。それからカティアを見て、何か言いかけて、やめた。
「おひとつ、いかが。杏がよく煮えてますのよ」
「……いや、いい」
甘いものは食べない人なのかもしれない。三年いても、知らないことは、まだある。
「今夜の献立は、ご覧になりまして?」
カティアのほうから訊いた。
「見た。都のやり方で、前菜から菓子まで四十人前が同じ皿だそうだ」
「まあ。豪勢ですのね」
「都では、それが粋らしい。四十人、同じ皿。欠けも別けもなしだと」
「……大奥様のお膳も、同じですの」
「別誂えがあるとは、聞いてない」
「大奥様も、お出になりますの」
「当然だろう。兄の披露目だ」
刷毛が、止まった。手の先で、蜂蜜がひとすじ糸を引いて落ちた。
「エリク様。今日のご用は、なんでしたの」
「……別に」
「そうでしょうね」
カティアは前掛けを外した。棚から布包みを取って、腰に結ぶ。中で、角の丸い重さが六つ、鳴らずに動いた。
「ゾフィーさん、少し出てまいりますわ。竈の火は落としてありますの」
「おや、どこへ」
「七年勤めた先に、忘れ物ですわ」
エリクは止めなかった。戸口を空けて、それから小さく言った。
「……急げ」
ゾフィーが釣り銭の手を止めて、二人を見比べていた。事情を知らないなりに、何かは分かる顔だった。
町から屋敷までは、歩いて半刻の道だ。走らない。揺らせば塊が欠ける。速く、音を立てずに歩いた。
裏庭は暗く、窓だけが明るかった。広間の窓は燭台の数だけ橙に染まって、音楽が壁越しにくぐもって届く。
勝手口の戸を叩くと、ミナが開けた。
暇を出された使用人が、宴の晩に裏の戸を叩く。本当なら家令を呼ばれておかしくない。ミナは何も訊かなかった。訊かずに身体を引いて、道を空けた。
「……お帰りなさい」
小さな声だった。カティアは頷いて、敷居を跨いだ。出て行かされた戸から入るのは、初めてだった。
配膳の廊下は、湯気と足音でごった返していた。白い上着の弟子たちが、銀の皿を捧げ持って行き交う。誰もカティアを見ない。忙しい廊下では、迷いなく歩く者は景色になる。どこを歩けば邪魔にならないか、七年の足が覚えていた。
突き当たりで、給仕頭とすれ違った。目が合った。給仕頭は何も見なかった顔で、皿の列へ戻っていった。この屋敷には、そういう大人が何人かいる。
厨房の前を過ぎた。開いた戸の奥に、彼女の竈が見えた。火加減は、悪くなかった。それも、認める。匂いは、変わっていた。バターと、焦がした砂糖と、知らない香料の匂い。三日あれば、厨房は別の場所になるらしい。
広間の手前で、足を止めた。
扉の隙間から、光と音が漏れている。弦の音。杯の触れ合う音。四十人ぶんの笑い声。
銀の長卓に、燭台の火が並んでいた。卓の中央で光っているのは、白鳥をかたどった銀箔の砂糖細工だ。翼の羽根の一枚一枚まで、砂糖で起こしてある。
見事だった。都で三本の指という触れ込みは、嘘ではないらしい。今夜の主役は、料理よりあの白鳥だった。客の扇が、何度もそちらを指す。
宴は、佳境らしかった。当主が短い口上を述べて、杯が上がる。上座のベアトリスは、今夜がいちばんきれいに見えた。都から嫁いで三月、この宴はあの人のお披露目で、あの人の夜だ。それは、そうであっていい。
上座の隣に、アグネスがいた。
濃い色の礼服を着て、背筋を伸ばして、笑っている。三年、菓子の出る席をよけてきた人が、今夜は座っている。
婚礼の宴だけは、大奥様が卓を欠かせない。家の祝いに大奥様が欠ければ、それはこの家の不和として語られる。若夫人のお披露目なら、なおさらだ。
そして客の前で出された祝いの品を、あの人は断らない。断れる人なら、三年も席をよけてはいない。
アグネスは、運ばれる皿をほとんど手つかずのまま下げさせていた。年寄りの少食を、気に留める客はいない。三年、あの人はそうやって、気に留められずに済ませてきたのだ。
給仕が、細工の切り分けを配りはじめていた。皿が、上座から順に置かれていく。アグネスの前にも、置かれた。隣の席の客が、にこやかに何かを勧めている。
(およしになって)
声には、ならなかった。扉から卓までは広間の半分あって、あいだには人の壁と、祝いの空気と、四十人の目があった。
止める間は、なかった。
アグネスは形だけ、細工の端を口に運んだ。
カティアは、広間へ足を踏み入れた。
「カティア? どうして、あなたがここに」
ベアトリスが立ち上がった。銀の長卓の向こうで、四十人の客が一斉にこちらを見る。
誰も、まだ気づいていない。
卓の中央で、アグネスが小さく咳をしていた。皿の端に、祝いの一口にと勧められた砂糖細工の欠片が、割れて残っていた。口元に当てた手のひらの、指の開き方だけが違う。三年前の冬と、同じ開き方だった。
カティアはベアトリスを見なかった。卓の脇まで歩いて、アグネスの背に手を当てる。
「大奥様。吐くほうを先に。……そう、そのまま」
背を上から下へ、三度。四度目で、アグネスの喉が鳴った。細く、長く、息が通った。
広間が、静かになった。
「……水を持ってこさせるわ」
「水では戻りません」
カティアは腰の布包みを開いた。中から出てきたのは、灰色がかった小さな塊が六つ。金も砂糖も乗っていない。
「湯を、湯呑みに半分。それだけくださいまし」
誰も動かなかった。厨房の下働きの娘がひとり、走った。
湯に落とすと、塊は音もなく崩れた。とろりとして、匙で持ち上げても落ちない。カティアはそれをアグネスの唇に運んだ。
アグネスの喉が、今度は一度で動いた。
客の誰かが、はっきりと息を吐いた。
「……甘くないのね」
ベアトリスが言った。責める声ではなかった。ただ、分からない、という声だった。
「甘くありません」
カティアは匙を置いた。指がまだ震えていて、置くときに縁へ当たって鳴った。七年、一度も鳴らしたことのない音だった。
「飲み込めるところまでが、菓子ですの」
ベアトリスの手が、椅子の背を探した。探して、掴めずに、そのまま下りた。卓の上には、四十人分の砂糖細工が並んだまま、誰ひとり手をつけていなかった。
「……刻めばよいのだと、思っておりましたの」
「はい。そう申し上げる方が、いちばん多うございます」
翌朝、カティアは呼ばれる前に屋敷へ行った。表の門からだ。
門番はカティアの顔を見て、少し迷って、それから何も訊かずに通した。昨夜の広間の話は、もう屋敷中を回っているらしかった。
客間に通されるまで、待たされなかった。ベアトリスは化粧の薄い顔で座っていて、ひと晩で少し痩せて見えた。
「……戻って、いただけるの」
「戻りますわ。厨房に、大奥様の鍋をひとつ置かせてくださいまし」
「ひとつと言わず、全部——」
「ひとつで結構ですの。甘い菓子は、腕のいい方がいくらでもおりますわ」
「カティア。あの夜のことは——」
「お済みになったことですわ」
遮り方が強すぎたかと思ったが、ベアトリスは小さく頷いた。頷き方が、三月前より遅くなっていた。
都の職人は、宴の翌日に都へ発ったという。それについてカティアは何も言わなかった。言うことが、特になかった。
給金の話は向こうから出て、カティアは頷いた。よく聞いていなかったので、月の終わりに額を見て驚くことになる。
厨房へ戻ったのは、三日後だ。宴の晩に置いてきた残りの五つが、そろそろ尽きる頃だった。
戻った朝、カティアは風呂敷から帳面を出した。紐で綴じた、灰色の表紙。三晩かけて写した、覚え帳の写しだ。固さ、量、湯の按配、喉の調子の見方。三年が、全部書いてある。
「これを、台所に」
「……いいの? あなたの、大事なものでしょう」
「写しですわ。それに」
カティアは、帳面をベアトリスの前へ押し出した。
「これは、この家の台所の記録ですから」
「…………」
「誰が火の前に立っても、作れるように書いてありますの」
ベアトリスが、写しを両手で受け取った。
両手で受け取るものだと、この人はもう知っている。それで十分だった。
厨房に戻って、十日が経った。鍋は元の火に掛かっている。
エリクは、相変わらず来る。
「東の橋も、危ないらしい」
「あら。今度は落ちる前に分かりましたのね」
「大工の手柄だ。俺じゃない」
どうでもいい話だ。三年と少し、聞いてきた種類の話だ。カティアは鍋をかき混ぜながら、ふと匙を止めた。
「エリク様。そういえば、うかがい損ねたままですわ」
「なにを」
「なぜ厨房にいらっしゃるの。涼しいから、以外で」
エリクはしばらく黙っていた。干した杏をひとつ摘まんで、また戻した。
「三年前の冬だ。夜中の廊下で、祖母の背をさすってる人がいた」
カティアは、匙を止めたまま聞いていた。
「俺が厨房に来るようになったのは、それからだ」
それだけ言って、あとはいつもの顔に戻った。理由の、そのまた理由は言わない。カティアも訊かなかった。言い終えた顔は、少しだけ軽くなって見えた。
(……栗の夜ですわ)
都から届いた栗の菓子が、大奥様の喉で止まった夜だ。丸一日、息が細かった。あの晩の廊下は寒くて長くて、背をさすりながら、カティアは決めたのだ。この喉が飲み込めるものを、明日から作ろうと。
誰かに頼まれたわけではない。だから誰にも説明しなかった。その廊下を、この人は見ていたらしい。三年、その話をせずに。
あの夜から、大奥様は栗を口にしていない。好物だったのに、と思う。……好物だったから、なのかもしれない。
昼過ぎに、ミナが注文を運んできた。
「若奥様から、今日のお茶は家族の席にするそうです。甘い菓子を四人前と——」
ミナはそこで、なぜか胸を張った。
「大奥様のぶんを、ひとつ」
「承りましたわ」
「それと、カティアさんのぶんも焼くようにと。席がひとつ、増やしてあるからと」
カティアは、鍋の火を少し強くした。
午後いっぱいかけて、甘い菓子を焼いた。杏を煮て、生地を寝かせて、焼き上がりに蜂蜜を刷く。この家の竈で甘い菓子を焼くのは、三年ぶりだった。手順は、指が覚えていた。
焼き上がりの匂いに、ミナが三度も竈を覗きに来た。味見と言って切れ端を渡すと、跳ねるようにして持ち場へ戻っていった。
それから、いつもの塊をひとつ、湯呑みの湯で崩した。匙が立つほどでもなく、流れるほどでもない、いい按配のとろみになった。
昼下がりの小さな食堂に、楢の古い丸卓が出ていた。銀の長卓ではない。席は、五つ。
当主が咳払いをして、椅子をひとつ引いた。大奥様の椅子だ。
「祖母上。どうぞ」
アグネスが戸口に立って、部屋をゆっくり見回した。誰も何も言わなかった。言わないまま、みんなが少しずつ自分の椅子を直した。
大奥様は、椅子の背に手を触れて、一拍だけ止まった。三年ぶりの席は、座るのにもひと呼吸が要るものらしい。それから、腰を下ろした。
カティアは盆を運んだ。甘い菓子が四つ。灰色の器が、ひとつ。
手は、鳴らない。今日も鳴らない。あの晩に一度だけ鳴って、それきりだ。
ベアトリスが茶を注いだ。注ぎ口が少し急いで、零れかけた。エリクが黙って受け皿を替えた。
エリクが、菓子をひと口で半分にした。
「……うまいな」
「三年通って、初めての感想ですわね」
「初めて食ったからな」
「まあ。では三年、なにをしにいらしてたのかしら」
「話をしに」
小さな笑いが卓を回って、それから、しずかになった。窓の外で、初夏の風が生垣を揺らしていた。
匙が、アグネスの前に置かれた。空いたままだった席に、今日は皿がある。
アグネスが匙を取る。喉が、一度で動いた。ベアトリスを見て、それからカティアを見た。
「道楽の菓子で、人が三年生きられるものですか」
カティアは、自分のぶんの皿を引き寄せた。焼いたばかりの、甘い菓子だった。
「今日は、甘いところまでが菓子ですの」




