3.フェアリー・テニス……③
シェリル自身は、神の前での人の在り方など全く興味がない。
しかし、世俗で支配階級に属するスカーロイ辺境伯令嬢ステファニーには、辛辣な刺となって刺さっていく。
世俗での支配階層に身を置く者は誰しも、率先して信じる神に敬虔であらねばならない。その心根が奈辺にあるのかは別にして、それが統治する為に必要だからだ。
こうして社会は成り立っている。貴族が貴族でいられるのも、多くの特権を持っているのも、多くの領民達の生活の安定と安全を担保するためだ。
侵略は論外だが、無条件に『外部の者』を受け容れ、領民に安全と安心が担保できない領主に従う民など存在しない。
特権に胡坐をかき、ふんぞり返っているだけでは、すぐに足元を掬われる。
それを分かっているから、シェリルもノイルフェール神の名を口に出した。
――みんながわたしを『聖女』と言うのなら、その通り振舞ってあげるだけ……
シェリルの言葉の端々に、自分への当てつけが混じっていることを、ステファニーは痛いほど理解していた。
シェリルの声音は終始穏やかで、表情には微塵の悪意も浮かんでいない。だが、だからこそ、その言葉は鋭い刃となってステファニーの自尊心を切り裂いていた。
「衣の金糸よりも、心の誠実さこそが、真の飾り……わたしはそのように地母神ソフィーの御言を受けました」
地母神ソフィー……『ノイルフェール神』と呼ばれる二柱の神のうち、慈愛と豊穣を司る女神だ。
これはノイルフェール神を信仰するマーキュリー国民なら誰しも認識している神と言える。その御言を受けたという主張は、単なる言い訳ではなく、聖女としての自らの立場を明確に示すものだった。
ステファニーの顔に、一瞬だけ激しい感情が走った。唇が震え、整えられた眉が僅かに歪む。だが彼女は貴族の矜持にかけて、その感情を押し殺した。
ステファニーは唇を噛み、優雅さを装いながらも、内心では煮えたぎるような悔しさを飲み込んだ。
自分の言葉が全て跳ね返された。しかも、神の名を使って。
反論しようにも、聖女の言葉を否定することは神を否定することに等しい。この論戦で、自分は完全に敗北したのだ。
フンと鼻を鳴らして去っていく彼女の足音は、苛立ちを隠しきれない早さで廊下に響いた。
赤い二つのリボンがそれぞれ激しく揺れ、背中からは明らかな不機嫌さが滲み出ている。歩く度に、豪奢なドレスの裾が床を払い、その音さえも彼女の怒りを物語っているようだった。
その主の様子を見て、ステファニーの侍女フロラがすまなそうに頭を下げた。
彼女の頬には、主の言葉を諫められない苦しさと、シェリル達への申し訳なさが滲んでいた。
「どうかご無礼をお許しください……ステファニー様は、初めてのフェアリー・テニスの参加で些か緊張されておられるのです」
フロラは優しい性格の侍女で、主の炎のような性格には振り回されているのだろう。
その表情には、疲労の色も見て取れた。おそらく、ステファニーがこの学院に来てから、こうした場面は何度も繰り返されてきたに違いない。
「お気になさらないで、フロラさん……わたしもステファニー様と同じですから」
シェリルは穏やかに応えた。彼女の言う通り、シェリル達の学年は、今回初めて『フェアリー・テニス』に参加できるようになっている。
魔術を操りながら行うテニス競技は、かなりの魔力制御が必要とされているため、16歳未満の生徒の参加は禁止されていた。
過去には制御を誤り、大怪我をした生徒もいたと聞く。魔力の暴走によって骨折はおろか、内臓損傷に至った事例もあったという。
それほどまでに、この競技は高度な技術と精神力を要求するのだ。まして初参加なのだから、緊張するのは当然だった。
ステファニーの苛立ちも、その裏には恐怖や不安があるのかもしれない、とシェリルは考えていた。
「ありがとうございます。シェリル様」
フロラは安堵したように微笑む。その表情には、心からの感謝の色が浮かんでいた。
シェリルとフロラは実は仲が良い。同じ平民という気安さもあるのだろう。
プライベートでは「シェリルちゃん」「フロラちゃん」と、呼び合っている。生徒と侍女いう立場を超えた、年頃の少女同士の友情がそこにはあった。
フロラは改めてラルフェリアに向き直った。初対面の挨拶をきちんとしておきたいという、彼女の几帳面な性格が表れている。
「お初にお目に掛かります。私、ステファニー・アニエス・ハンコック様の傍付きをしております。フロラ・トゥイルと申します。どうぞお見知りおきください」
「ラルフェリア・サルドバルドです。学院はおろか王都も初めての田舎者ですが、どうぞご指南ください」
「はい……では……」
「フロラ! 早く来なさい!」
遠くから響くステファニーの声は、明らかに苛立ちを含んでいた。フロラの表情が一瞬曇る。
ステファニーの声に、フロラは小さく頭を下げてから主の後を追っていった。その背中には、侍女としての責任の重さが感じられた。彼女の足取りは急いでいるが、それでも礼儀を忘れない丁寧な所作だった。
ラルフェリアはそんな彼女を横目で見ながら小さく息を吐いた。フロラの苦労が、痛いほど伝わってくる。
――やっぱり……シェリル様は優しい……聖女っていうのは本当なのかもしれない
心の中で呟いた。侮辱を受けても、ステファニーのように怒りを表に出さない。それどころか、侍女を気遣うような言葉まで返す。
その優しさは美徳だが、同時に弱点にもなりかねない。貴族社会では、優しさは時に弱さと見なされる。そして弱さを見せた者は、容赦なく攻撃される。
ラルフェリアの胸には、複雑な感情が渦巻いていた。
幼い頃から知っているシェリルの優しさ。それは変わらぬ彼女の本質だが、貴族社会という厳しい世界では、時に弱さとして映ってしまう。
村にいた頃は、その優しさがあったからこそ、何とか周囲の人々に溶け込んでいた。
あの『魔力暴発事故』が起きるまでは……
あれ以来、シェリルはウーラニアー村の事は何一つ語ろうとはしないし、ラルフェリアもその話題は避けている。でも、シェリルの宝箱には『小さな花束』と『革製のブレスレット』が収まっている。
シェリルがユーリアに伴われて旅立つ時に、ラルフェリアとアイドリアンがプレゼントしたもので、ユーリアから保存の魔術が掛けられている。
――私は誓ったのよ
風の大精霊様にも、アイリス様にも……
今度こそ私がシェリル様を守るって!
かつて村で一緒に遊んだ幼馴染。今は主と侍女という関係になったが、その絆は変わらない。否、むしろ深まっているのかもしれない。
彼女の胸中には、主人を守りたいという思いと、幼馴染としての親しみが静かに同居していた。立場は変わっても、心の距離は昔のままだ。
ステファニーのような悪意を持つ貴族達から、シェリルを守る……それが今の自分にできる、唯一のことだ。
一介の侍女に過ぎないラルフェリアにできることは少ないかもしれないが、それでもシェリルの心を支えることはできる。魔力では敵わなくても、心の支えにはなれるはずだ。
廊下の窓から差し込む春の光が、二人の姿を優しく照らしていた。シェリルの桜色の髪と、ラルフェリアの金髪が、光の中で柔らかく輝いている。その光景は、まるで一枚の絵画のように美しかった。
炎の令嬢と風の聖女。二つの相反する魔力が、これから学院のコートで再び交わることになるのは自明の事だった。炎と風、茜赤と青緑、激情と悠然。対照的な二人の少女が繰り広げる戦いは、きっと多くの生徒達の注目を集めるだろう。
――フェアリー・テニスという舞台で、二人の因縁はどうぶつかっていくのだろう?
その戦いを見守るラルフェリアの心には、臣下としての忠誠と、幼馴染としての愛情が、深く刻まれていた。
何があっても、シェリルを守る。その決意を胸に、ラルフェリアは静かに主の隣を歩き続けた。春風が廊下を吹き抜け、二人の髪を優しく揺らしていく。
その風は、これから訪れる試練を予感させるかのような冷たさを含んでいた。




