翠羽の修行
翠羽の修行は順調に進みました。仙術の基礎となる仙気の蓄積に成功したのが修行を始めて一週間後と考えると、習得度は蒼牙や朱猴と比べて素晴らしく速かったのです。
そして癒しの能力を会得することを成し遂げたのは一ヵ月後でした。
翠羽は水揚げされてしばらく経った、岩の上に置かれた魚に癒しの力を発動させます。
するとどうでしょう。まるで釣られたばかりのように跳ね回っています。
「うむ。これならば実戦でも役に立つだろう。よく頑張ったな」
様子を窺っていた白鶴仙人の一声で、ホッと一息吐く翠羽。
しかしここである疑問が生まれました。
「白鶴仙人さま。三つほど教えてもらいたいことがあるのですが」
「なんじゃ? 言ってみよ」
「こんなにも簡単に仙術というものは会得できるのですか?」
そうなのです。思ったよりも簡単に癒しの力を習得したのに疑問を覚えたのです。
「いや、普通ならばこんなにあっさりと習得できるものではないわ」
「では二つ目の質問です。何故僕はこんなにもあっさりと習得できたのですか?」
白鶴仙人はよく伸びたあごひげを触りながら「それはお前に才能があったからじゃ」と何気なく答えました。
「仙術を覚えられるのは一握りの人間ではない。万人が仙人になる可能性はある。覚えの悪い者でも半年があれば十分じゃ」
「――では最後の質問です」
翠羽は厳しい顔で白鶴仙人を見つめました。
「何故、仙術を蒼牙さんと朱猴さんに教えないのですか?」
「…………」
その問いに白鶴仙人は沈黙で返しました。
「僕が思うに仙術を教えれば二人の課題はもっと速くこなせたと思うのですが」
蒼牙がもし仙術を習っていれば。
朱猴がもし仙術を習っていれば。
巨大な岩を粉砕することも。
木像の鬼を焼却することも可能でしょう。
それほど仙術とは強力なものなのです。
癒しの力だけでも戦場を一変させることができるのです。負傷兵を復帰させることが可能な癒しの力。まさに不死の軍団を創りあげることもやろうと思えばできます。
「白鶴仙人さま。あなたは何故、二人に仙術の修行を行なわなかったのですか?」
白鶴仙人は「まあ気づくとは思っていたが」と前置きをしてから語り出します。
「二人に才能がないとは言わぬ。およそ二ヶ月で仙術を習得できるじゃろ」
「ならば何故ですか?」
「それは二人が弱くないからじゃ」
白鶴仙人は愉快そうに笑いました。
「仙術に頼らなくても自らの手で課題を克服できる人間じゃ。流石吉備太郎の仲間だけはあるのう」
「僕は、弱いと?」
翠羽は自らの力の無さをあまり気にしていませんでしたが、そう言われてしまうと多少は気にかかります。
「お前の役割は『軍略遣い』だ。肉弾戦の弱さは否めない。しかし後方支援という立場ならば四人の中で群を抜いておる。それに仙術の才能がなければ別の修行をしていた」
翠羽はどこか白鶴仙人が嘯いている気がして仕方がありませんでしたが、気にしないことにしました。
「それで、癒しの力の次は、僕は何をすればいいのですか?」
「その前に訊ねるが、お前は何故、吉備太郎の鬼退治に付き合っているのじゃ?」
その問いに翠羽は「修行に関係あるのですか?」と訊ね返します。
「あるから訊いておるのじゃ。目的は人を育てる指針となるからのう」
「……僕は竹姫さんのために協力しているのです」
翠羽は正直に話しました。このときは策や誤魔化しなど通用しないと思いました。
「妹が死んで、僕は生きる望みを失いました。それを救ってくださったのは竹姫さんだったんです。その竹姫さんが好きな吉備太郎さんの役に立つことで間接的に恩返ししているんですよ」
「なるほどのう。吉備太郎自身には恩義はないと」
「いや、少しはありますよ。仲間にしてくれましたし、興味深い人でもあります」
ここで翠羽は言葉を切りました。本当は興味深いというよりは危うい人だと思っていたからです。
鬼に対する憎悪が万が一、『人』に『国』に向けられたらと考えると、安心もできません。
だからそうならないためにも自分が抑止力になるのだと考えていました。
好意を抱いていないわけではありませんがそれよりも畏怖が勝っているというべきでしょうか。
「まあ今はそれで良い。おいおい、変わっていくだろう」
訳の分からないことを言いながら、白鶴仙人は岩の上にとあるものを置きました。
翠羽には見慣れたものであり、懐かしいものでした。
「これは……将軍儀?」
縦十三マス、横十三マス、計一六九マスの盤に十種二八枚の駒が置かれていました。
「最後の課題じゃ。わしに将軍儀で勝つこと。それができれば修行終了じゃ」
翠羽はあっけに取られていましたが、次第に怒りが湧いてきました。おそらくこの世で一番将軍儀の強い自分に対して、まるで上から目線なことに、苛立ちを覚えました。
「言っておきますけど、僕は強いですよ?」
「ほう。楽しみじゃの。それじゃ対局を始めようか。どちらが先手になる?」
翠羽は「僕から行きます!」と宣言して、まずは雑兵を前に進めました。
翠羽には自信がありました。それは甲斐で一番の将軍儀の名人だという自負があったからです。
しかし、その自信と自負が粉々に砕け散ることになるのです。
「――王手じゃな」
「……っ!」
あっさりと五十手目で詰められてしまった翠羽。
油断は確かにあったかもしれません。
慢心も確かにあったかもしれません。
しかし、こうも一方的な展開になるとは、想像できませんでした。
「これが甲斐で一番の実力者とは。甲斐の人間の程度もたかが知れておるな」
白鶴仙人の挑発が遠くのほうで聞こえていました。
翠羽は自分が磨き続けていた大切な何かを傷つけられた表情をしました。
「……もう一局、お願いします」
「良かろう。何度でも挑むがいい」
それから日が暮れるまで何局も何十局も打ち続けましたが、翠羽が勝利することはなく、いたずらに負けが重なっていったのです。
「お前の弱点は格上の打ち手と戦いが少ないことだ。天才がゆえに秀でたものと対局が少ない。だからこそ自分を上回る智者には及ばないのじゃ。そして自らも智者ゆえに智に溺れてしまう。それを克服しなければ万全に勝利を収めることはできぬ」
白鶴仙人はそう言って、盤から離れました。
「数手先を読むだけでは足りぬ。お前には大事なことを教えてやろう」
「大事なことですか?」
白鶴仙人は翠羽に三つの教えを説きました。
「まずは何事にも一歩立ち止まること。自分の知恵と策が本当に適しているのか考えることが必要なのじゃ」
翠羽は決断が早すぎるところがありました。それは拙速を尊ぶやり方でもありましたが、時には立ち止まる勇気も必要でした。
「次に相手の思考を読み解くこと。相手のクセや呼吸を読み解くことで次に相手はどのような手を打ってくるか分かるようになる。相手と対話するのじゃ。自分の中に仮想の相手を創るのじゃ。そうすれば自ずと相手の考えが読み解ける」
翠羽は相手のことを考えませんでした。自分の策が相手を凌駕すれば勝てると信じていたからです。
「最後に味方の力を最大限に引き出すことを考えよ。一人の力は少ないと思うだろうが、そんなことはない。時として十倍にも引き出せることがある。良いか? 策によって十倍に力を引き出せるのであれば、十人の武者は百人の武者になる。そのことができれば、百人力の鬼にも対抗できるだろう」
翠羽はどうしても百人力の鬼に対して武者が勝てる道理がないと半ば諦めていました。だから白鶴仙人の言葉は目から鱗だったのです。
「お前の力は他者の力を引き上げる力じゃ。同時に敵の力を引き下げる力でもある。戦局を左右するのはお前だ、翠羽。今回の幾多の負けから必勝を得る努力をせよ。修行の終わる日にまた対局をする。それまで仙術と戦術を磨いておくのじゃ」
そう言い残して白鶴仙人は音も無く消え去ってしまいました。
残された翠羽は盤上を見つめました。
そして駒を並べ始めたのです。
「やってみせる。僕だって足手まといになりたくは無い……!」
修行の終わりまで後二ヶ月のことでした。




