距離の測り方
焚き火の前で、彼女は遺跡の話をしていた。
潮汐データと魔素濃度。閾値監視のシステム。千年前のネットワーク。言葉の半分は俺には理解できなかった。だが彼女の声が弾んでいることはわかった。目が輝いていることも。
炎に照らされた横顔を、見ていた。
見ていてはいけないことは、わかっていた。
配属初日に初めて会ったとき、この仕事は短期の繋ぎだと思っていた。新任の調査官。研究機関上がりの若い女。遺跡の中を案内して、安全を確保して、数日で終わる。そういう依頼を何度もこなしてきた。
地下に降りて、彼女が壁面の回路に夢中になった瞬間、少しだけ予感がした。
この人は、遺跡の中でしか見せない顔がある。
それは護衛として知るべきことだった。依頼主の行動パターンを把握するのは仕事の基本だ。彼女は回路に夢中になると周囲を忘れる。足元を見ない。時間を忘れる。照明の角度に無頓着で、暗い場所で目を凝らしてスケッチを描こうとする。
だから灯りの角度を調整した。仕事だ。
だから足元の段差を声で知らせた。仕事だ。
だから、三時間ぶっ通しで壁に向かって喋り続ける彼女の言葉を、全部聞いていた。
——それは、仕事だったのか。
長期契約の打診があったとき、断るべきだと思った。
短期ならいい。数日の依頼なら、意識が残る前に終わる。だが長期契約は違う。毎日顔を合わせる。毎日、あの早口を聞く。毎日、灯りの角度を合わせる。
断る理由を探した。他に条件の良い依頼がある。長期拘束は経営上のリスクだ。別の護衛でも問題ない。
どれも嘘だった。
「承知しました」と言った。あの間は——計算ではなかった。自分に嘘をつく準備をしていた。
沿岸遺跡の野営で、焚き火の前に二人で残った。
仕事が終わった後の時間。ダリンとペトラは寝ている。波の音だけが聞こえる。
彼女がスケッチブックを広げて、仮説を口にしていた。潮汐の記録。ネットワーク。二つの遺跡の接続。声が弾んでいる。手が速く動いている。
俺は装備の手入れをしていた。見ていない振りをしていた。
嘘だ。
彼女の横顔を見ていた。焚き火の炎に照らされて、眼鏡のレンズが光を反射する。額に上がった眼鏡の奥の目が、スケッチブックの線を追っている。インクで汚れた指先が鉛筆を走らせる。
綺麗だと思った。
思った瞬間に、封殺した。依頼主だ。年下の。雇用関係にある。この感情は不適切だ。
翌日、「どうしてこの仕事を」と聞いた。
なぜ聞いたのかは、自分でもわからない。個人的な質問をする必要はなかった。護衛として、依頼主の職業上の動機を知っておくことは——有用ではあるが、必須ではない。
彼女は子どもの頃の話をした。遺跡に触れた日。千年前の人が何を考えていたのか知りたくなった。
焚き火の向こうで、あの日の記憶を語る声は柔らかかった。
「あなたは?」と聞き返された。
「人を守る仕事が性に合っていた」と答えた。嘘ではない。だが全部でもなかった。「自分に正直でいられる」と言いかけて、口を閉じた。水筒の蓋をきつく締めた。
三日目。高潮の中を撤退した。
彼女の足が滑ったとき、体が勝手に動いた。考える前に手が伸びていた。左手首を掴んで、引き上げた。
細い手首だった。海水で冷えた肌の下に、脈が速く打っているのが指先に伝わった。
彼女が安定した瞬間に、手を離した。
離さなければならなかった。
一秒でも長く触れていたら、手が震えるところだった。彼女の脈拍を感じたまま立っていたら、自分が何を考えているのか全部顔に出るところだった。
「大丈夫ですか」
声が平静だったかどうか、自信がない。
「——はい。ありがとうございます」
彼女の声は少し震えていた。恐怖だろう。滑りかけた恐怖。スケッチブックが濡れるかもしれないという恐怖。それだけだ。
それでいい。
デルガに戻って、彼女は報告書を書いていた。
執務室の隅で、俺は装備の手入れをしていた。革の音と金属の音。窓の外の港の喧騒。その中で、彼女のペンが紙を走る音だけを、俺は聞いていた。
集中している。報告書に没頭しているとき、彼女はペンを止めずに書き続ける。遺跡の中で壁面に向かうときと同じだ。周囲が消える。
護衛評価の欄に、何を書いたのだろう。
知りたいとは思わなかった。知っても仕方がない。どうせ、仕事上の評価だ。「適切」とか「的確」とか、そういう言葉が並んでいるのだろう。
夕方、報告書を提出した彼女が言った。
「適切な判断力と対応速度。継続配置を推奨」
直接そう言ったわけではない。だがヴァルトに提出する前に、彼女が護衛評価の欄を見直していたとき、俺の位置からその文面が見えた。見るつもりはなかった。目に入った。
適切。
その言葉が、今は少しだけ痛い。




