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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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第三十五話 吸血鬼と神父の夢をみた。まだ、この世には生まれていないかもしれない物語の話だ。

 吸血鬼と神父の夢をみた。


 また夢である。


 最近の俺は、夢に対する信用が低い。


 水底。


 階段。


 濡れた見本誌。


 篠宮怜子。


 そして今度は、吸血鬼と神父。


 ジャンルが急に変わった。


 夢制作委員会、迷走していないか。


 いや、迷走ではないのかもしれない。


 場所は教会だった。


 たぶん。


 ステンドグラス。


 暗い礼拝堂。


 長椅子。


 蝋燭。


 血の匂い。


 祈りの言葉。


 少女がいた。


 白い肌。


 細い首。


 赤い目だったかもしれない。


 黒い髪だったかもしれない。


 そこは曖昧だ。


 ただ、彼女は吸血鬼だった。


 少なくとも、俺の夢の中ではそうだった。


 不安定で、危うくて、血と夜の気配をまとっているのに、どこか少女向けの棚へ置ける軽さがある。


 怖いのに、きれい。


 きれいなのに、ひどい目に遭いそう。


 そして、隣に神父がいた。


 神父。


 ただし、優しい神父ではない。


 慈愛と微笑みで迷える子羊を救うタイプではない。


 もっとこう、性格が悪い。


 口が悪い。


 たぶん、敢えて言うならば、いわゆる鬼畜眼鏡系、と言うやつである。


 少女を救うのか、利用するのか、守るのか、追い詰めるのか、読んでいるこちらの感情をぐりぐり踏んでくる類いの男。


 聖職者なのに、聖職者らしい安心感がない。


 むしろ、安心させてから刺す。


 そんな顔をしていた。


 夢の中の俺は思った。


 ああ、これ、絶対に面白かったやつだ。


 未来で読んだ。


 たぶん。


 少女向けで。


 吸血鬼の少女と、鬼畜系神父の話で。


 ビーンズ文庫の作品だった気がする。


 たしか、新人賞絡みで。


 大賞作がなくて、優秀賞が事実上の一位みたいな扱いだったような。


 いや、待て。


 待て待て待て。


 平成十三年十一月。


 角川ビーンズ文庫は創刊したばかり。


 くだんの新人賞は、まだない。


 まだ、この世には存在していない。


 つまり、この夢に出てきた物語は、まだ誰かの頭の中にもないかもしれない。


 あるいは、どこかの誰かの中で、まだ言葉になっていないだけかもしれない。


 応募用紙もない。


 締切もない。


 受賞作もない。


 タイトルも、俺は思い出せない。


 そう思ってしまったことにぞっとしたのに止められなかった。最低なことに。


 でも、思い出せないのに、面白かった感触だけはいやに確かだった。


 吸血鬼の少女。


 神父。


 血。


 祈り。


 契約。


 たぶん、ひどい男。


 たぶん、読者が「こいつ最悪」と言いながらページをめくるやつ。


 夢の中の俺は、その物語の背表紙を探した。


 けれど、棚には何もなかった。


 あるのは、まだ白い背表紙だけ。


 題名のない本。


 生まれていない本。


 俺が手を伸ばすと、その本は水ではなく、闇へ沈んだ。


 そこで目が覚めた。


     *


 十一月十一日。


 日曜日。


 俺は布団の中で、天井を見ていた。


 水底ではない。


 階段でもない。


 ケーキの上でもない。


 よろしい。


 ただし、頭の中には吸血鬼と神父がいる。


 よろしくない。


 かなりよろしくない。


「起きた?」


 航がソファから声をかけた。


「起きています」


「沈んでない?」


「沈んでいません」


「階段は?」


「出ていません」


「紙は?」


「出ていません」


「じゃあ何?」


 なぜ分かる。


「顔が、何か出た顔」


 顔。


 本当に情報漏洩がひどい。


「吸血鬼と神父が出ました」


 航が固まった。


「……夢に?」


「はい」


「水底よりは、まだ元気そう?」


「どうでしょう」


「吸血鬼と神父って、元気なの?」


「片方はたぶん死人寄りです」


「朝から何の話?」


 俺もそう思う。


 航は起き上がり、毛布を畳んだ。


 泊まっている。


 昨日も泊まった。


 もう泊まっていることが日常になりつつある。


 よくない。


 いや、嫌ではない。


 そこがよくない。


「怖い夢?」


 航が聞いた。


「怖いというより、まずい夢です」


「まずい?」


「仕事にしたくなる夢です」


 航の目が細くなった。


「それはまずい」


「はい」


「メモ帳は?」


「見ていません」


「ペンは?」


「持っていません」


「よし」


 よし、ではない。


 いや、よしである。


 この夢は、かなり危険だ。


 水底の夢は身体からの苦情だった。


 階段の夢は事故の再演だった。


 だが、吸血鬼と神父の夢は、未来知識の誘惑である。


 しかも、まだこの世にない物語。


 これを紙にしたらどうなる。


 タイトルは思い出せない。


 具体的な筋も曖昧。


 だが、要素はある。


 吸血鬼の少女。


 神父。


 鬼畜系。


 血と祈り。


 少女向けの美味しい危うさ。


 それを、今の角川ビーンズ文庫へ持ち込めば。


 誰かが企画にするかもしれない。


 誰かが似たものを書くかもしれない。


 まだ未来で生まれるはずの物語が、違う形で奪われるかもしれない。


 いや、奪われるという表現が正しいかも分からない。


 未来は固定ではない。


 俺がここにいる時点で、もうかなり壊れている。


 だが、それでも。


 まだ書いていない誰かの物語を、俺が先に紙へ落としていい理由にはならない。


「さっちゃん」


 航が言った。


「はい」


「仕事にしない方がいい顔してる」


「していますか」


「してる」


「はい。しない方がいいです」


「じゃあしない」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃないから、今決める」


 航は真面目だった。


「さっちゃん、迷うと紙にするでしょ」


「否定しづらいです」


「だから、紙にする前に決める。しない」


 正しい。


 かなり正しい。


 ペンを持つ前に止める。


 紙になる前に止める。


 生まれていない物語を、社長室の机へ置かない。


「では」


 俺は言った。


「今日の夢は、仕事のメモにはしません」


「うん」


「吸血鬼と神父の具体案は書きません」


「うん」


「タイトルも思い出そうとしません」


「思い出せるの?」


「思い出せません」


「じゃあ、思い出そうとしない」


「はい」


 そう。


 タイトルを思い出してはいけない。


 思い出せないことが、今は救いだ。


 ぼんやりした感触のまま、置いておく。


 名前を与えない。


 紙にしない。


 会社に持ち込まない。


 それが、今日の安全策である。


     *


 朝食はトーストだった。


 ついにパン。


 固形物どころか焼き目がある。


 人類はここまで回復した。


 航はバターを塗りながら聞いた。


「でも、なんでそんな夢見たんだろ」


「分かりません」


「昨日、未発売本の話したから?」


「可能性はあります」


 未発売本。


 読者が読んでいい時。


 まだ出してはいけない情報。


 その話をした翌日に、まだこの世に生まれていない物語の夢を見る。


 かなり意地が悪い。


 夢制作委員会、脚本が悪辣である。


「未来で読んだ本?」


 航が聞いた。


 声は慎重だった。


 航は、俺の未来知識を雑に扱わない。


 九月のこと。


 二〇二六年の俺。


 転売厨だった俺。


 この世界に来たこと。


 彼は全部を理解しているわけではない。


 俺も理解していない。


 だが、航は聞く時に足場を作ってくれる。


「たぶん」


 俺は言った。


「ただ、タイトルは思い出せません」


「内容は?」


「吸血鬼の少女と、神父。少女向け。たぶん、今後できる新人賞絡み」


「今後できる?」


「はい」


「今はない賞?」


「ありません」


「じゃあ、まだ応募もできない」


「はい」


「その人、まだ書いてないかもしれない」


「はい」


 航は少し黙った。


 トーストを皿に置く。


「それ、さっちゃんが会社で言ったらどうなるの?」


「分かりません」


「誰かが書くかもしれない?」


「はい」


「でも、その未来で読んだ人が書くはずだった話じゃなくなるかもしれない?」


「はい」


「じゃあ、だめそう」


 航はあっさり言った。


「だめそう」


「うん。だめそう」


「子どもの判定みたいですね」


「でも、そうじゃない?」


 そう。


 だめそう。


 かなり正しい。


 難しい言葉はいくらでもある。


 創作倫理。


 未来知識の利用。


 未発表作品の先取り。


 投稿制度の改変。


 ジャンル市場への介入。


 だが、生活の言葉にすると、だめそう、である。


「もし、その物語を書いた人が未来にいるなら」


 航は言った。


「さっちゃんが今、横から持ってきたら、だめそう」


「はい」


「知らない人の鞄から、まだ出してないノートを取るみたい」


 刺さった。


 かなり刺さった。


 まだ出していないノート。


 応募もしていない。


 出版もされていない。


 タイトルもない。


 でも、どこかの誰かの中に芽があるかもしれない。


 それを、未来から来た俺が「こういうのが当たる」と社長室へ置く。


 それは、かなり気持ち悪い。


「航」


「うん」


「今の表現、強いです」


「仕事にしないでね」


「しません」


「本当に?」


「はい」


「メモしたい顔」


「……しました」


「だめ」


「はい」


 だめそうの次は、だめ。


 簡潔である。


     *


 昼前、小早川から電話が来た。


 休日なのに。


 いや、連絡網である。


 俺のせいで、休日でも体調確認が発生している。


 申し訳ない。


 謝ると怒られるので、感謝に変換する。


 難しい。


「はい、篠宮です」


『体調は』


「熱なし。頭痛なし。足首は少し痛みますが、昨日より軽いです」


『食事は』


「朝食を食べました」


『階段は』


「使っていません」


『仕事の紙は』


「開いていません」


『夢は』


 来た。


 航が横でこちらを見る。


「見ました」


『内容は』


「吸血鬼と神父です」


 電話の向こうが少し沈黙した。


 小早川でも沈黙することがあるらしい。


『……水底よりは、距離がありますね』


「そうでしょうか」


『身体症状というより、頭が仕事へ逃げようとしている夢に聞こえます』


 鋭い。


 非常に鋭い。


『書きましたか』


「書いていません」


『よろしい』


「ただ」


『ただ?』


「未来の未発表作品に関わる可能性があるので、仕事の紙にしてはいけない内容だと思います」


 さらに沈黙。


 今度は少し長い。


『社長に共有してよろしいですか』


「概要だけなら」


『具体は』


「話しません」


『タイトルは』


「思い出せません。思い出さない方がいいと思います」


『分かりました』


 小早川の声が少し変わった。


 秘書の声から、もっと慎重な声へ。


『怜子さん』


「はい」


『その判断は、たぶん正しいです』


「はい」


『未来の知識を、会社の利益のために使える時もあるかもしれません』


「はい」


『ですが、まだ書かれていないかもしれない物語を、会社の紙にしてはいけません』


「はい」


『それは、読者の声を資料にしすぎないことより、さらに危ういです』


 その通りだった。


 読者の生活を材料にしない。


 美咲の言葉を資料にしない。


 未発売本の途中経過を勝手に外へ出さない。


 そして、まだ生まれていない物語を、未来知識で先取りしない。


 線が増えていく。


 だが、必要な線だ。


『ただし』


「はい」


『制度の話なら別です』


「制度」


『賞や投稿の入口です』


 俺は息を止めた。


『具体的な物語を持ち込むのではなく、若いレーベルが新しい書き手と出会う入口を持つ必要がある、という整理なら、社長室の紙になり得ます』


 小早川。


 強い。


 そうだ。


 吸血鬼と神父は書いてはいけない。


 でも、そこから浮かぶ制度の話はある。


 ビーンズ文庫は創刊したばかり。


 レーベルは読者への約束。


 では、書き手への入口はどうするのか。


 新しい少女向けレーベルに、新しい書き手を呼び込む仕組みは必要だ。


 未来にある新人賞。


 今はまだない。


 それを、作品の具体ではなく、入口として考える。


 それなら。


 いや、待て。


 それも未来知識ではある。


 だが、既存の出版業界には新人賞がある。


 ライトノベルでも賞がある。


 角川グループにも、投稿や賞の仕組みはある。


 ビーンズが将来持つかもしれない入口を、今の文脈で考えることは、盗作とは違う。


 ただし、慎重に。


「小早川さん」


『はい』


「その紙は、今日書きません」


『当然です』


「月曜以降、社長室で、制度の一般論として扱います」


『よろしい』


「吸血鬼も神父も書きません」


『書かないでください』


「はい」


 航が横で親指を立てた。


 なぜ。


 いや、合格判定らしい。


     *


 午後、社長から電話があった。


 休日なのに。


 この会社、休日の概念が弱い。


 いや、俺のせいである。


 分かっている。


「はい、篠宮です」


『吸血鬼と神父だそうだな』


 第一声。


 やめてほしい。


「小早川さんから」


『概要だけ聞いた』


「具体は話しません」


『よろしい』


 社長の声は、少しだけ面白がっていた。


 だが、芯は硬い。


『タイトルは』


「思い出せません」


『思い出すな』


「はい」


『思い出したとしても、言うな』


「はい」


『紙にするな』


「はい」


『夢の中でも書くな』


「夢の中まで」


『君は夢の中で紙を拾うからな』


「否定できません」


 社長は小さく笑った。


 それから、声を落とした。


『篠宮君』


「はい」


『未来の売れた作品を持ってくるのは、いちばん簡単で、いちばん汚い』


 重い。


 かなり重い。


『君は売れた後を知っている。こちらは売れる前を生きている』


「はい」


『売れる前の苦しみ、書く前の迷い、応募する前の時間。それを飛ばしてはいけない』


「はい」


『まだ書いていない誰かの机から、紙を盗むな』


 航と同じ場所を刺された。


 まだ出していないノート。


 まだ書いていない誰かの机。


「はい」


『だが』


 社長は続けた。


『入口は作れる』


「はい」


『若いレーベルが、若い書き手と出会う入口だ』


「はい」


『物語を指定するな。だが、物語が来られる場所は考えろ』


 物語が来られる場所。


 それは、社長室の紙になる。


 タイトルなし。


 吸血鬼なし。


 神父なし。


 血も祈りも書かない。


 ただ、新レーベルに必要な入口として。


「月曜に、一般論として整理します」


『一枚だ』


「はい」


『タイトルは“新人賞”ではなく、もっと手前でいい』


「手前」


『書き手との入口。投稿導線。レーベルが読者だけでなく作家にも約束すること』


「はい」


『創刊は入口を読者へ示す。次は、入口を書き手へ示す』


 社長はそう言った。


 強い。


 かなり強い。


 メモしたい。


 しかし電話中である。


 そして今日は休日。


 航がこちらを見ている。


 ペンはない。


 助かった。


『メモしたい顔をしているな』


「電話です」


『見える』


 なぜ。


 社長も電話越しに見えるのか。


 この会社、能力者が多すぎる。


『今日は書くな』


「はい」


『月曜まで覚えていられる程度のものだけ、紙にしろ』


「覚えていられないものは」


『今日の君には不要だ』


「はい」


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 航が聞いた。


「書くなって?」


「はい」


「月曜まで覚えていられる程度だけ?」


「なぜ分かるのですか」


「顔」


「……はい」


 顔。


 もう諦めよう。


     *


 夕方、美咲からメールが来た。


お兄から聞いたけど、

今度は吸血鬼と神父?

夢、ジャンル幅広すぎ。

でもタイトル思い出せないなら、無理に思い出さない方がよくない?

人の本っぽいならなおさら! 美咲


 義妹予定者様、強い。


 そして鋭い。


 高校生なのに、物語への距離感がかなりまともである。


 俺は返信した。


«その通りです。

具体的な物語としては扱いません。

月曜以降、制度の一般論としてだけ考えます。

怜子»


 返信はすぐにきた。


«かたい。

でもよし。

まだない話を先に取ったら、なんか泥棒っぽいもんね。

入口作るのはいいけど、誰かの話を勝手に置くのはだめ。  美咲»


 泥棒。


 転売厨だった俺には、かなり刺さる言葉だった。


 未来で俺は、物を動かして稼いでいた。


 需要と供給。


 希少性。


 初動。


 在庫。


 公式の詰まり。


 読者が買えない隙間。


 その隙間で生きていた。


 今の俺は、紙の詰まりを直そうとしている。


 だが、未来知識でまだ生まれていない物語を先に取れば、それは別の種類の転売みたいなものだ。


 未来の価値を、過去で先取りする。


 最低だ。


 かなり最低だ。


「航」


「うん」


「美咲さんの言葉も強いです」


「仕事にしない」


「しません」


「でも、刺さった?」


「刺さりました」


「そっか」


 航は、少しだけ俺の方を見た。


「さっちゃん、元転売厨って言ってたもんね」


「はい」


「だから余計に嫌なんだ」


「はい」


 未来の売れ筋を知っている。


 未来のレアを知っている。


 未来の価値を知っている。


 それを過去で先取りする。


 それは、転売厨の延長だ。


 この世界で、俺がいちばん警戒すべき自分だ。


     *


 夜。


 航は、ペンを持ってきた。


「一行だけ」


「よろしいのですか」


「今日は書いた方がいい気がする」


「仕事の分析では」


「自分の線引き」


 自分の線引き。


 それなら、必要かもしれない。


 俺はメモ帳を開いた。


 吸血鬼。


 神父。


 タイトルなし。


 まだない賞。


 まだ書いていない誰か。


 未来知識。


 転売。


 入口。


 制度。


 書くべきことは多い。


 だが、一行。


 俺は書いた。


 まだ生まれていない物語を盗まず、物語が来られる入口だけを考える。


 ペンを置いた。


 航が読む。


「うん」


「合格でしょうか」


「合格」


「仕事の紙に見えませんか」


「ぎりぎり、さっちゃんの反省」


「ぎりぎり」


「でも、月曜に使うなら、ちゃんと別の紙にして」


「はい」


「吸血鬼と神父は?」


「書きません」


「タイトルは?」


「思い出しません」


「よし」


 航はペンを回収した。


 監督者である。


     *


 寝る前。


 航は帰らなかった。


 今日も泊まる。


 ソファに毛布。


 俺は布団。


 水底は遠い。


 階段も遠い。


 吸血鬼と神父は、まだ少し近い。


 ただ、紙にはしなかった。


 名前も与えなかった。


 タイトルもない。


 それでいい。


 今は、それでいい。


「航」


「うん」


「もし、月曜に制度の紙を書くとして」


「うん」


「それは、未来の盗用でしょうか」


 航は少し考えた。


「分からない」


 正直だった。


「でも、吸血鬼と神父を書かないなら、少し違う気がする」


「はい」


「賞とか入口って、誰かがそこへ来られる場所を作るんでしょ」


「はい」


「それなら、誰かのノートを取るんじゃなくて、机を用意する感じじゃない?」


 机を用意する。


 また、強い比喩が来た。


 この男、本当にIT系勤務か。


 営業や編集の方が向いていないか。


「航」


「うん」


「その表現も強いです」


「仕事にしないでね」


「しません」


「でも、月曜に社長さんへ言うくらいならいいかも」


「いいのですか」


「俺の言葉って言わないなら」


「では、一般化します」


「ほら、仕事の顔」


「すみません」


 航は笑った。


「でも、悪い顔じゃない」


「そうですか」


「うん。今日は、盗まないように悩んでる顔」


 盗まないように悩む顔。


 それは、元転売厨には必要な顔かもしれない。


 かなり遅いが。


 遅くても、今やるしかない。


     *


 目を閉じる。


 夢の教会が少し浮かぶ。


 吸血鬼の少女。


 神父。


 血。


 祈り。


 タイトルはない。


 名前を呼ばない。


 未来で読んだかもしれない物語。


 まだ、ここにはない物語。


 いつか、誰かが書くかもしれない。


 応募するかもしれない。


 選ばれるかもしれない。


 読者の手に届くかもしれない。


 その時、俺は思い出すのだろうか。


 ああ、これだった、と。


 たぶん、思い出す。


 だが、今はまだ思い出さない。


 思い出してはいけない。


 平成十三年十一月。


 ビーンズ文庫は生まれたばかり。


 読者への入口を整えながら、いつか書き手への入口も必要になる。


 それは分かる。


 だが、入口を作ることと、入ってくる物語をこちらで先に決めることは違う。


 レーベルは読者への約束。


 そして、たぶん、書き手への約束にもなる。


 あなたの物語を、こちらで盗まない。


 あなたが来られる入口を、こちらは用意する。


 それくらいの距離でいい。


 吸血鬼と神父の夢をみた。


 まだ、この世には生まれていないかもしれない物語の話だ。


 タイトルは思い出せない。


 思い出さない。


 紙にも書かない。


 ただ、月曜になったら一枚だけ。


 吸血鬼も神父も書かずに。


 物語が来られる入口について、社長の机へ置く。


 それは盗みではなく、机を用意することだと。


 そう言えるように。


 今夜は、眠る。


 誰かのまだ白いノートに、俺の字を書き込まないために。

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