聖女の酔拳
「グボオオオオッ!」
ロックボアが、好機とばかりに巨大な口をカパリと開いた。
それはもはや突進や頭突きといった攻撃ではない。
捕食行動だ。
「なっ……!?」
さすがのクーネルもこれには驚いた。
度重なるダメージで意識が朦朧としているラクレスは迫りくる巨大な顎に気づく様子すらない。
そして、次の瞬間。
がぷり。
という、なんとも生々しい音と共に、ロックボアは動かなくなったラクレスを、その神々しい鎧ごと丸呑みにしてしまった。
「…………は?」
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
目の前で、クーネルの「お宝」であり、未来の「便利な盾」であるはずのラクレスが、豚猪の腹の中に消えた。
その事実を脳が認識した瞬間、先ほどまでのほろ酔い気分が、サーッと血の気が引くように醒めていく。
(なっ……!? ま、丸呑みじゃと!?)
頭が、真っ白になる。
(馬鹿な! 消化でもされたら、妾のお宝(鎧)が二度と回収できなくなるではないか! まずい! まずいまずいまずい!)
胃液で溶かされ、ドロドロになった鎧など、想像したくもない。
あの輝きが、あの神々しさが、豚の胃袋の中で汚されていく……!
冗談ではない! あれは妾のものだぞ!
「グェップ……」
ラクレスを飲み込み、満足げにげっぷをしたロックボアが、ぎろり、と赤い目でこちらを睨んだ。
メインディッシュの次はデザートといくらしい。
巨大な影が、焦るクーネルに覆いかぶさる。
「ひっ……!」
恐怖。
そして、それ以上に、お宝を失うことへの強烈な焦り。
その二つの感情が、クーネルの体内でくすぶっていた、あるものの蓋をこじ開けた。
クーネルの体を蝕む、神々の呪い。
人間が人間を律するために作られた、女神の涙。
しかし作った側も知らぬ、くだらない抜け穴があった。
そのバグは実際過去いくどか起きていても、誰も気づきもしない条件の重なりが必要だった。
例えば女神の涙を扱う人間が、べろんべろんに酔っぱらい、泥酔して意識がふわふわしながら、生死をかけた戦いをする。
そんなやつが、かつていただろうか?
そう、このクーネル以外、いなかったのだ。
呪いによって抑え込まれていた、元四天王としての力が、じわじわと体の芯から溢れ出してくるのが分かった。
「この……豚猪がァ……!」
目の前に迫るロックボアの醜い顔。
その口から漂う、生臭い息。
「……妾の宝を……返せえええええ!!」
クーネルの体が、無意識に動いた。
恐怖も焦りも全てが怒りへと変換される。
振りかぶった、か細い腕。
その小さな拳が、まるで冗談のように、突進してくるロックボアの鼻先を、軽く、コン、と叩いた。
コン。
それはあまりにもあまりにも軽い音だった。
迫りくる巨大な岩塊に対し、少女がデコピンをしたかのような、そんな場違いな音。
ロックボア自身、何をされたのか分からなかっただろう。
だが、次の瞬間。
ゴッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!
尋常ならざる衝撃が、ロックボアの巨体を襲った。
まるで、見えない攻城槌に真正面からぶん殴られたかのように、ロックボアの体は「く」の字に折れ曲がり、その場から浮き上がった。
「グモッ!?」
悲鳴すらまともに上げられず、巨体は放物線を描いて宙を舞い、背後の岩壁へと叩きつけられる。
凄まじい轟音と共に、岩壁に巨大な亀裂が走り、パラパラと岩屑が崩れ落ちた。
「……げぇ……」
衝撃でロックボアの口が強制的に開かれる。
その喉の奥から、消化されかかったラクレスが、ぬるりとした粘液まみれで、まるで鮭の産卵のように吐き出された。
(ふぅ。危ないところじゃったわい)
クーネルはふらつきながらも自分の拳を見下ろした。
酒のせいで、何がどうなってこんな力が出たのか、自分でもよく分かっていない。
完全ではないが、蛇将軍の力が使えたような気がした。
彼女はまず吐き出されたラクレスの状態を確認した。
左足の膝から先はなく、右腕は皮一枚でかろうじて繋がっているという、常人なら即死どころかミンチ待ったなしの惨状だ。
(……むごいな。だが、まあよい)
クーネルが気にしていたのはそんなことではない。
彼女の視線はラクレスの体ではなく、彼が纏う鎧に注がれていた。
(よし、鎧は無事じゃ! 傷一つついておらん! さすがは妾の鱗よのう!)
ラクレス本人の安否よりも鎧が無事であったことに、クーネルは心底安堵した。
その時だった。
ずる……ずるずる……。
奇妙な音がして、クーネルは音のした方を見た。
ロックボアの口の中から、先ほど食いちぎられたであろう、ラクレスの左足のブーツとすね当てが、まるで生き物のように這い出してくるではないか。
それは粘液を引きずりながら、ラクレスの千切れた左足の断面へと、ピタリと吸い付いた。
「なっ……!?」
次の瞬間、傷口が眩い光を放ち、肉と骨がみるみるうちに再生していく。
離れていた足と足が、あっという間に元の位置に戻り、傷口を塞ぎ始めた。
その光景は神聖というよりはむしろグロテスクで、ひどく気味が悪い。
(……うわ。なんじゃ、この鎧……。治り方がえげつないのう……)
さすがのクーネルもこの光景にはドン引きし、顔をしかめるのであった。




