第三十四話 何所までも拡がる蒼い空 (All Blue)
賢者編ラストです。
そして沙璃枝の疲れも取れ
Bや賢者の気持ちも落ち着き
その三人は、円柱状の部屋にまた一同介した。
賢者は最初に会ったとおりに部屋の真ん中に位置し
そして円柱の周囲は、最初に見た通りの
地下鉄の模様になっていた。
Bは部屋の外側のに腕を組んで壁に背を持たれるようにし
沙璃枝は、賢者に対峙するように部屋の中央に
それぞれが位置した。
その様は、正にこれから”何らかの試験”が始まるのだと
沙璃枝にもよく分かった。
と、同時に、それは恐らく
最も難解と思える試問なのだと直感的に分かる。
賢者は、その様に、何か怯えるような風もあり
と同時に期待に満ちている様でもあり
その二者が混在している不思議な振動をしていた。
賢者は賢者故に、何故か分かってしまっていた。
それが何なのか言語化さえできない
自分ですらよく分からない事なのに
その余りに不思議な”感”が、それを悟らせていたのだ。
だが分かっていても賢者はそれにあえて踏み込んだ。
それが彼の探求者たる探求者の所以であった。
『嬢ちゃん、この問いかけをする前に
この問いかけが、元々は何に所以しているのか
それから説明したいんじゃ』
賢者はそう切り出した。
「所以?」
沙璃枝は賢者の切り出しに問い返す。
『実はずっと意地悪じゃったんかもしれん
特にそこの、出来の悪い弟子にはな…』
「なんだ?爺さん?」
Bの方を向いて賢者がそういうので
Bはそれに眉をひそめる。
『この問いは、ワシの人生の起点になったのじゃが
実はワシの経験ではないのじゃ…
これはワシの爺さんがワシが子供の頃に語ってくれた
ワシの爺さんの、ある実体験を聞いてからの事でな…
その爺さんの話を聞いてから
ワシは人間を考える始まりになった…
まぁ若い頃は、ただ漠然とその話を聞いたのを
1つのきっかけに、人間を考える様になって…
何時の間にかプラターを壊しまくる
そんな事になってしまったがの…』
言って賢者はカカカと笑う。
『じゃが、今のこんな状態になってしまうと
ワシの爺さんの実体験は
そのままワシの人間とは何か?
の問いかけの本質になった…
だからワシのこの部屋は”地下鉄”なのじゃ』
「地下鉄…このイメージ」
沙璃枝は周囲を見回し、
それでようやく何故この部屋の壁絵が
”地下鉄”の光景なのか理解出来た。
『そうじゃな…
爺さんの話をそのままイメージしておる
じゃが、それは間違っておらんと今は思える』
「?」
『小僧に与えた問いという宿題
しかし、実は、
前置きをワシはあえて省略した…
この前置きがなければ
この質問は、本当の形にはならんのじゃがな』
「何!?」
その賢者の発言に、後ろで聞いていたBの方が反応する。
『わしゃ男相手に優しくする趣味はないんでの…
そもそも、答えが本当にあるのかも分からん
何せ、ワシも分からん問いかけなんじゃ
そんなのを懇切丁寧に、男に語ってやるほど
ワシは心は広くないんでの…』
「ちょっと待てよ、爺さん…
そりゃねーだろ?
じゃぁ俺は今まで、問題の全部を見ないまま
一部の問題を聞かされて、宿題解かされてたのかよ…」
賢者の言葉を聞いて、流石に粟立って毒づくB。
『どうせ、答えのない問いじゃと思っておったからな…
適当じゃ…
適当に言ったら、
誰か答えを教えてくれるじゃろうか?
その程度で言ってきたに過ぎん』
「ひでぇな…
かなり考え続けて来たのに…」
『そこが面白い所なんじゃよ…
適当に聞いただけでさえ、
これは考えてしまうからの…』
「で、何で、それが
今更になって全部を言う気になった?」
『そりゃ嬢ちゃん可愛いし…
男なんぞよりは丁寧にしたいじゃろ?』
「けっ!脳味噌になっても
男はスケベって事かよ…」
『そうじゃな…カカカ』
その二人のやり取りに、少しだけ微笑む沙璃枝。
しかし沙璃枝には何故か本能的に
全貌を聞かされる方が、よほど問題なのではないか
そう思えたのだった。
それはBも実は同じだった。
この問題は、その全貌が明らかになった方が
よほど不味いのではないかと、二人は思えてしまった。
『ともかく、
ワシの爺さんの話をしなければ始まらんのじゃ
なんせ、それを飛ばしてしまうと
地下鉄に居たインドの老人…
等という…今のワシでは絶対にありえない
そんな質問が突発的に出てきてしまうからの…』
「地下鉄に居たインドの老人?」
Bは初めて聞くその言葉に眉をひそめた。
そして、周囲を見回す。
地下鉄の円状の壁紙映像
そして、脳味噌だけとはいえ、インドの老人…。
その部屋の光景は、
その言葉をそのまま再現している状態だった。
「この部屋に似てますね?」
沙璃枝も気付いて、それを賢者に問いかける。
『そりゃそうじゃろ?
ワシがそれを考える為に、
部屋をこうしたんじゃからの…』
「なるほど…」
賢者の言葉に、2人は納得する。
賢者はポツポツと切り出した。
『ワシの爺さんが、昔、日本と呼ばれていた時代の
その国に行った時の事じゃったそうな…
爺さんは年寄りの癖に、
何を思ったのかその時、日本に旅行に行ってな…
ところが、爺さんは、日本という異邦の国なのに
1人でフラフラと歩いて観光したそうじゃ…
そして1人で歩いたが故に、不幸にも
人が流れていくのに巻き込まれて
その流れの海に飲み込まれると、
どんどんと自分の意志とは別に
流されて行ったという。
そして、何時の間にか地下に地下にと
人が地下鉄で移動する為の流れに巻き込まれ
地下鉄の最深部にまで、
流されてしまったそうじゃ。
ワシの爺さんは、そこで発狂した。
なにせ、インドでずっと暮らしていたんじゃ
地下鉄などという建物の意味も分からない。
そこが何処かも分からない。
ただ分かる事は、
そこには分厚い地下鉄の天井があり
インドでは当たり前の様に見えていた
蒼い空が見えないんじゃ。
それが爺さんは恐ろしくなって、発狂した…
その地下鉄で、大声を出しては
右に左に走り回って…外に…
蒼い空を探しに、走りに走り回ったという…
なんせ、いつも簡単に見えていた
蒼い空が何所にもないんじゃからな…』
そう言って賢者は一呼吸置いた。
「おい爺さん、それは本当に初耳なんだが?」
Bはその話を聞いて破顔する。
『初めて言うからの…』
「おい…」
『まぁ続きじゃ』
言って賢者は続けた。
『爺さんはその地下鉄を、ともかく迷走した。
しかし、そこは、深く、作りも複雑な地下鉄じゃ
それに爺さんは日本語も読めんかった…
案内板の意味すら分からん。
なので、爺さんはその地下鉄を
蒼い空を求めて、走り続けた。
なのに、上がったと思えば、
もっと下の階に行ったり
右に行ったと思えば、左に行ったり
ただ、行けども行けども、
コンクリートの天井ばかりの世界で
爺さんは泣き叫ぶしかなかった…
インドでは、全力で走れば、
何時でも出会える蒼い空が
その地下鉄で迷えば、行けども行けども
全く出会う事ができない。
何より爺さんが恐ろしかったのは
自分の周りの日本人じゃったという。
まったく蒼い空が見えぬのに
そのコンクリートの天井が、
当たり前の様になんの不安も感じずに、
その地下鉄の中に居られるんじゃからな。
インドの人間では有り得ん事。
それが爺さんは、一番恐ろしかったと言っておった。
蒼い空を泣き叫んで探しても見つからないのに
周りの者は、空など無いのが
さも当たり前の様にしておるのじゃ…
インドの老人にとっては、
蒼い空が無いという
それだけで恐ろしい事じゃというのに…
蒼い空があるのが当たり前と思う者にとって
そこの者達は、蒼い空が何所になくても
何も思わん、訳の分からない者達の集まりなんじゃ。
爺さんは泣いた、泣き叫んだ。
そして、その場を通りかかった若者2人に
爺さんは聞いたんじゃよ…
”若者よ…蒼い空は何所にあるのか?”とな…』
「………」
『じゃが、その爺さんの問いかけに
その2人の若者は首を捻り、
よく分からんインドの爺さんと思ったのじゃろうか?
爺さんを無視して、
どっかに行ってしまったという。
爺さんは、それに更に泣き叫び
更に地下鉄を走り回って、
蒼い空を求めて迷走し続けた…
そして、丸半日は迷走した後に
ようよう鉄道員が異変に気付いて
ワシの爺さんを保護して、
外まで連れて行ってもらったという…
そこでようやく爺さんは、再び蒼い空に巡り会った。
爺さんは、そこで泣いたそうじゃ…
”ああ、蒼い空があって…本当に良かった。
蒼い空が、もう地下鉄のコンクリートで
無くなってしまったのかと思い
恐怖しなくて良かった
ただ、蒼い空がある、
それだけが、こんなに素晴らしい事なんて…”
そう言って泣いたそうじゃ…』
「………」
『これはただのワシの爺さんの体験談じゃ…
それを爺さんは語り、
二度と地下鉄に迷い込みたくはない、と
思い出す度に泣き、蒼い空を見ては
それに感謝して、蒼い空を礼拝しておった。
ワシは、それを子供の頃に見て聞いて
ただ漠然と、その話を受け止めるしかなかった』
「おいおい爺さん…
ひでぇよ…
その前置き無いのに、あの質問なのかよ…」
『ふふん…
じゃからワシは男には冷たいんじゃよ…』
「ちっ…」
『問題はワシにとってその後じゃった…
その話を子供の頃に漠然と聞いて…
そんな話もあるモノかと
思っていただけじゃったが…
インドが人口問題で、
プラタ-人とアリスター人という
どうしようもない話で
争乱になっていっての…
いや、なによりその前が一番の問題かの
それこそ、
あの馬鹿な第三次世界大戦…
最初に偵察衛星をブチ壊してしもうて
戦略核がみんな怖くなって、
ビクビクしながらやった
あの第三次世界大戦…
戦争自体は、そんな”なんちゃって”
で、やったモンじゃから
何時が正式な始まりで、
何時が正式な終わりなのか
それすら定かではないまま
当事者達は、
無理矢理、終了宣言を出して終わった…
そんな、戦争だったのかもよく分からない、
あんな戦争だったのに…
その終わった後に世界を襲った、
難民達の飢餓で…
結果的に20年で20億近くが死んだ…
遙かな昔の、第一次や第二次世界大戦の様な
凄惨な殺し合いを、兵士がしたわけでもないのに
第三次世界大戦が、第三次世界大戦として
記録されねばならんかったのは
今までの世界大戦の中で、
最も人が記録上は死んでしもうたからじゃ…
まぁ二大陣営は、
戦後の餓死はノーカンとか言いおったんで、
最も戦死者の少ない戦争と豪語したがの…
まったく人間というのは勝手な生き物じゃて…
で、そんな飢餓死と貧困と混乱が襲ったインドで
エネルギー問題は深刻になり
プラタ-だのアリスターだので揉める事になった。
ワシは若者で血気盛んじゃったからの…
そんな欺瞞が許せず
そして、プラタ-という歪なモノも許せず
ただ嫌いというだけで
それを壊しまくって、重犯罪テロリストになった』
「…‥…‥」
『そんな、どうしようもない時代を生きていると
不意に爺さんの話を思い出してしもうたんじゃ
地下鉄で迷走して泣き叫んで走ったという
ワシの爺さんの話を…
それは…今のワシと同じじゃと思った…
こんな、人が人で無くなって
この世界の天井が、地下鉄のコンクリートと
同じ様になって…
それで、何所に行けば蒼い空があるのか
まったく分からない…
昔、爺さんが日本で味わった恐怖。
それと、ワシの今が、まったく同じ事と
その時、ワシは気付いてしもうた…
じゃからワシも叫んでしもうたんじゃ
”蒼い空は、何所にあるのか!?”とな…』
「ちょっと、おい!
爺さん、酷すぎるぜ!!
この質問、そんな難問だったのかよ!」
その賢者の宿題の”本当の問題の姿”を知って
愕然とするB。
それは、昔に、軽く聞かれたそれとは
遙かに比べものにならない難問であった。
『カカカ…
それからワシは
国に捕まって、こんな事になってしもうたがの
それでもずっと考えておったんじゃ…
こんなになっても…
この問いかけの答えを…
ずーっと探しておった…』
そう言って賢者は自嘲気味に笑う。
そして、キッと前を向くと沙璃枝に対面した。
『じゃから、わしはまた問いかけてしまう…
問いかけずには居られないんじゃ…
なぁ、美しい、お嬢さん…
なんて美しい、お嬢さん…
この地下鉄の様な世界で
若い貴方よ…
”貴方に尋ねたい…
人類の、蒼い空は、
一体、何所にあるんじゃろうか?”と』
その時、その賢者はとても強い言葉で、
そう沙璃枝に問いかけた。
沙璃枝はその質問の全貌を聞いて破顔して
天を仰ぐしかなかった。
「これ、きっと”それは天空です…”
なんて馬鹿な解答をしたら
賢者師匠に、
心の底から、笑われちゃうんでしょうね?」
そう言って沙璃枝は引きつった笑みで微笑む。
『そうじゃの…
ちょうど小僧に、
遙か昔に、同じ質問をして
そんな答えを聞いたの…
それでワシは笑ってやった』
「ひでぇよ爺さん…
問題の全部も聞かせずに、
ほくそ笑むなんてな…」
その賢者の言葉に、腐るB。
『じゃぁこの問いかけの全て聞かせたら
小僧のお主は、何か答えが変わったのかの?』
言って賢者はカカカと笑う。
「夏休みの宿題が、
本当の地獄になるだけだったな…」
『じゃろうな…
そもそも、この答えは、ワシも知らんしの…』
そう賢者が言うと、
その2人は思わずワハハハと
お互いに笑うしかなかった。
「師匠…ちょっとだけ時間を貰えませんか?」
沙璃枝はその質問に顔に手をやり、渋面になった。
『構わんよ?
この問いかけは
そこの小僧は何年も提出できんかった宿題じゃ
やっぱり答え無しで、返ってきても
どうする事もできんしの…
ワシにも、答えはないんじゃし…』
言って賢者はカカカと笑った。
沙璃枝はそこから後退し、Bの所に帰って
二人で作戦会議と洒落込むしかなかった。
「ちょっと義兄ちゃん…
これは酷いんじゃない?」
「いや、俺も酷いと思うな…
酷すぎる…」
「これって、結局…
この世界そのものの…
この世界が無くした蒼い空の在処を
教えて下さいって
言われたようなもんでしょう?
そんなのの、答えが分かったら…」
「”ようなもん”じゃねーよ
そう聞かれてるんだよ!
なるほど
爺さんの人間探求のメインテーマで
爺さんが死にかけ寸前まで
ずっと問いかけるわけだ…
宿題提出?
馬鹿か?俺は…
そんなモン簡単に分かったら
この世界が、こんな終わりかけの世界に
なってしまうかよ!
ひでーよ爺さん…
せめて、問題を全部ぐらい
言えっての!」
言ってBは、長年の賢者の意地悪に
苛立つしかなかった。
「でも、全てを開示されてたとして
だから、どうにかなったっていうの?」
そんなBのぼやきに目を細める沙璃枝。
その時、沙璃枝の心は沙璃枝だけでなく
三姉妹の気持ちと記憶が重なり合い
沙璃枝は、”強く融合した”沙璃枝になって
6代目が聞いていた未完成の”問いかけ”の
知識を思いだし、Bの言葉に毒づく。
Bは、そんな沙璃枝の変化が分からず
嫁の知識性質まで表に出ている事を
自然に流してしまい、会話を続けた。
「まぁどうにもならんな…
そもそも、爺さんが答えを持ってないんだ。
いや、誰も、答えなんか無いんじゃないか?
これって、永遠の問いかけって
奴になるんじゃねーのかな?」
言ってBはハァと深い溜息をつく。
「答えが全く無い
永遠の問いかけか…
そうなのかしらねぇ…」
そのBの言葉にしかし、何かモヤモヤする沙璃枝。
「だって人類の蒼い空なんて
何所にあるんだよ?
この部屋のように
本当に、言われてしまえば
世界はまるで複雑に入り組んだ地下鉄だ…
誰もが、この地下鉄で彷徨ってる…」
そう荒々しく言ってBは髪の毛をかきむしった。
「そんなに髪をグチャグチャしてたら
禿げるわよ…」
Bの荒い髪の扱いにそう言ってみる沙璃枝。
「もう、心の方が禿げそうなんだ!
だったら髪だって禿げるだろ?
だがこの際、髪なんぞ、どうだっていいわ…」
Bは沙璃枝のそんな言葉に肩を上げた。
「ふーん、そうですか…
うーん、でもねぇ…」
「でも?」
「この問いかけって…
たった1つの答えしかないのかな?」
「ん?」
沙璃枝が不意にそう言い出した事に
Bは眉をひそめて沙璃枝を見つめた。
「永遠に答えのでない問いかけ…
って言うけれど…
そうじゃなくて…」
「? そうじゃなくて?」
その時、沙璃枝の心の中の
制御しにくい”ソレ”が、無作為に弾けて
漠然としたイメージと連想を作りだす。
「この問いかけって…
答えが無数に…
無限に存在している問いかけで…
だから答えが無くなるんじゃないかしら?」
「はぁ?」
Bは沙璃枝が面白い事を言い出したのに対して、
その言わんとする事を覗き込む。
「数学で言えば、
偏微分方程式の一般解の様なイメージかな」
言って沙璃枝は唇を歪めた。
「偏微分方程式の一般解?」
Bは沙璃枝が難解な表現を使い出した事に
その言葉を反芻して、困りながらも更に問うた。
「偏微分方程式は、解いたとしても
一般解は漠然としたモノで…
”その様な答え空間の範囲”でしか無いわ。
偏微分方程式を解けば
その一般解では、答えは1つじゃなく
無数に無限にあって、
”その様な答えの空間の範囲”が答え。
それが一般解。
だから、この問いかけも
偏微分方程式を解いてる様なモノで
一般解が漠然と分かるだけなんじゃないかしら?
”人の蒼い空が何所にあるのか?”
なんて、そんなの…
人によってマチマチじゃない…
人が人の居るだけ、答えが生まれる…
そんな無限情報生成でしょ?
だから、答えが無いのではなく、
偏微分方程式の一般解の様に
無限に答えがあるから
答えがないように思えるだけなんじゃ
ないのかしら?」
そう言いって
重合する沙璃枝の意識はεの扉まで開いて
彼女の正に全身全霊で、その解釈を生み出した。
「無限に答えのある問いかけか…
それじゃ、この問いかけの答えは
人の心の中にあるって事だな…
答えがその人の中に個々にあるんなら
この世界の全ての人間の心の中に
千差万別に答えがある。
なら答えは、人の心の全て…
それが、一般解って事になるんか?」
そう言ってBは沙璃枝の解釈を茶化した。
「人の心の全て…」
沙璃枝はそんなBの何気ない言葉に
ふっとそれを考えてみた。
「なんだ…
なら簡単じゃない…」
その時、沙璃枝は、制御し難い”ソレ”が
またしても弾けて、そのイメージを連結させた。
「簡単だと?
どうしてだ? 無限にある答えだぞ?
そんなの無いのと同じじゃないか!」
Bは沙璃枝が、この難問を簡単と言った事に
驚いて粟立つしかなかった。
沙璃枝はそんなBを見返す。
「だって、貴方のその言葉が
正に答えでしょう?
人の心の全て…
それがこの問いの一般解…」
沙璃枝はそう言って微笑む。
「いやまぁ、そうかもしれんが
爺さんが求めているのは、
そんな、どうにでも変形してしまう
形さえない”漠然”じゃないだろう?
爺さんが聞いているのは…
人の心の中に、蒼い空を取り戻す方法で…」
言ってBは口を窄める。
「だから結局、一般解では駄目なのよ…
微分方程式では、一般解は答えであっても
それは”範囲”であって、それだけ…
それを解く人は、
求めているのは”一般解”じゃない。
”一般解”から、更に踏み込んだ”特殊解”よ。
それが、人の心に、個別に生まれる無限の答え。
境界条件を与えたときに生まれる
その条件の時だけの”特殊解”
だから、多分、発想が逆なのよ…」
「発想が逆?」
沙璃枝のその言葉にBは自分のいつもの論法を
逆手に取られた事に驚くしかなかった。
「そう、この問いかけ…
心の偏微分方程式は、境界条件を与えなければ
”人の心の中全て”が一般解。
でも賢者は境界条件を与えてる…
”人の心の中に、蒼い空を取り戻す方法”
という境界条件をね…
なら、賢者の求める心の答え、
それが答えなんでしょう?」
言って沙璃枝は悪戯っぽく微笑んだ。
「な、なるほどって所だが…
それが大難問なんだろう…
どんな答えがそこにあるんだよ…」
Bは沙璃枝のその屁理屈に閉口するしかなかった。
「そうねぇ…
あ、でも…これが賢者が教えてくれた
”具象化”なのね…」
「ん?」
「だって、賢者は教えてくれたじゃない。
その人の心の中に入り込む
その人の為だけの心の槍を、瞬時に練成する事が
具象化なんだって…
賢者の心を貫く、具象化が出来れば
それが賢者への、特殊解」
そう言って沙璃枝は、胸を張った。
「賢者の心を貫く…δ領域にまで侵入する槍ねぇ…
そんなモノを練成して具象化できたら
全人類、全員、貫けるんじゃねーか?
あんな極限状態の賢者の心を
貫く槍を作るってんだからな…」
Bは沙璃枝のその言葉に、思わず笑ってしまうしかなかった。
ここに来るときに、僅かに想像してしまった”それ”
しかし、流石にそんなモノは無いと思えた。
「んーーー」
そんなBの指摘に沙璃枝は指を顎に当てて考え込んだ。
そして不意に、Bの方を向く。
「ねぇ。
B、好きよ。
貴方の事が大好き」
沙璃枝は何となくそう言った。
「は!?何だいきなり!?」
Bは沙璃枝が急にそれを言ったで
反射的に後ろに転倒し、
あまりの驚きに心臓を激しく鼓動させた。
思わず自分の胸に手をやる。
「もー、実験よ、これは普通に実験。
さっきから、ずっと考えてるのよ…
貴方に、これを言った時に、
この言葉に乗っている私の”心の形”
それって何なのかって…
気になってて…
だから、言ってみて、調べただけよ」
沙璃枝はそう言ってBが本当に衝撃を受けて
転倒した事に、目を細めるしかなかった。
「あ、あのなぁ…
そんなの今する事か?」
Bは沙璃枝の言葉に破顔するしかなかった。
「だって最強の言葉なんでしょ?
”好き”って言葉は…
A10神経を貫く、直結バイパス。
でも賢者に”好き”って言ったって
それで賢者の心が貫けるわけでもなし。
最強の言葉でも、何の役にも立たないのだもの。
それじゃ、それを越えるには…
”好き”を越える様な、そんな言葉はって
考えてしまうとね…
なら…実験したくなるじゃない…
貴方達が、きちんと教えてくれない
その、制御不能な感情ってのを、ねぇ…
それが答えを見つけてくれるんじゃないかって
ちょっと、そう思えたから…」
沙璃枝は言ってやれやれとBを見下ろすしかなかった。
「あーー?
あーーーー
まぁ言いたい事は分からんでもないが…
あのな
アレは考えてどうにかなるモンでもねーよ…
むしろ、考えない方が、アレはいいさ…
”ただなんとなく、ソレ”
”ふいに、アレ”
アレは、そういうモンだかんな…
そして、それがむしろいい、って、そういうモンだ」
言ってBは、何でも知りたがりの沙璃枝に
言葉にするよりも、もっと大事な”感じる”のそれを伝える。
「”なんとなく、ソレ”
”ふいに、アレ”ねぇ…
なんだか、難しいモノなのねぇ…
でも、なんだろうなぁ…
この問いって、本当に難しいのかなぁって
何か、もっと簡単な事を
見落としてしまっているような…
それが、”ふいに、アレ”、だったら分かる気がして…」
言って沙璃枝はその地下鉄のような天井を見上げた。
「何か、もっと簡単な事の見落とし…
そんな簡単な事の見落としなんて…」
言ってBは沙璃枝の指摘”簡単な事”を考える。
沙璃枝も、同じ様にずっと、この問題を最初から
思い起こして…
この問題の中にある”モヤモヤ感”
この問いかけの中にある”モヤモヤ感”それを見つめた。
何か、もっとも簡単な事を、見落としてしまっているのでは
という”単純な盲点”それを考える。
『地下鉄に居るインドの老人』
そのメタファー。
その時だった。
”ふいに、アレ”
が正に、不意に沙璃枝の中を走った。
「あ…」
沙璃枝はその、”ふいに、アレ”、に貫かれ
この問いかけの”単純な盲点”に気付いてしまった。
「そうか…そんな簡単な事だったんだ!」
沙璃枝はその気付いてしまった盲点に
驚いてその胸を両手で押さえつけた。
「そんな簡単な事?
答えが分かったって?
人類最大の難問だぞ!?」
Bは見上げる沙璃枝の
不思議なまでの晴れやかな表情に驚き、
彼女が気付いた事に問いかける。
「そうか…好きって言葉は最強の言葉…
でも、この思いだって、
槍の形として変形できるんだ…
大切なのは、心。
そしてそれを、相手の為に具象化する事。
それだけの事だったのね!」
言って沙璃枝は満面の笑みを浮かべた。
「は?何言ってるんですか?
沙璃枝さん?」
Bは沙璃枝の、1人で勝手に分かって
満足している独り言に、腐るしかなかった。
「これの答えは、とっても簡単よ!
簡単過ぎるくらい、簡単な答え!
言葉にするなら”乙女の真心”
それが答え…
でも、言葉だけじゃ、これは意味を成さないの。
だから、私、行ってくるわ…
宿題の提出に…」
言って沙璃枝は微笑みながら、
賢者の方に向かって歩き出した。
「おいちょっと待て沙璃枝!
答えが、乙女の真心!?
ナンダソレ!?」
Bは素っ頓狂な事を突然言い出した沙璃枝に
流石に彼女を止めようとするしかなかった。
しかし沙璃枝はどんどん賢者に向かって歩いて行く。
その自信あり気な様にアテられ
Bはハァと溜息をついて、成り行きに任せる事にした。
”乙女の真心”!?
ナンダソレ?
その時、不意に沙璃枝はBの方を振り返る。
「ねぇ、B、大好きよ!
ありがとう!」
そう言って微笑んだ。
「そんなの、しつこく
二回も実験しなくていいよ!」
その面食らう言葉に顔を押さえるB。
「馬鹿…
これは嫁の本心よ…
旦那様が答えの糸口を見つけてくれたから
ありがとうって、そういう気持ちなのに
本当に、馬鹿なんだから…」
言って沙璃枝は仏頂面になるしかなかった。
「嫁とか、何言ってんだ!
お前、今、俺の義妹の方だろ!」
Bは沙璃枝のその言葉に毒づく。
Bは気付いていなかった。
沙璃枝が今、三姉妹全員が重なり合って
その連鎖状態の意識になっている事に。
沙璃枝は何か楽しむような表情で
つかつかと賢者の前に歩いて行った。
『なんじゃい嬢ちゃん…
答えでも見つかったんかい?
こんな、答えのない問いかけに…』
そう言って賢者は、
何か楽しそうな表情の沙璃枝を見て、
不思議に思いそう尋ねた。
「はい、見つかりました!
この問いかけの答え」
その賢者の問いに、満面の笑みで答える沙璃枝。
『ほう、答えがあるとな!
なら是非聞かせて欲しい!!
超越者はこの問いに、
どんな答えを見つけたんじゃ?』
そんな沙璃枝の絶対的な自信を伺わせる笑顔を見て
その存在しないと思っていた問いに
答えがあるという彼女の言葉に、
僅かに興奮する賢者。
それは出会った時からの、奇妙な予感だった。
今日、何故か、何十年も問いかけてきた答えを、
ようやく知る事ができるような気がしたので…。
「だたし賢者…
これは言葉だけで伝えれません。
いや、言葉だけで伝えてはいけない事なんです」
そう言って沙璃枝は賢者を見つめる。
『言葉だけでは、伝えてはいけない答え?』
その沙璃枝の言葉に、心の眉をひそめる賢者。
「ええ、言葉では伝えれない思い…
だから賢者、私と一緒に
公演して貰えませんか?」
沙璃枝は微笑んでそう言った。
『公演?』
沙璃枝の素っ頓狂な言葉に、
ますます眉をひそめる賢者。
「心を伝えるのは、
何も言葉だけではないという事です。
そして、この答えは行動を伴わなければ
たどり着けない答えなのです…
だから賢者、私と一緒に
公演をお願いいたします」
そう言って沙璃枝はスカートを手で緩く広げて
ペコリとお辞儀する。
『なんじゃか、よく分からんの…
じゃが、そんな事を言われたのは
流石に、初めてじゃわい
なら面白い…
行動を伴わなければ、見つからない答え…
それが蒼い空の在処とはの…
それならば、是非とも一緒に公演させて
ワシに教えて欲しいの
どうすればいいんじゃね?』
賢者はあまりにも不思議な事を言い出す沙璃枝に
得意になって、彼女の言葉に乗ってみる事にした。
そして、どう公演するのかを尋ねる。
「この部屋のイメージのままで…
想像をお願いします」
『ほう?』
「そして貴方は、貴方が言われた
貴方のお爺さんのイメージで…
賢者、貴方は今、地下鉄の中
その最下層、そこで狼狽えている老人。
そんなイメージをして下さい…」
『ふむ…
しかし、イメージどころか
それが今のワシの心境、そのままなんじゃが?
この景色ではいかんのかの?』
沙璃枝の物言いを理解し、
しかしそれは最早そうである事を告げる賢者。
「そうですか…
ではこれから、
公演を開始して、よろしいでしょうか?」
その言葉に頷くと、そう公演の開始を促す沙璃枝。
『ああ、お願いしよう…
どの様な、公演かの…
なんだかワクワクしてきたぞい…』
言って賢者はじっと沙璃枝を見つめた。
その対峙した瞬間の僅かな間。
沙璃枝は目をつぶって僅かに顔を上げ
そして意を決して、その目を開いた。
次の瞬間、沙璃枝はこれ以上ないまでの
優しい微笑みを浮かべて、賢者の前にそっと手を出す。
「あら?異邦の国のお爺さん
どうされたんです?
そんなに、ここで泣き叫んで?」
そう言って沙璃枝は、賢者の脳に近付いた。
『!?』
その突然に始まった、沙璃枝の「公演」に
流石に状況が飲めず、目を白黒させる賢者。
「そんなに泣いて、お困りの様ですが…
どうしたのかを、
私にお聞かせ願えないでしょうか?」
言って沙璃枝は賢者の脳にまで近寄り
その手を賢者に触れさせた。
その様に、思わず賢者は飲まれてしまった。
『お嬢さん…
嗚呼、異邦の国のお嬢さん…
無いのですじゃ…
蒼い空が…蒼い空が何所にもないのですじゃ…
いつもはあった、あの蒼い空が
ここには何所にもないのですじゃ…』
賢者は沙璃枝の微笑みに飲み込まれて
その舞台の公演者に一瞬の間になってしまった。
「まぁ…蒼い空ですか…
でもお爺さん…
ここは地下鉄の最下層ですよ?」
『地下鉄の最下層?
それは何ですじゃ?
ワシにはわからん
ワシには何もわからんのですじゃ…』
「まぁまぁ…
そうなのですか…お爺さん…」
『そうなんですじゃ…お嬢さん…』
その時、賢者には何者かが乗り移ったかのように
そんな錯覚が生まれ、そのイメージ
地下鉄で泣き叫ぶインドの老人になってしまった。
「それは仕方がありません
ここは、お爺さんの分からない
地下鉄の最下層ですから…」
『地下鉄の最下層?』
「はい、地下鉄の最下層
蒼い空が何処にも無い所です」
『そんな馬鹿な所があるんかの!
走ればインドでは、
何所でも蒼い空に出会えたのに!』
「それでもこの地下鉄の最下層には
蒼い空は無いのです。
でも大丈夫ですよお爺さん…」
『大丈夫?
どうしてですじゃ?』
その時、沙璃枝は、そっとその手を差し伸べた。
「それなら、
私が地下鉄の出口まで案内してあげます…
お爺さんでは、
この地下鉄を自力で出るのは難しいわ…
なので私が、出口まで、案内をしてあげます
さぁ、お手をどうぞ…」
言って微笑みながら沙璃枝は
その手を差し出し、それを揺らして促した。
『お嬢さんが、
ワシを外に案内してくれるので?』
その老人は、驚いてそういう。
「困った時はお互い様でしょう?
私に案内を任せて下さい…
この地下鉄の出口まで、
お爺さんを案内しましょう…」
『おおお、娘さんや、ありがとう…
案内を、案内をお願いしますじゃ…』
そう言った時、賢者の脳の映像から
沙璃枝の手を取る、賢者の手が伸びてきて
その手は沙璃枝の手を握った。
「では、お爺さん、行きましょう…
でも、ここは地下鉄の最下層
かなり歩きますが、よろしいですか?」
『案内してくれるのなら、
幾らでも歩きますじゃ…
ワシはただ、会いたい…
もう一度、蒼い空に会いたいだけなんですじゃ…』
言って賢者は沙璃枝の手をギュッと握る。
「では、歩きましょう…
とにかく、上に登る階段にまで行きましょう。
ここは地下鉄の最下層…
上に上がらないと、外には出られません」
『階段とは何ですじゃ?
ワシには何もわからんのですじゃ…』
「階段とは、
蒼い空まで続く登り道です」
二人は手を取って歩く仕草をしながら
そんな会話を続けた。
「はい階段につきましたよお爺さん」
そう沙璃枝が言ったとき、
そこには階段のイメージが映し出された。
『これが階段ですかな?』
「はい、この階段を上っていけば出口です…
ここを登れば蒼い空にたどり着けますよ
さぁ、一緒に階段を登りましょう…」
そう言って沙璃枝は賢者の手を引っ張って
その階段を登り始める仕草をする。
『ここを登れば、出口に出られるのですか?
お嬢さん…』
「はい…、ここを登っていけば…
この地下鉄の出口から、出られます…」
『何所まで登ればいいんですじゃ?』
「まぁお爺さんが居たのは
地下鉄の最下層でしたからね…
少し、この階段を登るのには
時間がかかります…」
『それでも、登り続ければ出口には
出られるんですかの?』
「はい…」
そう言って二人はずっと階段を登り続けた。
『お嬢さん、随分、階段を登りましたが
出口はまだですかいのう?
何時になったら出口になるんですか?』
「今は地下の何階なんでしょうかねぇ?
ここはとても深い地下鉄ですから…
でも大丈夫…
この手を離さず付いてきて、
この階段を登って下さい…
どんなに深い地下層でも、
地上に繋がらない地下なんてありません…
登り続ければ、いつかは必ず地上です…
私を信じて、私の手を離さず
この階段を登って下さい…」
言って沙璃枝は、ずっと階段を登り続ける。
『お嬢さん、貴方の言うとおり
登っていますが、何時になったら
出口なのですじゃ?
登っても登っても…終わりがありませんぞ』
老人は少女と階段を登り続けながら
益々不安になって、そう言うしかなかった。
「みんなが、
在るのが当たり前に感じる、
蒼い空は、
実は失ってみると、
こんなに再び出会うのに
苦労するモノなのです。
でも大丈夫…
この階段を、登り続ければ、登り続ける程に
間違い無く、蒼い空に近付いています…
この階段は、
蒼い空が、どんなに大切だったのかを
もう一度教えてくれる
そんな再発見の通路なの…
失って、初めて分かる大切さ…
それを噛みしめる為にも
一歩一歩、この階段を登って下さい
お爺さん…」
『なるほどの…
無くして初めて分かる事を
噛みしめる階段がこれなんですじゃな…』
「そうです…
なので、無くしてしまった蒼い空を
それが大切だった事を思い出して
一歩一歩登っていきましょう…
お爺さん…」
『なんと
お嬢さんは、優しいんですじゃな…
こんな老いぼれのワシに、
こうまでして下さって…』
「何を言っているんです、お爺さん…
人間なんですもの…
一緒に手を取るのは、
当たり前の事じゃないですか…」
『人間じゃから、一緒に手を取る
それが当たり前!?』
その時、老人の目が輝いた。
「はい、私達は人間なんです。
困った人には手を差し伸べる。
迷った人は道案内する。
人間なら、当たり前の事じゃないですか?
だからこんな事で
感謝の言葉は要りません」
そう言って沙璃枝は微笑んだ。
『おお…おおおおお!!!』
その老人は、そんな沙璃枝の言葉に
驚嘆の雄叫びを上げる。
そして二人は階段を登り続けた。
『まだですかな?お嬢さん?出口は?』
「まだですね、お爺さん」
そして二人はまた階段を登り続けた。
『まだですかな?お嬢さん出口は?』
「まだですね、お爺さん」
二人はただ階段を登り続けた。
『まだですかな?お嬢さん出口は?』
「まだまだですね、お爺さん」
そんなやり取りを何度も繰り返し
二人はずっと、階段を
終わりが来る事など無いかのように
営々と登り続けた。
二人は、飽きるほどまで、登り続けた。
それが蒼い空を忘れてしまった罰であるかと
言うが如くに。
そしてその登りを長い事続けた、ある時、
不意に沙璃枝はその歩を止めた。
『どうしたんですじゃな?
お嬢さん…
まだ階段は上に続いていますぞえ?』
その階段の途中で止まった沙璃枝に
老人は問いかけた。
見上げれば、まだ出口の見えない階段が続いていた。
「いいえ、ようやく出口につきました」
その階段の途中、沙璃枝は唐突にそう言う。
『何を言っておられるんですじゃ?
階段はまだ上に続いていますぞ?
これの何所が出口なんですじゃ?』
老人は、沙璃枝の言葉にそれを尋ねる。
「いいえ、ここが出口です。
お爺さん、頑張りましたね…
お疲れではありませんでしたか?
さぁ、この地上を眺めて下さい」
沙璃枝は笑ってそう言った。
『ここはまだ地下鉄の階段ですじゃ
出口ではありませんぞえ
どういう事なんですかの?
蒼い空は、何所にあるんですじゃ?
お嬢さん…
蒼い空は?』
老人は沙璃枝にそう詰め寄った。
「お爺さん、
耳を澄まして、目をこらして
臭いを嗅いで、その舌で味わって
そして体の全てで、感じて下さい…
心の中の、忘れられない五感全てで。
ここが出口です…
ここはもう地上ですよ?」
『ここが出口?
何所ですじゃ?
何所に地上があるんですじゃ!
蒼い空は何所ですじゃ!』
沙璃枝の不可思議な言葉に
老人はまた泣き叫んだ。
「どんなに世界から、
蒼い空が無くなったと思っても
どんなに世界が
地下鉄の最下層だと思っても
思い出して下さい、お爺さん。
蒼い空はずっと貴方の側にある。
こうやって階段を登っていると
感じれるはずです」
『どうしてですじゃ?
何所なんですじゃ?
蒼い空は何所ですじゃ?』
沙璃枝の言葉に、老人はただ続いている階段を
左右にキョロキョロと見回すしかなかった。
「蒼い空の在処は簡単です。
ねぇ貴方の心に思い浮かべて…
貴方の求める蒼い空を…」
『なんですと?』
その時、沙璃枝はふっと自分の胸に手を当てた。
「この胸に手を当てて、
お爺さんも思い浮かべて下さい
蒼い空はいつも貴方の側に…
貴方の心の中に
あるのです…」
そう言って沙璃枝は果てしなく
柔らかい笑みで微笑んだ。
『蒼い空は、ワシの心の中にある!?』
その時、その老人は衝撃を受けた。
そして周囲をその老人は見回す。
そして沙璃枝と同じ様に、老人も自分の胸に
自分の手を当てて、その目を閉じた。
「そう、じっと心に問いかけて
心の中に思い浮かべて下さい…
蒼い空を…
思い出せば、求めれば、見えるはず。
だって、昔は見えてたのですから。
それをじっと胸の中に思い出して
心の中に蒼い空を広げて下さい。
それが見えたのなら、
いつでも何所でも
蒼い空は、貴方と共にあるのです…」
そう沙璃枝が言った時、その円柱の部屋
地下鉄の光景で埋め尽くされた周囲
そして出口のない階段が全て壊れ
その後には、蒼い空が映し出された。
蒼い空は、その部屋に何所までも広がっていた。
『空?空じゃと!?』
その老人はその突然に現れた空に声を上げた。
「ねぇ?お爺さん
貴方の心の中から、
蒼い空が湧き出てきたでしょう?
忘れていただけなの…
思い出せば、ずっとそこは蒼い空」
そう言って沙璃枝は老人の肩に手をやって
側に寄り添って、その広がる空を一緒に見つめた。
『おおおおっ!!
おおおおおおおっ!!
おおおおおおおおおっ!!!』
老人はその自分の心の中に広がる
蒼い空に出会って、これ以上ないまで絶叫した。
何所までも激しく、何所までも鮮烈に
その老人は咆哮するしかなかった。
「ねぇ?お爺さん…
ここが出口、ここが地上です。
蒼い空に、たどり着けましたよ?」
沙璃枝は優しくそう囁いた。
その時、そこには脳の映像ではなく
インドの老人がたたずんでいた。
そしてインドの老人は、地に伏せ
そこで大地を何度もバンバンと叩く。
『おおお!!
蒼い空じゃ!!
もう一度出会えた、蒼い空じゃ!!
おおお!!
空よ!
蒼い空よ!!
会いたかったぞい!!
お前にもう一度、会いたかったぞい!!』
言って老人は、その天空に向けて両手を一杯に広げ
再開した蒼空を心の底から讃えた。
『こんな近くに
お前は居たんじゃな!
こんな、直ぐ近くに、お前は居ったんじゃな!
”何所”ではなかった…
”ここ”だった…
ここに在ったんじゃ!』
言って老人は自分の胸を両手で抱きしめ
勢い余って、その胸を拳でガンガンと強く叩く。
そしてその後に、激しく泣き始めた。
『嗚呼、空よ!
空…
嗚呼、ただ空よっ!
何所までも蒼い空。
もう二度と無くさまいて!
この階段を登り続けたワシじゃもの!
永遠に忘れるものであるか!
お前の在処など…
絶対に!
嗚呼、お前は、ただそこに居た!!』
老人は魂のかぎり、その広がる空に咆哮した。
そしてその咆哮に寄り添う沙璃枝も微笑む。
「はい、お爺さん
もう無くさないで下さい…
大切な、心の蒼い空です。
でも、お爺さん心配しないで…
もし、また再び
お爺さんが蒼い空を失ったら
その時は、また一緒に手を取って
蒼い空を探しましょう?
それはいつも心の中。
一人で彷徨えば見つからなくても
二人で手をとって、階段を登れば
必ず、何時でも、見つかりますから…」
その老人の咆哮を受け止めて
しかし彼女はそう言葉を添えて優しく微笑んだ。
その言葉に、老人は泣いた。
心の底から泣くしかなかった。
『ああ!神よ!!
ああ、ワシがその存在を許さなかったその神よ!
だが今は、感謝しますぞい!
この出会いを、もたらしてくれた貴方に!
嗚呼、貴方に!!
ああ、ワシは、そうだったのか!
それだけだったのか!!』
そう叫んで老人は何度もバンバンと大地を叩いた。
そして老人は泣きながら、すっとそこで立ち上がった。
老人は泣き顔のままで、その手を沙璃枝にそっと差し出す。
『握手をしてくれませんか?
心優しいお嬢さん…
この蒼い空との再会をくれた、貴方と…』
老人は微笑んでそう言った。
沙璃枝もその言葉に微笑む。、
そして二人は蒼い空の下、
その地上の上で、手を取り握手をした。
『ワシは実は、
ずっと探しておったんですじゃ…
ある人を…』
老人はそう言った。
「ある人?
誰を捜していたんです?」
沙璃枝は尋ね返す。
『本当の心を…
本当の真心を持つ人を…』
老人は涙を流しながら笑ってそう答えた。
「見つかりましたか?
人間」
沙璃枝はそれをただ風の様に流して問い返す。
『ええ、見つかりましたとも…
今、目の前に居る貴方…
それが私が探していた、人だった…
もう一度、出会いたかった
本当の人間…
それが貴方だった…
もう一度、出会いたかった
もう一度だけ、一度も出会った事のない
本当の人間の貴方に、会いたかったのですじゃ…
そして長い放浪の末に
蒼い空の在処を知る、本当の人間
私は、それにようやく出会えた…』
老人は言って、これ以上ない微笑みを浮かべた。
「………」
沙璃枝はその言葉に沈黙する。
『貴方に出会えて良かった…
貴方にずっと出会いたかった…
その夢が叶った…
なら、もう何も思い残す事は
ありませんですじゃ…
ああ、満足ですじゃ…』
「ご老人?」
その不思議な切り出しに、沙璃枝の眉が歪む。
その時、その老人の体は、どんどん白い粒になっていき
この蒼い空へ、登り始めていた。
「賢者!賢者様!?」
その光景を見たとき、沙璃枝は何が起きたのか
直感的に分かって叫んだ。
『ワシはこの蒼い空に
どうやら還る時間のようですじゃ…
じゃがもう何の未練もない…
だって、もう一度出会いたい人に
会えたのですから…』
言って老人は、
どんどんと空に登る光の粒子になっていった。
「そんな!賢者様!」
『もう一度、本当の人間に会えた…
この何という幸せか…
ありがとう、お嬢さん…』
「お爺さん!!」
『人間を見つけましたぞえ…
それは真心…
差し伸べるられる手の平…
それこそが蒼い空じゃった』
言って老人は止め処なく涙を零す。
「駄目、賢者様! まだ逝っちゃやだ!!」
沙璃枝はその突然の離別に叫ぶ。
『お嬢さん、
始まりがあれば全てには終わりがある。
それが生きるという事ですじゃ
永遠に生きる恣意なぞ、
むしろ拷問と思いませぬか?
ワシはもう十分、生きました…
そして最後に蒼い空という、幸せを得た。
なら、ここがワシの終わりでいいんですじゃ
そして、この心のバトンは、
優しいお嬢さんに、預けますですじゃよ』
「心の…バトン…」
『そう、命は全て、
バトンを渡して繋げていく事ですじゃ
ですから今度は、貴方が走者…
じゃが貴方はワシより真の人間
きっと、それは美しい走りと確信できます』
「賢者…!賢者様!!」
沙璃枝は、光が昇天していくその様に
何時の間にか泣いていた。
『ワシの為に泣いてくれますか?
嬉しいですのぉ』
「だって人間だもの!!」
『そうですか
そうですじゃな…
人間ですからの…』
その沙璃枝の涙と言葉に老人は微笑んだ。
『この案内とワシの為に泣いてくれた
御礼ですじゃ…
僅かなながらに、
本当の人間の貴方に
この矮小で無知なる私が
分相応の助言などを…』
「………」
『心が無いから…
全ては機械になるのですじゃ…
それだけの事
それだけの…簡単な事ですじゃ…
貴方のような真心があれば…
後はどうにでもまりますぞい…』
そう言って老人が微笑んだとき
老人は全て光の粒子になり、
その、何所までも蒼い空に
拡散して飛び上がって行った。
賢者は、何所までも蒼い空に昇天した。
ふむ。「宿題提出」という作中のBの言い回しは、私の事かもしれません。きっとそうですね。これの元になった話は、中学校の頃に友達と二人で話し合ってた時の、1つの笑い話からです。それは確か新宿か渋谷か、まぁ東京の地下鉄という話だったハズですが、そこでインドから旅行に来た老人が地下鉄の迷路の様なアレに迷い、通行人の二人組に、ただ普通に「若者よ、蒼い空は何所のあるのか?」と、地下鉄の出口を尋ねたという、そのままの迷子になって問いかけた、というネタ話です。しかし、その問いかけに作中では二人は無視した事にしましたが、その二人は顔を見合わせて、その質問を考え込んだというのが、この話の本当のアクションだったかと。ただインドの老人は地上への出口を聞いたというだけなのに、「インドの老人」という言葉のイメージだけで哲学賢者という気にさせられるそれに、その若者二人は地下鉄の様な現代社会に対するインド哲学者からの問いかけなのか?と、思わず考え込んでしまった。というネタでありながら、それがそのまま哲学的な問いかけになるという、現実の中の一瞬のシーンに生まれた、現代の社会に対する本質的な問いかけ。「インドの老人に、何かなんでも無い普通の事を問いかけられたら、それだけで、哲学的問いかけをされてるような気になるよな…」と、当時は二人で笑った、そういう記憶が原点です。が、そのネタの様な逸話が、不思議な程、何故か「蒼い空は何所にあるのか?」と考え続ける命題になってしまい、この歳でもずーっと考え込んでしまうというハメに…。その私の宿題に私が「今ならこう考えるのだが?」という解答が、今回の話です。まぁ話中に、「その答えは人の心の中で千差万別」と書いてますので、この問いに対峙したときに、対峙した人ごとに、蒼い空の在処があるのでしょう。私の解答が、こうというだけです。なので、問いかけですが、「貴方にとって、蒼い空は何所にありますか?」そう尋ねてみたいですね。