きぐるいのさいだん
扉の先は祭壇のようだった。
奥に向かって、燭台に火が入っていた。
明らかに異常な光景に、キサは初めて足がすくむのを感じる。
揺らめく燭台の灯りに照らされた最奥の像が、ゆらゆらと動いて見えた。
異常な像だった。
目の下には、タコの触手のようなものがびっしりと生えている。まるで粘液で濡れているかのような生々しい質感の、しかし明らかにこの地球上にいるはずのない姿をした――像だった。
さらにその手前に――今度は女の像。
大きく両手を開いた姿で、穏やかに微笑んだ女はじっとこちらを見つめている。まるで、恋人に抱擁を求めているような。
だが大きな腕の内側にあるのは、あれは棘か。金属製と思しき棘が無数に生えた腕を大きく広げた姿は、どこかあの「鉄の処女」を思い出させた。
あんなものの抱擁を受ければ、おそらく助かるまい。
さらに、そのさらに手前には――
「……アヤト……」
「……どうして、来たの」
呼びかけに振り返った男は、ぼんやりとした表情でこちらを咎めてくる。
「俺のことなんて気にしないで、逃げればよかったんだ」
「――私がそうはしないと知っていたから、ここまで連れて来たんでしょう」
そう言うと、アヤトは少しだけ目をみはり、そして呟いた。
「驚いたな――どこまでわかってるの」
「まだなにも。でも、あなたが、アヤミちゃんに会いたがっているのは――なんとなく察してるつもり」
キサの言葉に、アヤトは沈黙で返す。キサは周囲の嫌な音を無視して叫んだ。
「アヤト……一緒に帰ろう!? アヤミちゃんは戻ってこないの。もう過去へは戻れないの!」
「うん、わかってるよ」
わかってない、そう叫びかけて、キサは思わず息を飲んだ。
アヤトの足元――そこに何かがいた。
大きさは大体、アヤトの腰あたり。
ちょうど、アヤミが消えた頃の身長と、同じくらいの。
愕然とするキサの目の前で、ためらいもなくアヤトはそれの伸ばした濡れそぼったものを握り返す。
妹と手を繋ぐ兄のように。
「クトゥルフは海の底で夢を見る。いつからそうなのかは知らない。けれど、それは太古の昔より遥か前。
人間にとってその夢は、『永遠に醒めない夢』だ」
異常な状態に、キサは言葉を失った。アヤトは穏やかに微笑んだまま、言葉を重ねていく。
「夢なんだよ、これは全部。何もかも夢なんだ。人間の力では決して醒ますことのできない夢。永遠に続く夢。
そのために、きっとこの遊園地の運営者は、こんなたいそうなものを作って、大量の血と、苦痛と、断末魔を集めて、
そしてほんの少し、隅のすみ、クトゥルフ自身も気づかないところに、間借りさせてもらったんだ。
永遠に醒めない、子どもたちの笑顔と笑い声で溢れる、遊園地の夢を。いなくなった子供達が、ずっと遊び続ける夢を」
そのとたん、アヤトの周囲で音が響いた。
あの名状しがたい音の羅列が、一斉にアヤトの言葉を肯定するかのように。
「キサの言った通りだ。アヤミはもう戻らない。わかってるよ。
あの子は夢の中にいるんだから。永遠に醒めない夢の中で、ずっとずっと、遊んでいるんだから。――でも」
穏やかなアヤトの顔が曇る。
「――足りないんだって」
言いながら、アヤトは握ったままの「なにか」を見つめる。可愛い可愛い妹を見る、兄の顔で。
「足りないんだ。あの子の夢には、まだ登場人物が足りないんだよ」
「足りない?」
嫌な予感がする。こんなキサは震えながら聞き返した。
いや――わかっている。アヤトが「足りない」と言った、誰が足りないのか。
「俺とキサ。
アヤミは、3人で遊ぶのが一番好きだったんだから」
アヤトの言葉に、キサは後ずさった。
わかっていた。アヤトが気さをここまで連れてきたのは、アヤミに会いにいくのが自分1人であってはならないからだ。
だが――キサは思う。
アヤトにそうと求められ、キサはそれを拒みきれるのか。
知らないわけがないではないか。妹を失ったアヤトが、いかに心を傷つけられたか。
自分も、そうだったのだから。
会えるものなら会いたいと、そう思っていたのは、アヤトだけではないのだから。
しかし――しかし。
「こんなの……こんなの間違ってる!」
キサは渾身の力を振り絞って叫んだ。
「だって……そんな得体の知れない夢にすがっても、アヤミちゃんは戻ってこないの! お願いアヤト、正気に戻って。諦めて帰るって言って!」
「……」
「おねがいだから!」
「――バカだな、キサは」
静かに、まるでお化け屋敷の張りぼてのお化けに怯える幼馴染をからかうような軽い口調で、アヤトは笑った。
「最初に言っただろう、知ろうと近づけば正気を失い、やがては気が触れる。『これ』はそう言うたぐいのものだって。
――今さら正気に戻れるほど軽い狂い方、してると思うの?
この拷問部屋のことを知ってから今までずっとずっと、『永遠の夢』に至る道を探し続けてきた俺が」
アヤトのその顔は――生気を失っていた。
思わず声にならない悲鳴をあげてしまったキサに、アヤトは足元の「なにか」を見下ろす。それからその目線まで膝をついて、優しく話しかけた。
「本当はキサにもこっちへきてもらいたかったけど……もう少し時間がかかりそうだな。
アヤミ、キサ姉が来るまで、お兄ちゃんと遊んでいようか」
それは何か音を立てたが、キサには何を言ったのか全く聞き取れない。
しかし、アヤトにはわかったようだった。
「そう言わないで。もう少しの辛抱だよ。だから、ね?」
久しく見ることのなかった兄の表情。
キサが一番、ずっと見ていたいと思っていたのは、そう、あの表情だった。
たとえ正気を失っていたとしても。
たとえ異形に向けられたものだとしても。
「扉を開けて、振り返らず去って」
すらりと立ち上がったアヤトは、「なにか」からも手を離して祭壇に向かって歩き出す。
「アヤト!?」
「帰るんだ、君は現実に。
夢が……君を迎え入れること準備ができていない」
「アヤトも一緒に……!」
「俺は行かない。夢に至るには……体内の海を、差し出さなければ」
その言葉に、キサはアヤトが言っていたことを思い出す。
人の血は、海の成分と酷似している。
とっさに、奥の女の像に視線を投げた。
美しく笑んだ顔の下にある、棘の生えた金属製の腕。
抱擁を受け入れることがそのまま、死に直結するような。
「振り返らないで、出ていって。
そして、そのまま戻るんだ、現実に」
背を向けたアヤトの表情は読み取れない。
けれど、理解はできる。
もう――もう、キサの声は届かないのだと。
震える足をはげまし、キサは祭壇に背を向けた。
ノブを掴み、扉を開ける。
現実へ戻ることを知っているのか、「なにか」――夢の住人たちは、みなキサを咎めるようなことはしなかった。
「――キサ」
アヤトが優しく声をかけてくる。
キサは振り返らず、背中でその声を聞いた。
「準備ができたら、いつでもおいで、ね。
待っているから、ずっと」
キサは振り返らず部屋を出て扉を閉めた。
――次の瞬間、ばちんと機械仕掛けの何かが閉じる音と、ぶつりと肉に硬いものが突き立てられる音が響く。
妙な気配が大きくなるのを背中に感じながら、キサは走った。
もう、聞きたくなかった。
大事な思い出が、15年間が、キサの中で砕け散った、その音を。