第5話 桃源郷
「第4話 茶摘み」から続く
その1 少子高齢化の恩恵
藤井隆一がクルマを車庫に入れて家に戻ると、妻が待ちかねていた。
「孝枝ちゃん、どうやった?」
孝枝を送るように頼んだこともあって、改めて夫がどう感じたか知りたかったのだ。
「うん、孝ちゃんも年齢かなあ。ワシの顔をすっかり忘れとったわ」
隆一は苦笑した。
「そうなんよ。今日、本人は茶摘みに来たつもりみたいやったで。やっぱり、昔のことが忘れられんのかなあ」
妻は表情を曇らせた。
「分かる分かる。茶摘みや田植え、麦蒔きにはみんな応援に来たもんな。孝ちゃんも毎年必ず顔を出しとった。気楽な独り身ではあっても、なかなか感心な子やったなあ」
「それにしても、なんで今年突然、茶摘みのことなんか思い出したんやろ。親父さんが亡くなってからでも、一〇年が経つというのに」
それは隆一も道すがら考えていた。
孝枝の父親が亡くなり、家は廃屋になった。村の衆は
「立派な家でも潰れてしもうた。こんなことが実際に起きるんやなあ」
と持ちきりだった。
もう慣れてしまった。二一軒あった家が三軒になっている。家々から子供の声は聞こえない。住んでいるのは九〇歳を超えた老人五人だけになった。
ベビーブーム期、どの家にも五、六人の子供がいた。学校の運動会と言えば、地域の一大行事だった。弁当をこしらえ、敷物を手に応援に行った。村対抗競技もあり、運動会は大いに盛り上がった。今、運動場は隆一たち老人のグランドゴルフ場となっている。
「こうしてグランドゴルフができるのも、少子・高齢化のお蔭や。悪いことばかりやないで」
地域の廃れようを嘆く仲間たちに、隆一が突っ込み、爆笑になったことがあった。
その2 主食は麦飯
「さっき洋一から電話がありました。畑、忙しくないかって。今度の土日に帰ってもいいよって」
台所から妻の声がする。途切れ途切れにしか聞こえない。最近、少し耳が遠くなったことを自覚する。
長男の洋一は親の様子を見に帰りたいのだろう。定年退職したらUターンするなどと言っている。長男もそんな年齢になったのだ。
隆一は昭和一桁の生まれである。中学校を卒業した頃は終戦後の混乱期だった。
父親は南方で戦死した。祖父母に、弟が二人、妹が一人いた。隆一は中学を出ると、母親を助け農業を継いだ。婚期が遅くなり、妻を迎えた時には三〇を過ぎていた。
元来、体は丈夫だった。食糧難の時代においても、家が農家だったことから、食べるものには不自由しなかった。
主食は麦飯だった。食欲がわかない時には、自家製の醤油の実をかけて口に押し込んだ。
コメの飯を口にするのは紋日くらいだった。
奥地の秘境では、いまはの際の病人に
「ほら、これがコメの音や」
と米粒の入った竹筒を耳元で振り、冥土の土産にした、という話が伝わる。真偽のほどは不明である。
隆一もコメの飯にはめったにありつけなかったものの、ジャガイモやサツマイモも豊富にあって、空腹を感じたことはあまりなかった。
戦争が終わって、村は活気を取り戻した。青年団も息を吹き返し、多くの若者が参加していった。隆一も将来の中心人物と目されたひとりだった。
盆踊りは鳴り物を担当し、まつりでは率先してお神輿をかついだ。年末の夜回りはさすがに寒さが体にこたえた。それだけに、公民館に帰って仲間と一杯やるのは何よりの楽しみだった。そんな時、隆一は冗談を言って座を沸かせた。
隆一に負けず劣らず話が面白かったのが、いとこの稔だった。稔は隆一より三つ年上だった。出征し、目を負傷して除隊になった。五年前、糟糠の妻に先立たれ、娘のもとに身を寄せている。
その3 医者ぎらい
一帯は長く無医村だった。医者がいない替わりに、祈祷師がある種の健康管理アドバイザーを果たしていた。それぞれ得意分野があり、地域には何人かの祈祷師がいた。
祈祷のかいなく症状が悪化すると、町の病院に診せた。病人を戸板に乗せて運んだ。親が病児を背負って病院に向かう途中、背中で冷たくなっていた、という悲しい話もめずらしくない。
入院中の村人が危篤状態になると、神社に集まりお百度を踏んだ。幼馴染みの母親が亡くなった時も、お百度石のまわりをグルグル回っていたのを隆一は覚えている。
学校の近くに個人医院が開業したのは、戦後しばらく経ってからだった。元軍医だった。スクーターに乗り、往診もしてもらえた。
地域では喜んだ。医院の待合室はいつも満員だった。 隆一がその医院に行ったのは、病気の母親に付き添った時くらいだった。隆一は風邪を引いても一日二日、寝て治す。腰痛や膝痛などとも無縁である。
細身、小柄ながら、妻も病気知らずだ。若い頃から農作業で鍛えてある。
その4 長生きの秘訣
「じいちゃん。修さんよ」
玄関に人の気配がし、妻が出迎えた。昔の青年団仲間である。今日は定例の飲み会だ。妻がいそいそと酒のアテを作りはじめた。
「何キロある?」
かくしゃくとした隆一の体を見て、修が訊く。
「六〇くらいかなあ。若い頃と変わらんよ。あんたは?」
「ワシは七〇オーバーよ。医者から、少し痩せるように言われとる。血圧も高いままよ。クスリ飲んでも効かんなあ。隆はんは、やっぱりあれかなあ、医者嫌いなん?」
「そうよ。医者にはかからんし、クスリも飲まん」
修は今更のように隆一の健康をうらやんだ。
妻が酒肴を運んできた。
「昭やん、今日は遅いなあ」
修の同級生・昭夫はいつもならとっくに着いているはずだった。
「この間からあんまり調子がようないんやってよ。奥さんがさっき、『いただきものやけど』って差し入れに来てくれてな」
徳島名産、春ニンジンだった。平野部で栽培されている。今が旬だ。
「昭やんは若い頃から胃腸が弱かったからな」
修は気がかりだった。
その5 夫婦円満
二人の酒宴が始まる。
妻が修に酌をした。
「奥さんはいつまでも若うて美人やなあ。隆はん、幸せ者や。アッチの方は媚薬使うて頑張っとるんやって?」
修のいつもの軽口が始まった。今日はきわどい話題だった。
「修さん、もう酔うとるの」
妻は修や昭夫の猥談には抵抗力がついている。
「誰がそんなこと言うとった?」
隆一は聞き逃さなかった。
「あれ、隆はん、この間、グランドゴルフの時に言うとったでえ」
「なんでワシがそんなこと言う。アホらし」
「ほんなら、夢だったのかいな」
「それを『語るに落ちる』って言うんや。根っからのど助平やなあ。まさか、その話、よそでしてないやろな」
修は酒にむせて苦しがった。どうやら余罪はなさそうだった。
「さっきの話やないけんど、どうも物忘れがひどうなってな。話の中にアレやソレが増えた。隆はんはしっかりしとる。この差はクスリのせいかなあ」
「修さんやって、あまり年を感じさせないでえ。こんなのんびりした山奥で、いい友達に囲まれて生活しとったら、もっともっと元気で長生きできるって」
妻はフォローを忘れなかった。
その6 お迎え
ひとり暮らしの修のために、妻が夜食を作って持たせた。
隆一は少し酔った。飼い犬・ゴンの散歩は妻が代行してくれた。
修も犬を飼っている。山奥では犬がいないと、イノシシやサル、シカが畑を荒らし放題だ。県内でもクマの目撃情報がある。昔は人間を恐れて野生動物は里に近寄らなかった。主役交代が進んでいるのだ。
妻がゴンの散歩から帰ったようだった。ゴンの鳴き声がしたのは、サルでも出ていたのか。
長い一日が暮れようとしている。
ラジオをつけてニュースを聴いた。
テレビは番組に付いて行けなくなって観ていない。ラジオも話すスピードが忙しない。耳を傾ける気がしなくなった。
世の中、騒々しい。身近であんなことが起きていれば、神経は磨り減るだろう。現代人の病気は、ストレスに耐えられなくなった生体のSOSなのかもしれない。
祖母がおかしなことを言い出した。隆一を父親と間違えるようになった。父親が無事復員したと思い、何くれとなく世話を焼くようになった。隆一は涙をこらえて、父親役を演じていた。
明るい祖母を横目に、ほかの家族は沈痛な表情だった。
「こりゃ、そろそろお迎えがくるわ」
祖父は覚悟を決めている様子だった。
祖父の予言に違わず、祖母は寝込んだと思う間もなく息を引き取った。米寿目前だった。
祖父は九四歳まで生きた。夜トイレに行こうとして、倒れているところを隆一が発見した。
祖父も祖母も天寿を全うした。隆一と妻の場合、お迎えはもう少し先になりそうな気がする。




