海のある世界
地下牢は暗く、淀んでいた。所々にある明かりのお陰で、何とか辺りが見まわせられる程度。しかし音の響き具合から、そこそこの広さがあるようだった。私はその一番奥まった所に放りこまれているようで、人の出入りはミランダ以外なく、日の光はおろか時間の感覚すら怪しかった。しかし長年培われてきた私の本能は、耳ざとく異変を察知した。反響してよくわからなかったが、屋敷の方がどうも騒がしい。私はむくりと起き上がると、しっかりと耳をそばだてた。
(…複数の足音…。がなり声…。金属の…音?)
思わず眉を潜めた。豚領主は遂に命運尽きたのか、館が襲撃されているようだ。だが流石にここからでは情勢は分からない。私はゆっくりと牢の入り口まで体を動かすと、そっと辺りを伺った。
不気味な光に照らし出されている地下牢には、私の他捕らわれているものは居ない。しかも必ず入り口近くに控えていた門番が、今は居ない。今なら混乱に乗じて逃げ出せるかもしれない。しかし私の足は重かった。ここを抜け出して、どこへ?こんな失態を犯した私を、ジュドーは決して許さないだろう。私はこのサレイドールしか知らない。ジュドーの元に戻れないのであれば、私は本当に、行き場がない。
じゃらり、と鳴った足枷を見た。壁に繋がれた太い鎖は、所々錆びて変色している。牢の扉も、経年劣化でほころびが見える。こんなもの、私の技量であれば簡単に外せるが、真に私をここに捕らえているのは私自身だ。
(もう…疲れた…)
私はズルズルとへたり込んだ。
ずっともがき続けてきた。孤児院で必死に生きていた時も、そこに絶望し街へと逃げてからも、ずっと必死にもがいてきた。死ぬのが嫌で、そこから逃げるように生を拾って、しかしその実、生きると言うことを全く理解していなかった。
辛い事しかない世界で、どうしてこんなにがむしゃらに生きようとしているのだろう?苦しい思いをしてまで、もがき続ける必要などどこにあるのだ?この世界に、一体、どれ程の価値があるのだろう?
(…今なら、死ねる…?)
『雪姉』は、あんな状態であっても『生きて』いたと思う。あの体を受け止めたとき、確かに私の手は脈動を感じた。理性も感情も全て剥ぎ取られ、それでも体は『生きて』いた。私は体の奥底から身震いした。自分もああなっていたかも知れない。
そして――なるかも知れない。
「…ぅ…あ…っ」
足元から這い上がってくる恐怖に、私は一切の血の気が引いた。ガタガタと体は小刻みに震え、止まることを知らない。私は震える体をぎゅっと抱きしめ、湧き上がる悲鳴を飲み込む。しかしそれでも迫りくる恐怖は私の心をしっかりと捕らえた。
今なら、死ねる。緩んだ鉄格子を一本引き抜き、それで心臓を一刺しすれば、全てが終わる。一切の恐ろしいことから、――解放される。
それは甘美な誘いだった。私はふらふらと吸い寄せられるように腕を伸ばすと、しかし突然の騒がしさに私の意識は途切れた。
「――っ!!あなた!!無事?!」
「ミ…ランダ?」
血相を変えて駆け込んできたミランダの姿に、私は一瞬ぽかんとしてしまった。綺麗に撫でつけられた髪は所々ほつれ、メイド服も血と煤で汚れている。しかし一番違和感を覚えたのは、その右手に握られた剥き身の剣だ。血を吸って、鈍色に光るその剣は、しかし妙にミランダの手に馴染んでいた。
「――どいて!」
思わず後ずさると、ミランダが思い切り牢の鉄格子に蹴りを入れた。鈍い音を立てながら、鉄格子がきしむ。もう二、三度蹴りを叩き込むと、鉄格子が壊れ、扉がゆっくりと開いた。
「あぁ、もう!入り口は壊せたけど、この鎖は…!!」
ミランダは悔しそうに足枷を引っ張ると、継ぎ目がないかと探し出した。
「ミランダは…メイドじゃ…無かったの?」
呆然と呟く私に、ミランダは苦笑を漏らして私を見上げた。
「メイドよ。…でもちょっと、訳ありなの」
そういってまた足枷へと目を向けた。必死になってつなぎ目を探す彼女が不思議で、私は思わず言葉になって漏れ出た。
「どうして…逃がそうとするの?」
「それはもちろん、あなたに生きて欲しいからよ」
しっかりとした声で、ミランダが答えた。
「…どうして?こんな、辛い事しか、無いのに…」
「それはね、あなたがまだ生まれて居ないからだわ」
「?」
「名前も無いあなたは、生きる事の楽しさや素晴らしさを知らない。それはね、生まれて居ないのと同じだわ」
「生まれて…」
「だからあなたは、生きてここを生き延びて、そして本当の意味で生まれるの。ここを出たらあなたは自由よ。好きなところに行って、好きな事を見て。私の生まれ故郷で果てのない海を見ることだって、何だって出来る」
「海…」
延々と続く、塩の湖。どこまでも続く大きな水たまり。沢山の船が行き来し、その上を海鳥たちが空を飛ぶ。
途方もなく大きなその世界を、私は知らない。見てみたい、と思った。知りたい、と感じた。そしてその思いは気が付けば色鮮やかな激情となって、私を飲み込んだ。私は暗く辛い世界しか知らない。でも世界には、そうでないものもあると言う事が、私の魂を震わせた。
「わたし…っ!私……っ!!」
急にポロポロと涙が溢れ、私は泣きじゃくった。ミランダは驚いて私を見上げると、優しいその手で、しっかりと抱きしめてくれた。
「大丈夫、あなたはもう自由よ。辛いだけじゃない。世界には、貴方がまだ知らないことが沢山あるから…!」
ミランダの言葉は、なぜか私の胸に染み渡った。辛い事だけじゃないという言葉が、これ以上無い希望に思えた。知らないことが沢山あると言う事が、私はとても嬉しかった。生きる事は自由だと、そうミランダは教えてくれた。
私はゆっくりと顔を上げると、ごしごしと涙を拭った。そして意を決すると隠し持っていた針金を取り出し、足枷の仕掛け部分に差し込む。そして両手で仕掛けの部分に力を籠めると、造作もなく足枷を外した。
「…あなた!!」
目を見開くミランダを見上げると、私は大きく息を吸った。
「―――行こう」
ミランダは驚いた表情を直ぐに引き締め、しっかりと頷き返してくれた。
私の手を引き、ミランダは地下牢を駆け抜ける。しかし彼女に導かれるまま進んだ地下牢は、出口とは反対の方角だった。暗い行き止まりに来ると、ミランダは壊れた燭台に手を伸ばす。そしてそれをぐるりと右に回すと、目の前の壁がゆっくりと回転した。
私は驚かなかった。ミランダは何から何まで怪しすぎる。何か目的があってこの領主の館に忍び込んでいたことは確かで、それ故脱出路にも精通していたのだろう。しかしその彼女が、ここでお別れだと言ったことには驚いた。
「…ミランダは?」
「私には、まだやることがある。それを終えるまで、ここを出れないわ」
「…死ぬの?」
私は余程酷い顔をしていたのだろう。しかしミランダは場違いなほど綺麗に笑うと、ぎゅっと私を抱きしめた。
「――いいえ、死なないわ。こんな所で死ねないの。だって私、まだまだやり残した事が一杯あるもの」
そして懐から布袋を引っ張り出すと、私の手に握らせた。
「大したことは出来ないのだけど…。これを持って行って。少しは足しになるわ」
「…どうして、ここまで…?」
ミランダが何らかの目的でこの館に忍び込んで居たにしろ、その目的の中には私は含まれて居ないはずだ。にも関わらず、ここまで気にかけてくれる彼女の真意が、私には唯一不可解だった。
「これは、私の勝手な我儘よ。あなたを見ていると…どうしても、妹の事が思い出されるの。ごめんなさい、あなたは、エリーザでは無いのに…」
困ったような泣き笑いを浮かべて、ミランダは私の頭を撫でた。彼女は、私を通して死んだ妹の面影を重ねている。しかし不思議と、嫌悪感を抱かなかった。ついさっきまで生きていたとも言い難かったのだ。むしろ、エリーザのお陰で私は今生きている。
「…ねぇ、あなたさえ良ければ、エリーザと呼ばれてくれないかしら?」
――名前。名前…私の名前…!!!
初めて世界に色が付いたかのような、そんな衝撃が体を駆け巡った。言葉にできない嬉しさに、息が詰まりそうになる。しかし私はぐっと堪えて、静かに首を横に振った。
目に見えて落胆するミランダを、私はしっかり見上げた。
「ミランダ、エリーザはエリーザの為だけの名前。だから私は使っちゃいけない」
はっとする彼女に、私はなおも続けた。
「でも、すごく嬉しかった。だから…少しちょうだい。私――リーザになる」
「 …っ!!」
ぎゅっと強く抱きしめられ、そして私も抱きしめ返した。新しい名前。新しい自分。それをこうして祝福してくれる人がいて、心の底から嬉しかった。
「――さようならミランダ。私、海を見て来る。それから、他にも知らないものを沢山。辛い事は、全部、置いていく」
「ええ、リーザ。生きて、沢山素敵なものを知って。そしていつか、それを私に教えて…!」
ゆっくりと見上げると、私はぎこちなく微笑んだ。うまく笑えただろうか?それが今の私の精一杯だった。
隠し通路は地下水路へと繋がり、そしてそれは城壁の外へと続いていた。明かりのほとんどない通路を辿りやっと外に出たときは、東の空が白んでくる頃だった。振り返れば、サレイドールが遥か後方に佇んでいる。館は鎮圧されただろうか。しかし私はあの街に戻ることは無い。
「…さて、海はどっちかしら」
木々を抜ける風が心地よい。私は大きく伸びあがると、一歩を踏み出した。
はい、『海を見るその時まで』、これにて完結です。皆さま、すぐにネズミがリーザだとお分かりになりましたでしょうか?この後リーザは、色々な出会いを経てジークやアーシェたちと行動を共にすることになります。その頃には、皆が太陽のような、と言う素敵な笑顔も見せられるようになります。彼女が裏社会には戻らずどうやって冒険者になったかは、また別のお話し。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!




