第1話 夢と現実を繋ぐ者
「あっつ…」
思わず口にしていた。
ジリジリと身を焼くような日差しの中、作業をしていた黒髪の男が額に流れる汗を拭う。
雲一つない快晴。その下に広がる、豊かに実り茂った畑。
この光景を満足気に見つめる男は、ゲイルという。
若い頃は冒険者に憧れてギルドに入っていたが、血生臭い世界をどうにも好きになれず、貯めたお金でこの畑を買ったのだった。
「パパー!」
パタパタと走ってきたのは、3歳になったばかりの娘のサチだ。
ゲイルの足につかまり、自分の身長より高いところにある真っ赤なトマトの実を見つめる。
「とまとー」
サチの大好物だもんな。
ゲイルは、持っていたハサミでパチリとトマトを収穫すると、サチに渡す。
両手で持ってもはみ出るサイズのそれに、サチは嬉しそうにかぶりつく。
果汁が溢れてサチの顔と服を汚したが、サチはとにかく嬉しそうだ。
ぷにぷにのほっぺにトマトを詰め込んで、笑顔でゲイルを見る。黒い髪が日の光を浴びてツヤツヤと綺麗だ。
冒険者をやめてよかったと心底思う。
こんな幸せが、なんだか久しぶりのような気がする。
毎日のたわいもない時間のはずなのに、やけに胸に刺さる。泣きそうになってしまう。
「俺も歳をとったかな…」
サチの頭を撫でようと、ゲイルが手を伸ばす。
その手は温もりを感じることはなく、何もない空間を泳いだ。
「!?」
瞬間、景色が暗転する。
埃っぽい路地に、ゲイルは立っていた。
ああ、この道は知っている。
冒険者ギルドへと続く道。
火事で畑も家族も失って、日銭を稼ぐためにギルドに再登録をした。
若い頃の、希望に満ちた登録とは、まったくかけ離れた理由だった。
1年前の火事の日、ゲイルだけが街に野菜や果物を売りに来ていて無事だった。
家も畑も、全て燃えた。
そこにいた妻と娘も。
何度も死にたいと思ったが、出来なかった。
腹も減るし、寝る場所も必要だった。
特別腕っぷしが強いというわけではないが、畑を襲いにくるモンスターを退治するぐらいは出来た。
10年ほど前に魔王が現れて以来、冒険者はいつでも人員不足。
すべてを失ったゲイルが日銭を稼ぐには、冒険者となってザコモンスターを倒す…これしかなかった。
ギルドに着くと、最近街中を騒がせている噂話が耳に飛び込んできた。
もう何度も聞いた、夢物語。
魔法の適性がなく魔力をもたない戦士が、一夜でどんな魔法も使えるようになったという。
「そんなことあるわけない」
つぶやいて、壁に貼られた募集を眺める。
畑の警備という文字に吸い寄せられる。
頭に浮かぶのは、夏の晴れた空と赤いトマト、笑顔のサチ。
頭に浮かべてしまって、後悔する。もう手に入らないものなのに。
その時だ。
膝のあたりに違和感を感じた。服を掴まれた感触があったのだ。
「パパ!」
懐かしい声に、壁から視線を落とす。
いるはずがない。
信じられない。
サチがいた。
赤いトマトを握りしめて。
「なんで…」
夢なのか…?
そう思ったところで、ハッとする。
ああそうか。これは夢なのだ。
さきほどの畑も、今いるギルドも。
目の前にいるサチも。
今までにも、夢だとわかる夢を見ることがたまにあった。
だから知っている。
こういう夢をある程度操れることも。
夢だから何でもできる、それは半分本当だ。
「サチ、おいで」
サチを胸に抱き締める。
「よし、パパと帰ろう」
向かうのは、燃えたはずの我が家。
そうだ、どうせなら飛んで行こう。
空を飛ぶイメージをする。
体よ浮け。浮かべ。
ふわりと、浮かぶ感覚。
だが視界にあまり変化はない。
下を見ると5センチほどしか浮かんでいない。
夢の中でなら何でも出来る、だが万能ではない。
完璧に飛べる夢を見れることもあるんだけど…と、ゲイルは頭を掻く。
しかたないので、そのまま帰路に着く。
5センチ浮かぶだけでも、歩くより格段に早く進める。
サチは楽しそうに景色を見ていた。
夢の中だが、感覚もある。温かいサチの体温を感じている気がする。
そうして、家に着いた。
家はあった。あの頃のままの姿で。
「おかえりなさい」
「ママ!」
サチが先に呼ぶ。迎えてくれたのは、サチと一緒に死んだはずのマリーだった。
肩までの茶色いくせっ毛を指でいじる。
その仕草も、いつものマリーだ。
思わず抱きしめていた。
どうしたの?と困りながら笑う、その声も思い出のままだった。
「ずっと…ずっと…一緒に歳をとって、一緒にサチの成長を見守りたかった…ずっと…」
言いながら、胸が張り裂けそうで、ゲイルは涙を流していた。
「もう…お客様がきてるのに、お父さんたら子供みたいね。ねぇ、サチ?」
そう言って、マリーはサチに笑いかけた。
家の中も以前のまま。
ただひとつ違うのは、
「お客さん?」
ゲイルの自作の丸テーブルと、それと同じ木で作ったイス。そのイスに、見慣れない姿があった。
「はじめまして」
そう言ってこちらを見る少女。年の頃は15〜16歳ぐらいに見える。小柄な体に驚くほどの存在感。
少女を形作るすべてが美しい。
輝く髪は金にも銀にも見え、なんのクセもなく真っ直ぐに彼女の腰まで届いていた。たまに風にサラサラと遊ばれているが、それがまた綺麗だった。
大きな瑠璃色の瞳は、サチの目のような純粋な光をたたえている。
こんな人間は、見たことがなかった。
「素敵な家ね」
ゲイルの戸惑いを知ってか知らずか、少女はふわりと笑って言った。
「ありがとう」
そう答えると、続けて少女は言った。
「素敵な夢ね」
瞬間、周りのすべての時間が止まる。
サチもマリーも固まっている。
鳥の声すらしなくなった。
ゲイルと少女だけが、動けているようだ。
なんだこれは。
これは夢だ。知っている。
知っているからこそ、操れるはずなのに。
戸惑うゲイルは、少女にたずねる。
「おまえは、誰だ?名前は?」
夢の中の、唯一の異物。
それはこの少女だろう。
美しい少女が、怪物に見えた。
背中を冷たい汗がつたうのがわかる。
「名前なんてどうだっていいじゃない」
少女はかすかに笑って、続ける。
「私は、夢に生きる者。
夢を渡り、夢と現実をつなぐ者」
それを聞き、思い出したことがあった。
期待と不安で、手が震えるのを感じる。
最近ギルドや街で噂になっていた、魔法を使えるようになった戦士の話。
その戦士いわく、「夢の女神に会った」と。
その夢の女神が言ったとされる言葉が、さきほど彼女が発したそれだった。
「夢の女神…」
「そう呼ばれているらしいね」
他人事のように言う。
「あなたの夢、現実にすることができるけど、どうする?」
あっさりとそういう少女。
理解が追いつかない。
口と喉がやけに渇く。
「それは…」
かすれた声しか出ないが、なんとか言葉を紡ぐ。
「それは、今見ているこの夢を…現実に出来ると、いうことか…?」
「そう!わかってるねー。話が早い!」
軽く言う。それがどういうことか、わかっているのだろうか。
「サチとマリーがいて、家があって…」
言っている時に、ハッと気づいた。
畑。畑はどうなっているだろう。
窓の外から、畑があったところを見る。
もとの通りに畑はあった。
現実世界は今は冬だというのに、畑にはさまざまな野菜や果物がたわわに実っていた。
「素敵な夢ね」
さっきと同じセリフを言って、少女は微笑む。
本当にこれを現実にできるのだろうか。
「できるよ。
あなたが望むなら、夢で見た夢を叶えられる」
心を読まれたようだ。
もしかして、本当に…。
「それなら…お願いだ。
マリーとサチのいる世界を、俺に返してくれ」
まだ幼さの残る少女相手に、自分でも滑稽だと思う。
しかし、懇願せずにいられなかった。
頭を下げ、手を合わせ、必死にお願いする。
少女はニコッと笑って、
「あなたの作る野菜と果物、おいしい?」と聞いた。
「もちろんだ!誰にも負けない、世界一美味しい!
今はそうじゃなかったとしても、世界一美味しくする!」
ゲイルは必死に答えた。
少女はいつのまにか、畑からとってきたらしい苺を手にして、パクリと頬張った。
「うん、甘い…おいしい」
そう言って嬉しそうに笑う。
こう見ると、ただの少女のようだ。
そこで、目が覚めた。
肌触りのいい布団、1月にしては寒くない室内。
ガバッと起きて、あたりを見回す。
ーーー家だ。我が家だ。
1年前の秋に燃えたはずの、我が家だった。
「まさか…」
信じられない気持ちで見回していると、パタパタと足音がした。
「パパ!!」
サチが、ベッドにダイブするようにゲイルの胸に飛び込んできた。
頭を撫でる。温かい。
胸のあたりが痺れるように、熱くなる。
涙がこぼれていた。
「パパ、なんで泣いてるの?」
不思議そうに見るサチをゲイルは力強く抱き締める。
どこからが夢だったのか。
もしかしたら、この子が死んだというのが夢だったのかもしれない。
そうだ、悪い夢だったのだ。
そう思いながら、それでも確認をしようと、震える手で窓を開けた。外を見て、驚愕した。
雪が降っていた。
冬なので当たり前なのだが、異様な光景はそれではなかった。
畑の果物や野菜がすべて、立派な実をつけていた。
あの夢のままに。
「夢の、女神…」
まさに神の所業を前に、ゲイルは呆然とした。
腕の中にある小さな温もりが、彼を現実に引き戻した。