鬼に横道はない
今まさに山吹へと振り下ろされる金棒。誰もが酒呑童子に殺されると思いました。
しかしそれを救う者が居ました。
風のように素早く動き、放心している山吹を力強く抱え込んで、その場から逃れたのです。
金棒は轟音と共に地面を砕きました。山吹は助かりましたが、正気を取り戻していませんでした。その場でぼうっと宙を見つめています。
そんな彼女を自分の身を省みずに救ったのは他ならぬ稀代の武者、吉備太郎でした。
「何をしているんだ、貴様」
酒呑童子は吉備太郎を睨みます。
「その小娘は、俺が殺すんだよ!」
酒呑童子は吉備太郎に敵意が向けて、金棒で攻撃しようとしました。
「――羽ばたけ鳥たちよ!」
吉平は隙をついて式神札を飛ばしました。五枚の式神札は五羽の白い鳥に変化して、酒呑童子の顔面を覆いました。
「ええい、小賢しいわ!」
酒呑童子は苛立ち次々と素手で鳥たちを握りつぶします。
「……おいおい、冗談だろ? 式神を素手で殺せるのか?」
吉平は呆然としましたが、慌てて懐から式神札を取り出しました。そして新たな式神を召喚しようとします。
けれど、それを行なうことはできませんでした。邪魔をされたわけではありません。予想できないことが起こったのです。
それは吉平の目の前で、吉備太郎が酒呑童子に立ち向かったからです。
「き、吉備太郎ちゃん――」
「許さない……絶対に許さない!」
それはまるで嵐のように激しく、烈火のように燃えたぎる怒りでした。
この部屋中が吉備太郎の怒りに満たされて、支配されてしまう感覚を吉平と武者たち、そして倒れている鬼でさえ思い知らされたのです。
それを一心に受けているのは酒呑童子でした。かの鬼は今まで人間から受けたことのない怒りを突き刺すように感じていたのです。
「……このような怒りは大親分以来だ」
最後に残った鳥を握り潰して、酒呑童子は静かに言いました。まるで酔いが冷めてしまったように毒の影響をものともしません。そして吉備太郎とは真逆に冷たい怒りを見せました。
「貴様、何者だ?」
「外道に名乗る名などない!」
吉備太郎は啖呵を切って酒呑童子と正対します。
「私の前で、親を殺された子どもを生み出した。それがたとえようもなく許せない!」
吉備太郎は刀を納めたまま、酒呑童子に怒りをぶつけます。
「ましてや、その子どもを殺そうとするなんて! 貴様らはどうして! そのような残忍なことができるのだ! 外道め!」
それを聞いた酒呑童子は鬼としては異例なことに反論します。
「ふざけるな! 貴様らは毒を盛ったじゃねえか! おおかた鬼平太を騙して、酒に毒でも仕込んだんだろう! 貴様らこそ外道だろうが!」
そして酒呑童子は金棒を上段に構えました。
「鬼に横道はない! 卑怯なふるまいはしない! それなのに貴様ら人間は平気な顔して騙して殺す! それこそ許せねえ!」
鬼の迫力たるや、武者たちの中には失神してしまう者が多く居ました。
「もういい。黙れ。外道が語るな」
道理と卑怯が分からない吉備太郎は聞く耳を持ちませんでした。
「定森さまの仇だ。貴様はここで死ね」
「定森? ああ、さっきの虫けらのように死んだ人間のことか。ふん、いいだろう。かかってこい」
酒呑童子は毒が効いているようで、ふらつきながら、吉備太郎の出方を探ります。
「貴様ら人間ごとき、鬼に敵わないことをその身に思い知らせてくれるわ! 後悔はしなくていい。あの世でたっぷりとしてろ!」
その言葉が戦いの契機となりました。
吉備太郎は音を超えた素早さで酒呑童子に迫ります。
「抜刀術、虎の太刀!」
対して酒呑童子は真っ直ぐに上段から金棒を振り下ろします。
それは、横道はないと言い切った鬼らしい一撃でした。
結論から言えば、この勝負は吉備太郎は勝機はほとんどありませんでした。この戦いの不利な点は重量のある金棒で殴るだけ、もっと言えば当てるだけで酒呑童子は勝つのに対して、吉備太郎は一太刀で致命傷を負わせなければならないことでした。
もっとはっきり言えば歴戦の鬼である酒呑童子と比べて、まだまだ経験の浅い吉備太郎が勝てる道理はないのです。
また、間合いが違いすぎることもありました。吉備太郎が間合いに入るまで時間が必要でしたが、酒呑童子には時間は必要ありません。迫ってくる敵に金棒を振り下ろせば良いのですから。
その僅かな時間を吉備太郎だけでは稼ぐことはできませんでした。
そう。吉備太郎だけでは。
「――悪いな、鬼の首領よ」
吉平はこの機会を待っていたのです。
放たれた矢は酒呑童子に向かって行きました。けれど酒呑童子は鬼平太と違って矢が突き刺さることはありませんでした。
「どんなに卑怯でも勝たねばならんのだよ」
のけぞるように身をかわしたせいで金棒を振り下ろすのが遅れてしまいました。
「外したか。でもそれで十分だろう? 吉備太郎ちゃん」
吉平は吉備太郎に向けて話しましたが、聞こえていないことが分かっていました。
怯んだことでできた隙。星の瞬き程度の僅かな隙でしたが、吉備太郎は――酒呑童子をとらえました。
「――ちくしょう」
酒呑童子の呟きは誰の耳にも届きませんでした。
一閃。吉備太郎の斬撃は見事に酒呑童子の腹を斬り裂いて、致命傷を負わせることに成功しました。刃は内臓まで達しており、鬼といえども助かることはないでしょう。
その場で崩れ落ちた酒呑童子。吉備太郎はそれを見つめていました。吉平と武者たちの歓声など聞こえていませんでした。
それよりも暗い感情に支配されていました。
「吉平さん、山吹さんを頼みます」
吉備太郎は酒呑童子の顔を起こしました。
「吉備太郎ちゃん? 何をする気なんだい?」
不可解に思う吉平の言葉を半ば無視して、吉備太郎は酒呑童子に問います。
「貴様に一つ訊ねる。伊予之二名島を滅ぼしたのに加担したのか?」
酒呑童子は息も絶え絶えに「……そうだ」と答えました。
「私の村を襲ったのも貴様の一派なのだな」
「……知らん。多くの人間を喰らい尽くし、多くの村々を滅ぼした。いちいち覚えていない」
吉備太郎は酒呑童子を殴りました。
「貴様らのせいで、私の村は滅んだんだ! 貴様らのせいで! 鬼さえ来なければ、私たちは平和に暮らせていたんだ!」
殴って殴って殴って。自分の手が痛くなるくらい殴りました。
酒呑童子はなすがまま、殴られ続けていました。
「吉備太郎ちゃん! やめるんだ!」
吉平は止めに入りました。周りの武者たちは鬼気迫る吉備太郎をおそろしく感じて近寄らなかったのです。
「……吉平さん」
「これからやるべきことがたくさんある。だからもう止せ」
吉平の言葉は吉備太郎の溜飲を下げるものではありませんでしたが、従うことにしました。
「酒呑童子のとどめをさしてやってくれ」
吉平は吉備太郎に言いました。
「鬼といえども哀れだ。楽にしてやれ」
吉備太郎はそれにも従いました。
とどめをさすとき、酒呑童子は笑いながら言いました。
「なんて目をしているんだ。まるで我ら鬼のようだ……」
吉備太郎はそれに答えずに、竹姫からもらった小太刀で首をはねました。
かかった血飛沫がやけに熱く感じられました。
その他の鬼たちも首をはねられました。
恨めしそうな目をしていて、武者たちは震えながらとどめをさしたのです。
こうして後の世で語られるようになった『大江山合戦』は幕を閉じました。
吉備太郎は酒呑童子の『鬼に横道はない』という言葉が耳に残って離れませんでした。
鬼に道理があるのか。
人間は卑怯なのか。
吉備太郎が本当の意味でそれを知るには時間がかかりました。




