月に三毛猫
一方、町中に向けて走り出したミケは建物が密集する地域の手前で速度を落とし、ごく普通の歩調に切り替えて歩き出した。
小さな町とはいっても実はそれなりに人口が多く、昼の町中はけっこうな人出があって走り回るには向かない場所だからだ。
半年前までフラフラとあちこちをさ迷いながら劣悪な環境で最底辺の生活面送っていたミケにとって、昼間から堂々と素顔を晒して町の表通りを歩くという行為は未だに新鮮で、少しばかり緊張を強いられる。
何しろスリや万引きといった犯罪行為が日常茶飯事で、常に憲兵の目を気にして薄暗い路地裏ばかりを選んでを歩いてきたためだ。
生きるためとはいえ、それが誉められた所業で無い事を重々理解しながら、そんな生き方しかしてこれなかった。
だから大手を振って明るい日の下を歩ける今の暮らしが、ミケにはとても幸せだ。
そしてそれはおそらくタマにとっても。
*
新たなお客の来店を知らせる扉のベルがチリンと音を立てて、カウンター内で店番をしていた売り子は反射的に顔を上げた。
「いらっしゃい…」
半端な勢いで止まった掛け声は、今しがた入口を潜って現れた“お客”の姿に視線が奪われたせいか。
まず最初に鮮やかな色彩が目に飛び込んできた。
オレンジにホワイトそれからピンク。
左右と前髪できっちり色分けされた砂糖菓子のような淡い色合いの髪が形の良い頭の左右で結わえられて尻尾のようにユラユラと揺れ、小さな卵形の顔の真ん中には大粒の緑玉が二つ。
すらりと伸びた手足の絶妙な均整が生む造形美は、お伽噺に語られる妖精や精霊の化身を彷彿とさせ、一種独特の美しさを醸し出してさえいる。
華奢な身体つきはまだまだ幼げで“女”にはまだ程遠い少女━━━と、見えた。
その“少女”が、ひとたび口を開くまでは。
「ねーねー、おねーさん。このメモに書いてある香辛料、揃えて欲しいんだけど」
「……えっ、声が…。お、男の子……!?」
少々高めではあるにしても目の前の“少女”から発せられた声がなんと声変わり前の少年のものであったため、売り子の女は度肝を抜かれ思わず声を裏返らせた。
「あー、うん。オレ男男。しょっちゅう間違われんだよなぁ。まあこの顔だし?諦めてっけどいちおー覚えててくれると助かるんだけど」
「…ご、ご免なさいね。あのその…あんまり…綺麗だったから…」
「そ?キレイって言われるのは別にオレ嫌じゃないからへーきへーき」
ニカリと笑うその顔には、どこか油断のならない猫のようなイタズラ気な雰囲気が見え隠れしていて、売り子は緩んでいた気分を少しばかり引き締めた。
「お使い?香辛料がこんなに沢山必要ってことは、もしかしてお家は飲食店か何か?それとも勤め先の?」
少年から受け取ったメモの内容を確認した売り子は、やや不思議そうに首を傾げた。
樹海の恵みで潤うジグラッドでも香辛料は高価な品物に分類され、取り扱う店の数は限られている。
香辛料を専門に扱う店だけに長年店番をしていると自然とその業種の者とは顔見知りになるわけだが、この少年とは今回が初めての顔合わせだ。
ジグラッドはかなり閉鎖的な環境の町で新規に開業する者はけして多くはないだけに、全くの新顔に出くわす機会は珍しい。
(近所の店にこんな目立つ子供がいたら知らないはずないんだけど…。それとも他所の地区から来た子なのかしら)
ともかくお客には違いない。
売り子はメモに書かれている商品を順に秤にかけ、専用の小袋に詰め替える作業を黙々と続けた。
「あ、それとさー。ここんち塩の値段ていくら?町営の食糧倉庫のやつと比べてだけど」
「そうねえ…」
ジグラッドでは基本的に何にどれだけの値段を付けるかは商人達の自由だが、塩や穀物といった人間が生きていく上での必需品については町の運営委員会が価格を管理する場合が多い。
町営の食糧倉庫は飢饉などの不測の事態に備えた備蓄だが、時折物品の入れ換え等で市場に格安で放出される場合がある。
「品質によって多少上下もするけど、うちは契約してる狩人から定期的に仕入れてるから町営の基準価格とそんなに変わらないと思うわよ」
売り子がチラリと視線を向けた先には、大人の握り拳大の物から胡桃ほどの大きさの物まで、様々な色合いの塩の塊が詰め込まれた籠が置かれている。
「へー。海辺の塩とは全然違うんだな」
「えっ。お客さん、海を見たことがあるの!?」
「うん。オレ“外”からの移住組だからさ。船に乗せられてた事もあるんだぜー?」
「そうなの!?まだ小さいのに色々体験してるのねぇ…。私なんか生まれた時からずっとここに住んでるから、樹海の外すら見た事ないのよ」
「そっか。でもオレはここが一番住み易いと思うけどな」
生粋の樹海育ちの売り子からすれば、他所を知っている人間から生まれ育った町を誉められれば悪い気はしない。
自然とその顔に笑みが浮かぶ。
樹海育ちの子供は“外”の世界に憧れを抱くような年頃になると、まず周りの大人にジグラッドの特殊な成り立ちについて口を酸っぱくして言い聞かせられる。
樹海の周辺諸国においてジグラッドの住人が『罪人の末裔』と蔑称されている件などについてだ。
徹底的に甘っちょろい夢をボキボキ折られた上で、最終的には何処に行こうが何をしようが本人の自己責任でやれと言い渡され、大抵の若者がそこから本格的に今後の身の振り方を考えるようになる。
“外”に出る事自体が禁止されている訳ではないので、広い世界に憧れて樹海を越えようと試みる若者が少なからずいたりするのだが、その者達の大半は自力で樹海を踏破する事が叶わず、何度も挫折を味わいながら徐々に自らの気持ちに折り合いをつけてゆく事になる。
「でも樹海を越えるのは大変だったでしょ?大きな隊商にでも混じって来たの?」
「まぁ、そんなとこ。今の雇い主が外で出稼ぎしてて、オレとオレの相棒がたまたま拾われたってワケ」
「ふぅん。なんてお店なの?」
「“浮舟亭”ってゆー宿屋だよ。小舟に見立てた三日月に猫が乗っかってる看板が目印」
「……あまり聞かない屋号ね?」
「半年前に開業してんだけどあんまり流行らなくてさー。宿というよりほぼ貸部屋業みたいな?そんな感じでやってる」
「大変そうだけど、うちも顧客が増えるのは大歓迎だから頑張ってね」
ごくありきたりな世間話を交わした後、「ついでに塩も」と注文を受けた売り子は岩塩を金槌で手頃な大きさの塊に砕いてから麻の小袋に放り込み、少年の買い物籠に全ての商品が揃えられた。
そしていざ「お会計を」と声を掛けようとした時、何故か少年はぼんやりと何かに気を取られた様子で窓の外をじっと見詰めており、やがて意外な事を口にし始めた。
「━━━雨が降るね。昼過ぎにはドシャ振りだ」
「え」
だが驚いて窓から空模様をうかがった売り子の目には、雨雲一つ見当たない青空が映るばかり。
売り子が困惑して瞬きを繰り返すくらいの反応しか返せないでいると、少年は特にそれ以上の言葉は重ねず会計を済ませて足早にその店を後にして行った。
売り子は奇妙なお客の後ろ姿を見送った後、もう一度空を見上げてから再び首を傾げ、それでも一応昼過ぎ早目の時刻にすっかり乾いていた洗濯物を家の中に取り込むのを忘れなかった。
「…念のため、てわけでもないけど」
それからしばらくして幾らも経たないうちに、陽が陰ったと思った次の瞬間大粒の雨が降りだし、表を歩いていた者が大慌てで屋根の下に駆け込む光景が町のそこかしこで見受けられたため、とある店の売り子が「洗濯物取り込んでおいて助かった!」と、ほっと胸を撫で下ろしたのは言うまでもなかった。