領主の館
外で大人たちの話し声が聞こえる。手筈通りのやり取りを終えると、荷馬車はまたゆっくりと動き出した。私は内心ほっとする。取りあえず、第一関門は突破だ。
何度かの右折と左折を繰り返し、再度荷馬車が止まった。
「おい、この荷はなんだ」
「へぇ。タロンのマッケロー氏からの頼まれ物でして」
「マッケローか…。中身は何だ」
「この手紙を渡すよう、言われております」
「…ふん。成程。奥の館で荷を改める。そのまま真っすぐ進め」
私は思わず身じろぎした。想定の範囲内とはいえ、冷や汗が背中を伝う。ここからが正念場だ。私は意図的に呼吸の速度を緩やかにし、ゆったりと箱の中に横たわった。
「…この箱は?」
「マッケローからの手紙では、『会合』用の貢物とある」
「…ったく、時間かけやがった。おい、開けるぞ」
急に明かりが差し込んできた。どうやら箱が開けられたらしい。しかし私は何とか身じろぎもせずに居ると、頭上から男たちの声が聞こえた。
「薬で眠っているようだな。手にも縄がしてある」
「…いつものより、少し背格好が小さく無いか?」
「知ったこっちゃねぇよ。おい、時間が無い。とっとと運び込め」
私は内心安堵した。取りあえず、忍び込むことには成功した。後は頃合いを見つけて箱から脱出すればいい。私は位置感覚を頭に描きながら、館の一番奥まった辺りに連れてこられた。
ごとり、と無造作に置かれてまた頭を打つ。思わず漏れそうになった声をひた隠しにしながら、辺りを伺った。人の気配が周りからしなくなると、ゆっくりと体を起こし箱の隙間を見やる。どうやら大きな広間のような所に連れてこられたようだ。
薄暗い室内から、恐らく地下か窓が無い部屋なのだろう。ところどころにある蝋燭が揺らめいていて、怪しげな雰囲気を醸し出している。私はゆっくりと辺りを伺うと、同じような木箱が乱雑に置いてあるのに気が付いた。恐らく、どこかから攫われてきた犠牲者達なのであろう。私は一瞬眉をひそめると、辺りを注視した。
長方形の部屋の最上段には、大きなドレープで仕切りがされている。今夜は豚領主の秘密の会合があるらしく、マッケローはそれに間に合うよう、躍起になっていたようだ。私はその会合の顔ぶれと会話の内容をジュドーに持ち帰る手筈となっている。もちろん、今回の簒奪事件の関与も含めて。その為には、どこか隠れられる場所を見つけなくてはいけない。私は会合が始まるまでの隠れ場所の目星を付けると、ゆっくりと箱の木板を動かした。
辺りには大人は居ないようではあったが、少し緊張する。誰にも気づかれないようゆっくりと木板を外すと、その僅かな隙間に体を滑り込ませ、元通りに木板をはめる。傍からは何も無かったかのように見えるその仕掛けは小さな体であるから出来る芸当で、私の十八番だ。私は足音を立てずに奥のドレープにまで忍び寄ると、その裏へと身を隠した。
少しの間息をひそめ、再度辺りを伺う。どうやら誰にも気づかれなかったようだ。私は次にドレープの壁に手をつくと、石造りのタイルの僅かな隙間に指を捻じ込み、するすると天井までよじ登っていった。
上まで登ってしまえばこちらのものだ。石造りの部屋である以上、ドレープを垂らすための仕掛けがあるはず。案の定、そこには石の天井に沿わされた鉄棒と、それを支える杭が穿たれていた。私は小さな体をそこに固定し、ドレープの襞と襞の間に身を潜ませた。ここであれば例えドレープが動いたとしても、そうそう気が付かれることも無いだろう。その上全体が見渡せる。今は暗いため何も見えないが、この広場に豚領主の同族が集まれば、その顔ぶれも含め全て収めることが出来る。
私は壁に同化するがごとく、息を潜めゆっくりと時が過ぎるのを待った。どれほどの時間が経っただろうか。急に表が騒がしくなり、私の視線がそちらに注がれた。
「おい!準備は出来ているのだろうな?!」
現れたのは領主その人だった。禿げ上がった頭と、でっぷりとした体格。正に豚領主とささやかれる、その姿が広間に現れた。私は今回の目標が現れたことに内心ほくそ笑む。領主は何事か騒ぎ立てながらお付きの従者を従えつつ、広間を真っすぐに突き進んできた。
「今日の『会合』は儂の進退に関わる重要な会なのだ!絶対に、失敗は許されん!!あれの状態はどうじゃ?!」
「はっ。魔術師殿によりますと、状態に変化は無いとの事です。問題なく、休眠状態にあるかと」
「わかっとるわ、そんな事くらい!!むしろ問題があったらどうしてくれる!!良いか、あれは儂の最高傑作じゃ!絶対に、失敗などあってはならぬ!!!」
明かりをつけろと豚領主は喚くと、ばさりと壇上のドレープを捲りあげた。程なくして薄暗かった広間が煌々と照らされ、そしてある装置が浮かび上がってきた。
目に入った瞬間、私は息をするのを忘れた。
そこは、酷く『歪んで』見えた。そこにある空間自体がねじくれ、不自然にもそこだけ隔離されたかのような異質。楕円形に切り取られたその空間は濃い暗闇の色を纏っていて、だからこそそこに浮かぶモノの白さを際立たせていた。
「…おぉ。いつ見ても美しい…!私の唯一無二、我が至宝…!」
感極まる豚領主を余所に、私の目は釘付けになった。
そこには、人の形をしたナニカが居た。私と同じくらいの背格好、腰まである長く綺麗な白髪。雪を連想させる白い肌。半眼の瞳は儚げに伏せられてはいるが、その色は鮮やかな赤であることを、容易に想像せしめた。
そう、その全てがかつて見知った、そして『あの時のまま』の雪姉だった。
驚きと恐怖で血の気が引く。しかし視線を逸らす事など出来るわけもなかった。見れば見るほど大好きだった雪姉そのもの。しかし私よりも背の高かった彼女は、遠目から見ても今の私と同じくらい。ある日突然姿を消した、あの頃の姿その物だった。
「ぐふふ…っ。この白が朱に染まる時こそが、完成された美…!これに勝るものなど、どこにも無いわ…っ!!」
豚領主が暗闇の空間にその両の腕を突き入れると、ぐにゃり、と空間が歪んで『雪姉』が引き寄せられた。暗く歪んだ空間から抜け出しても、その肢体の白さは際立っており、明かりの灯った広間の中でも異質さが際立っている。空間との接点が切れていないのか、依然宙に体を漂わせていると、豚領主がおもむろにその腹をざっくりと切り裂いた。
「ふ…っ!ふははははははははっははははははははっはははははははっ!!!!!!」
狂ったように嗤いながら、豚領主はそのぶよぶよに膨れ上がった指を彼女の体の中に突き込んだ。
「か、閣下…!!その位にしていただきませんと、『会合』までに修復が間に合いません…っ!!」
私は両手で口を抑え、込み上げてくる吐き気と悲鳴を必死に飲み込んだ。半眼だった瞳は大きく見開かれ、ビクンビクンと体を小刻みに震わせる。しかしそれでも『雪姉』は悲鳴一つ上げず、しかも血の一滴も零さなかった。
今にも逃げ出したいのに震える体は竦み上がり言うことを聞かず、その異常な光景から目が離せられないでいると、一瞬だけその虚空を映す瞳と目が合った。
何も映さないその瞳は、恐怖と絶望と苦痛で溢れていた。
「うわぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
飛び降りた瞬間の事は、未だ記憶はあやふやだ。突然の事に驚く豚領主たちを突き飛ばし、私は小さな体を『雪姉』へと躍らせた。懐に忍ばせていた短刀を手に持ち、私は重力に任せてそれを振り下ろす。鈍い、感触が手を伝う。首を半ばまで裂かれた『雪姉』は、しかし未だ暗闇に捕らわれ、『生きて』いた。
私はその事実にぞっとし、強引に歪んだ空間から彼女を引き離した。
見えない糸がぶちり、と切れるような、そんな手ごたえを感じた。すると急に『雪姉』の体がガクンと傾いで、私にもたれ掛かってきた。
「あ…っ!」
ごぼり、と噴き出した血は、鮮やかな朱だった。大きかったはずの雪姉の体は、驚くほど小さく軽かった。彼女の時間は、ずっとあの日から止まったままだったのか。『雪姉』はゆっくりと傾ぐと、何も映さない赤い瞳と目が合った。
「…っ」
そして『雪姉』は私の腕の中から四散した。噴き出した血も髪の毛の一本すら何も残さず、あたかも最初から何も無かったかのように細かい粒子となって『雪姉』はかき消えた。
――その後の事は、正直、あまり覚えていない。何事が喚く豚領主たちを余所に、私は気が付けば地下牢に放り困れていた。体中打撲と切り傷で酷い有様で、しかし私の心は虚ろだった。ただただあの時の雪姉の軽すぎた体と散っていった感覚が腕に残っていて、私は意味もなく涙を流していた。