名前のない感情
ノルの工房に、金属板を持っていった。
扉を叩くと、今回は比較的すぐに開いた。ノルは作業台に向かっていて、振り返りもせずに「入れ」と言った。以前より対応が早い。慣れたのだろうか。
「また来たのか。……何だ、今回は現物を持ってきたのか」
耐魔素ケースから金属板を取り出して、作業台に置いた。ノルの目つきが即座に変わった。面倒くさがりの顔が消える。
「記録室で見つけたものです。ネットワーク概念図と——ここに、見たことのない記号があります」
ノルはルーペを手に取り、金属板に顔を近づけた。長い時間、表面を観察した。指先で記号の刻印を辿る。
「これは回路の制御記号だ」
「制御記号?」
「ネットワークの動作を定義するものだ。回路そのものではなく、回路に対する『命令』に近い。こうしろ、ああしろ、という指示を記号化している」
私は椅子の端に座り直した。制御記号。ネットワークの動作を定義する記号。
「つまり旧文明は、ネットワークを制御する仕組みを持っていた」
「そうだ。回路を敷くだけじゃなく、回路の動作を外部から制御できた。この記号群は——ネットワーク全体のオペレーションマニュアルのようなものかもしれない」
ノルは金属板を裏返した。裏面にも記号が刻まれている。
「解読には時間がかかる。だが構造は見えた。記号と記号の組み合わせに規則性がある。暗号ではなく、体系的な記述言語だ。辞書さえ作れれば、読める」
「辞書を作るのにどれくらい——」
「わからん。サンプルが多ければ多いほど早い。もっと持ってこい」
ノルの目が真剣だった。面倒くさがりの殻が完全に剥がれている。この人は本気だ。
「記録室にはまだ大量の金属板があります。次の降下で追加のサンプルを持ち帰ります」
「急げよ。この記号が読めれば——旧文明がネットワークで何をしていたのかがわかる。制御技術そのものが解明される可能性がある」
ノルはそう言ってから、付け加えた。
「だからこそ、軍が欲しがるだろう。制御技術は——使い方次第で何にでも化ける」
ヴァルトと同じことを言っている。ガゼルとも。
「記録の客観的保存を優先します。制御記号の解読結果は、学術記録として公開します」
ノルは鼻を鳴らした。
「立派な信条だ。だが軍相手に通るかどうかは——まあ、お前の仕事だ。俺は鑑定する」
工房を出ようとしたとき、奥の部屋からリタが現れた。
今日も遺物を持ち込んでいたらしい。大きなリュックを背負って、汗をかいている。
「あ、メイラさん! また来たんだ!」
リタは駆け寄ってきて、嬉しそうに笑った。
「今日は記録室の金属板を持ってきたんです。ノルさんに制御記号の分析を——」
「うんうん、聞いてた聞いてた。ノル、すごい集中してたよ。話しかけても返事しなかった」
「いつものことだろ」とノルの声がした。
リタは私の隣に立って、金属板を覗き込んだ。
「へー、これが記録室の。すごいね、きれい」
「千年前のものとは思えない保存状態です」
「ね——あ、そうだ」
リタが何か思い出したように手を叩いた。
「メイラさん、ちょっと」
リタは私の腕を引いて、工房の入口に連れていった。トーマが立っている場所の、反対側。
小声で言った。
「ねえ、あの人——護衛さん。あなたを見る目が違うよ」
心臓が跳ねた。
「……え?」
「前にも言ったでしょ、『ずっと見てるよね』って。あのときは安全確認だって言ってたけど。今日も見てたよ。メイラさんがノルと話してるとき、ずっと。安全確認じゃない目で」
リタの目は真っ直ぐだった。からかっている顔ではない。
「安全確認じゃない、というのは——」
「わかるよ、そういうの。女の子にはわかる」
リタはにっと笑った。
「まあ、私の勘違いかもしれないけどね。でも、気にしてみて」
工房を出た。
通りに出て、午後の日差しの中を歩いた。
トーマが隣にいた。
リタの言葉が頭を離れなかった。
「あの人、あなたを見る目が違うよ」
安全確認じゃない目。
横目で、トーマの横顔を見た。いつもの顔だ。寡黙で、感情を見せない、プロの護衛の顔。
だが——
彼の記憶力。お茶の好み。頭痛のタイミング。灯りの角度。寝るときに光が気になること。全部知っていた。
「護衛として優秀だから」。
その説明を、もう一度組み立てようとした。
護衛は依頼主の好みを把握する。体調の変化に気を配る。それは仕事の一環だ。経験豊富な護衛なら当然のことだ。
当然のことだ。
——本当に?
本当に、すべての護衛がここまでするのだろうか。
好みの茶を覚え、頭痛が出るタイミングを覚え、スケッチに没頭すると水分を忘れることを覚え、灯りの角度を——三時間もかけて——調整してくれる護衛が、世の中にどれだけいるのだろう。
説明が、足りない。
「護衛として優秀だから」では足りない。
体のどこかが、それを知っている。頭ではなく、もっと奥の場所で。胸の奥で、何かが地層のようにゆっくりと動いている。
地層。旧文明の遺跡と同じだ。表面からは見えないが、掘れば出てくる。千年の堆積の下に、回路が走っている。
私の中にも何かが走っている。名前のつかない回路が。
トーマが隣を歩いている。彼の足音。呼吸のリズム。左肩はもう完全に回復している。
彼のことを何も知らない、と思ったのは三日前だ。好きな食べ物を知らない。趣味を知らない。家族の話を聞いたことがない。
知りたいと思った。そしてその「知りたい」は、業務上の必要性ではないことを、もう誤魔化せなくなりつつあった。
名前がつけられない。
この感情に名前をつけようとすると、言葉がすり抜ける。好意? 親しみ? 信頼? どれも近いが、どれも正確ではない。もっと——もっと大きなものが、胸の奥で静かに膨らんでいる。
遺跡の謎は解ける。回路のパターンを観察し、仮説を立て、検証する。答えに辿り着く方法を知っている。
この感情だけが、解けない。
分類できない。既知のどの類型にも当てはまらない。
局舎への坂を上りきったとき、トーマが言った。
「明日からの調査、気をつけてください」
いつもと同じ言葉だった。同じ声だった。
なのに、私の耳に残る時間が、少しだけ長くなっていた。
「……はい。あなたもお気をつけて」
いつもは言わない言葉を、付け加えていた。
トーマが一瞬、こちらを見た。目が合った。
彼の目の奥に何かがあった。いつもは読めない。今日は——少しだけ、何かが見えた気がした。だがそれが何なのかは、わからないまま消えた。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
道が分かれた。
宿への道を歩いた。一人で。
彼がいない帰り道は、いつもより少し静かだった。
歩きながら、スケッチブックを開かなかった。ノートも開かなかった。
ただ歩いていた。
夕暮れの港が見えた。灰白色の建物が茜に染まっている。船の帆柱が夕日のシルエットになっている。デルガに来た日と同じ風景。だが見えているものが、あの日とは違う。
あの日、私は回路しか見ていなかった。
今日は、回路ではないものが見え始めている。
まだ名前がない。分類できない。既知の類型に当てはまらない。
でも確かに、ここにある。
胸の奥で、地層のようにゆっくりと動いている。




