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地下牢

「――あなた。生きてる?」


唐突に、誰かが私に話しかけてきた。


首をゆっくりと巡らせば、それは若い女メイドだった。ブロンドの髪を後ろでひっつめ、心配そうな顔立ちで私を見つめている。お仕着せの清潔感のあるメイド服が、殺風景な地下牢に不釣り合いであった。


彼女は何事か牢番に伝えると牢の鍵を開け、そして不用心にも一人で独房へと踏み入ってきた。


「あなた、昨夜の騒ぎ、覚えている?」


どれだけの時が経ったのかと思いきや、実際には半日程度の事だったらしい。しかし既に時間の感覚も人の発する声を忘れてしまっていた身としては、彼女の声が妙に耳に心地よかった。


「取りあえず、ここに水と食料を持ってきたわ。…と言っても、大した物では無いのだけれど…」


申し訳なさそうに言う彼女は、おずおずと胸に抱えていたバスケットを差し出してくれた。そこには綺麗な白パンが三つと、透き通ったガラス瓶に入った水。不貞を働いた囚人には、過ぎたるご馳走だった。


「…ふふっ。驚いた?厨房からくすんで来ちゃった。でも、この事は内緒よ?さ、お食べなさい」


驚いてのろのろと視線を合わせると、悪戯っぽく彼女が笑う。私はカサカサに乾いた喉から、絞り出すかのように声を出した。


「…ど、う…して…」

「そりゃあなた。あなたを助けたいからよ。本当は早く出してあげたいのだけど…」


ごめんなさい、と申し訳なさそうに彼女は呟いた。私には訳が分からなかった。私は知ってはいけないものを見ている。その上、領主の逆鱗に触れたとあっては、どう贔屓目に見ても殺されるのが妥当な身。そんな罪人に、メイドでしかない彼女が良くしてくれる謂れが、全く分からなかった。


「今館は大騒ぎよ。会合自体は何とか面目は保てたみたいなんだけど、彼がとってもおかんむり。あなたを八つ裂きにしないと気が済まない、って息巻いているわ」


やはり、と思う反面、しかし危機感は全く訪れなかった。雪姉と思しき彼女と共に、私の魂は既にどこかへと飛び立ってしまったかのようだった。


「ねぇ。あの子を助けられなかった私が言うのもおこがましいのだけど…あの子を解放してくれてありがとう。あの子は…ただ大人たちの身勝手な都合の為に、生かされていたから…」


ぎゅっと握りしめた拳はきつく、彼女は何かを堪えているようにも見えた。しかし何も考えられない私には、彼女の言葉は滑るように通り過ぎていく。どこかとても遠くで話されているような、そんな実感を伴わないものだった。


何の反応もない私に失望したのか、彼女は寂しげにため息をつくとバスケットを置いて地下牢を後にした。後には、普段は決してお目にかかれないような、極上の白パンと水。食欲など微塵も感じなかったが、私はそれらから目を離すことが出来なかった。雪のように真っ白だった雪姉。のろのろと手に持ったパンは驚くほど軽く、そして白かった。私は気が付けばはらはらと、また涙を流していた。


******************************


その次の日も、メイドは地下牢に現れた。どういう手を使っているのか、牢番も特に何も咎めず彼女を通す。彼女は無警戒にもまた牢の中へと入ってきて、手つかずのバスケットを見て一瞬顔を曇らせた。しかし直ぐに笑顔になると昨日よりも一回り大きなバスケットを、私に見せた。


「今日はあなたと一緒に食べようと、色々なものを貰ってきたわ」


彼女は今度は白パンの他、燻製肉の欠片と果実水を持ち込んできた。いずれも一介のメイドごときが、手に入れられる物ではない。


流石に驚きに目を見開いていると、メイドは我関せずといった風に果実水の入った瓶を手渡してきた。私が飲むべきか途方に暮れていると、意外にもしっかりした声で真っすぐに見つめられた。


「飲みなさい。あなた、昨日から全く飲まず食わずなのよ。そんなんじゃ体が持たないわ」

「…いら…な…」

「飲みなさい。毒なんて入っていないわ。一口でもいいから飲みなさい」


有無を言わせぬ強い口調に、思わずゆっくりと手を伸ばしてしまった。のろのろと瓶に口をつけると、甘く爽やかな味が口いっぱいに広がる。その後は一気だった。食物を欲していた体はとても正直で、私はぐびぐびと果実水を飲み干した。


「安心して。まだもう一本あるわ。それに水だけではなくてご飯も食べないと」


丁寧に肉をパンに挟み、それを私へと差し出す。一瞬躊躇しつつも、一度飢餓を覚えた本能には抗えなかった。女性にしては大きく、しっかりした節の手だなどと場違いな事を思いながら、手渡してくれたパンに私は貪りついた。


「あなた、本当に運が良いわ。領主は今、別の案件で持ち切りなの」


礼儀も何も無く齧り付く私の事など気にもせず、メイドは上品な仕草で燻製肉を齧る。そしてとりとめもなく色々な事を話すのだが、そのどれもが、私なんかに話して良い内容の物では無かった。曰く、領主は王都からの査察でてんやわんやしている。曰く、先の『会合』で集まっていた貴族たちは、皆反王制派だった。曰く、私の処刑は領主自らが行う事となっている――。


メイドは、決して長く留まることは無かった。しかし必ず毎日現れては、何かしら食べ物を運んでくる。そして決まって色々な事を話して帰っていくのだが、それは領主の事であったり、彼女の話だったりと、様々であった。


私の手には、未だ『雪姉』の体の感触が残っている。右手に伝わった鈍い重み。切り裂いた時の感触。そして、私の目の前で跡形もなく塵となって消えた体――。決して忘れられない光景として脳裏に焼き付き、私は何度となく夢でうなされた。あれは一体何だったのか、なぜ『雪姉』は昔の姿のままだったのか、なぜ彼女は、生き続けていたのか――


――私は彼女を殺して良かったのか――


答えのない迷路に迷い込み、私は絶望と恐怖に気が狂いそうだった。しかしそんな私を繋ぎ止めていたのは、取り止めのないことを話すメイドの存在だった。


思惑の分からない彼女の話に、最初は不信感しか抱けなかった。今も彼女の狙いは不明だ。しかしいつしか日に一度の彼女の来訪を、心待ちにするようになっていた。


いつも何かしらの食料を持って現れる彼女は、常に何か一方的に話して行く。私は二、三言葉を交わすだけでいつも適当に相槌を打つだけだったが、彼女が幼い頃過ごしたという海辺の町の話は、酷く私の興味を引いた。


「…塩水の湖?」


初めての私の反応に気を良くしたのか、メイドは嬉しそうに話し始めた。


「そうなの!まぁ湖…というよりも広大な水たまり、かしら?どこまでもどこまでも続く、大きな塩の湖よ」

「…じゃあ果てはどうなるの」

「果ては無いわ。二週間に及ぶ航海の末、その先にはマーロウ諸島があるのはわかっているの。そしてその先にはナドゥーンと言う王が治める未知の大陸があって、マーロウの民はこの王をあがめていて、そして不思議な呪術を使うらしいわ」


私は半信半疑だった。このメイドは私の気を引くために、作り話をしているのではないか。しかし作り話であったとしても、海と言う物になぜか私は惹かれた。広大な塩水。果てのない地平線。私はどこまでも続くと言うその光景を夢想し、そしてため息をついた。私は今、捕らわれの身。ただひたすら、領主に殺される日を待っているだけ。どうやっても、海を見ることは叶わないだろう。


メイドは私の心の機微に敏感だった。海に興味を持った瞬間、うなだれた私の心を見透かしたかのように、確信を持った声を私に発した。


「見れるわ。あなたが望むなら。あなたはここで、死んで良いような子ではない。生きなきゃ。ねぇ、海を見るって素敵じゃない?」

「…何が目的?」

「何も。あなたが忍び込んだこの館も、そしてあなたを忍び込まさせたあなたの境遇も、それは絶対に普通な事では無いわ。なら、そこから出なきゃ。あなたは強いわ。生き延びられる」


彼女の語る言葉は、私にはとても不可解であった。その意味も意図も見つけられず、時間だけが悪戯に過ぎていく。そんなある日、メイドが唐突に聞いてきた。


「ねぇ?私あなたとこうして毎日お話ししているのに、あなたの名前を知らないわ。私はミランダ。あなたはなんて言うの?」

「……………皆は、ネズミって、呼ぶ」

「酷い!!ちゃんとした名前は無いの?!」


何故私はあの時応えてしまったのだろう。しかしそんな疑問も霧散するほど、彼女の剣幕はすさまじかった。


「ちゃんとした名前を付けなきゃ!ねぇ、あなた何て呼ばれたい?ミラベル?サリー?」

「……どうでもいい」

「駄目よそんな!名は人を現すっていうわ。そんな適当な気持ちじゃダメよ」


ミランダはこれでもかというくらい、色々な名前を挙げてくるが、特に私の興味を引くものはどれもなかった。しかし最後に、ミランダにしては珍しくおずおずと聞いてきた名前が、妙に気になった。


「エリーザ?」

「…そう、あなたさえ良ければ」


どこか困ったようにはにかむ彼女に違和感を覚え、私は訝りながら再度問うた。


「だれ?」

「……私のね、死んだ妹なの。あなたと同じくらいの時に、ちょっと風邪をこじらせて…」


よく聞く話だ。左程私の心に響く話でもなかった。しかしなぜか、口をついた言葉は真逆だった。


「…考えておく」


目に見えて喜ぶミランダを余所に、私はなぜそんな事を言ったのか。考えても答えは出なかった。


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