第一話 決算短信と紙の帝国
俺が最後に見ていたのは、Amazonの出品管理画面と、KADOKAWAの決算短信だった。
右のモニターには、購入者からの問い合わせ。
商品がまだ届きません。
本日中に届かない場合、キャンセルと低評価を検討します。
その下には、ゆうパックの追跡画面。
動かない。
まったく動かない。
お前は平成の役所か。
いや、平成どころか令和の画面でこれだから腹が立つ。
左のモニターには、KADOKAWAの決算短信。
売上はある。
作品もある。
IPもある。
なのに利益が削れている。
嫌な数字だった。
市場に熱はある。
読者もいる。
欲しい人間もいる。
それでも、届かない。
噛み合わない。
どこかで目詰まりしている。
そして俺の部屋にも、まさに目詰まりした商品が積み上がっていた。
限定版コミック。
店舗特典つき画集。
復刻ゲーム機。
アニメコラボグッズ。
六畳ワンルームの床は、段ボールに占領されていた。
俺は転売厨だった。
褒められた人間ではない。
定価で買えなかった誰かの怒りを、俺は利益率として計算していた。
最低だと思う。
だが、だからこそ分かることもあった。
公式が需要を取り逃がした瞬間、その隙間には必ず値段がつく。
誰かが買えなかったものを、誰かが高く売る。
それが俺の飯の種だった。
「だからさあ……」
俺は乾いた目で決算短信を見た。
「需要、見えてねえんだよ……」
口に出した瞬間、こめかみの奥で何かが弾けた。
痛い、と思う前に視界が傾いた。
机の角。
倒れるペットボトル。
床の段ボール。
止まった追跡番号。
白くなる画面。
最後に思ったのは、人生への後悔ではなかった。
発送通知を押していない。
それだけだった。
*
目が覚めた瞬間、俺は悲鳴を上げた。
いや、上げたつもりだった。
実際に出たのは、短く引きつった女の声だった。
「ひっ――」
知らない天井。
知らない匂い。
紙。
煙草。
コーヒー。
古い空調。
そして、知らない身体。
まず、胸元に違和感があった。
次に腰。
脚。
肌に触れている布の感覚。
ストッキング。
スカート。
ブラウス。
ブラジャー。
脳が処理を拒否した。
「待て待て待て待て待て」
声が違う。
俺の声ではない。
高すぎるわけではない。むしろ低めで、よく通る。冷たく整った声。
だが、俺の声ではなかった。
俺は椅子から立ち上がろうとして、足元をもつれさせた。
ヒールだった。
「なんでだよ!」
叫んだ声も女だった。
そこで本格的に駄目になった。
机に手をつく。
呼吸が荒くなる。
心臓が速い。
いや、心臓の位置まで違う気がする。
肩幅が狭い。
手が細い。
爪が整っている。
髪が視界の端に落ちる。
何もかもが、自分の身体ではない。
俺は壁際の姿見に視線を向けた。
見なければよかった。
鏡の中にいたのは、二十代後半くらいの女だった。
白いブラウス。
紺のジャケット。
肩で切りそろえられた黒髪。
薄い口紅。
目元だけが妙に冷たい、美人と言っていい顔。
その女が、完全に取り乱した顔でこちらを見ていた。
「誰だよ……」
口にした瞬間、膝から力が抜けた。
床に座り込む。
スカートが乱れる。
慌てて直す。
その動作がまた、自分のものではない。
「いや、直すな。いや、直せ。いや、何してんだ俺」
終わっている。
転売厨人生が終わったと思ったら、今度は若い女の身体で目覚めた。
何を言っているのか分からない。
俺にも分からない。
胸元の社員証が揺れていた。
俺は震える手でそれを掴む。
> 角川書店
社長室秘書課
篠宮玲子
「しのみや、さとこ……」
知らない名前。
だが、知らない会社ではなかった。
角川書店。
いや、角川。
KADOKAWA。
俺が死ぬ直前に決算短信を見ていた会社。
その前身。
紙の帝国。
社員証の下部に印字された発行日らしき日付を見て、俺は完全に固まった。
二〇〇一年四月。
「……は?」
令和から平成へ。
男から女へ。
転売厨から社長秘書へ。
属性の落差で脳が死ぬ。
「無理だろ」
声は震えていた。
「いや無理だろ。なんでだよ。俺、発送通知押してねえんだぞ」
そこかよ、と自分で思った。
だが、人間は本当に限界になると、しょうもない現実にしがみつくらしい。
発送通知。
購入者メッセージ。
低評価。
段ボール。
決算短信。
ゆうパックの止まった追跡番号。
そして、鏡の中の女。
全部がつながらない。
つながらないまま、扉がノックされた。
「篠宮君、いるか」
男の声。
低い。
近い。
偉そう。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
自分の意思ではなかった。
身体が勝手に反応した。
呼吸を整える。
ジャケットの裾を直す。
髪を耳にかける。
乱れたスカートを正す。
社員証の向きを戻す。
篠宮玲子という女の身体が、仕事の姿勢を知っていた。
怖い。
中身が壊れているのに、身体だけが社会人として正常に動く。
「はい」
返事が出た。
冷たい声だった。
さっきまで床に座り込んでいた人間とは思えない声。
扉が開く。
五十代半ばの男が入ってきた。
仕立てのいいスーツ。
濃い眉。
こちらを見る目は穏やかだが、奥が笑っていない。
社長。
たぶん、この時代の角川書店の社長。
俺は名前を知らない。
だが、篠宮玲子の身体は知っているらしい。
自然に頭が下がった。
「資料は」
「こちらに」
机の上の紙束を差し出していた。
俺が考えるより先に、篠宮玲子の手が動く。
社長は資料を受け取り、表紙を見た。
> メディアミックス推進に関する社内検討資料
俺の目も、その文字を追った。
出版。
映像。
ゲーム。
グッズ。
宣伝。
営業。
部門別。
作品別ではない。
損益がつながっていない。
需要を観測する仕組みもない。
俺の震えが、少しだけ止まった。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、怒りが混ざった。
見覚えのある欠陥だった。
未来で何度も見た歪みの、まだ若い形だった。
社長が資料をめくりながら言った。
「篠宮君は、これをどう見る」
どう見る。
知らない女になっている。
二十五年前にいる。
社長室にいる。
何も分からない。
だが、その資料が甘いことだけは分かった。
俺は少し口を開き、閉じた。
ここで何か言えば、戻れなくなる。
黙っていれば、まだ状況を確認できる。
普通はそうする。
普通の人間ならそうする。
だが俺は、普通ではなかった。
転売厨だった。
市場の歪みで飯を食っていた。
そして、歪みの匂いには敏感だった。
「甘いです」
声が出た。
社長の指が止まる。
「どこが」
「すべてです」
言ってから、俺は内心で頭を抱えた。
終わった。
転生初日。
女体化直後。
平成十三年。
社長室。
第一声が、社内資料への全否定。
社会人として、最悪の初動である。
だが社長は怒鳴らなかった。
むしろ、少しだけ興味を持った顔をした。
「続けて」
続けるのかよ。
俺は深く息を吸った。
まだ手は震えている。
ヒールの感覚も気持ち悪い。
ブラウスの襟も落ち着かない。
鏡の中の女の顔を思い出すと、叫びたくなる。
それでも、資料の欠陥は見える。
見えてしまう。
「読者は、部門で買いません」
俺は言った。
「作品で買います」
社長の目が細くなった。
俺は資料の一枚目を指差した。
「ですが、この案は出版、映像、ゲーム、グッズを別々に見ています。会社側の都合です。読者の動きではありません」
「普通はそうだ」
「普通なので、失敗します」
社長室の空気が冷えた。
今度こそ終わったかもしれない。
だが、止まらなかった。
「作品別に台帳を作るべきです。出版部数、実売、返品、広告費、映像化権、ゲーム化権、グッズ化、契約期限、再版予定、担当者、全部を紐づける」
「紙でか」
「最初は紙でも構いません。ただし、検索できる形に移行してください」
「検索」
社長が、その言葉を繰り返した。
この時代の検索は、まだ未来のような空気ではない。
Amazonだって、日本では前年に始まったばかりのネット書店だ。
和書と洋書を大量に並べる、外資の変な本屋。
出版業界から見れば、脅威というより、まだ観察対象だろう。
でも俺は知っている。
あれは本屋で終わらない。
ただし、今それを言っても誰も信じない。
だから言い換える。
「情報を探す時間は、今後必ずコストになります」
俺は震える指を、資料の余白に置いた。
「探せない契約は、使えない権利です。見えない需要は、存在しない需要として処理されます。届かなかった作品は、売れなかった作品として扱われます」
そこで、少し声が熱を持った。
「それは違います」
社長が俺を見る。
「欲しい人がいたのに棚になかった。予約したかったのに窓口がなかった。告知が届かなかった。初版が少なすぎた」
俺は、令和の部屋を思い出していた。
段ボールの山。
怒る購入者。
動かない追跡番号。
跳ね上がる相場。
公式在庫切れ。
「それを需要がなかったと呼ぶのは、あまりに雑です」
言い切ったあと、急に現実が戻ってきた。
俺は若い女の身体で、角川書店の社長室に立っている。
何をしているんだ。
何を言っているんだ。
だが社長は、笑った。
小さく、喉の奥で。
「篠宮君」
「はい」
「君は今日、ずいぶん様子が違うな」
心臓が跳ねた。
「……体調が優れないためかと」
「そうか」
「はい」
「では、体調が悪いまま役員会に出てくれ」
「はい?」
素が出た。
社長は資料を閉じた。
「今の話を、午後の役員会でやる」
「私が、ですか」
「君が言い出した」
俺は言葉を失った。
転生直後。
性別変更直後。
状況把握不能。
なのに役員会。
無理だ。
絶対に無理だ。
だが、篠宮玲子の顔は無表情だった。
身体は、頭を下げていた。
「承知いたしました」
承知するな。
俺は心の中で叫んだ。
だがもう遅い。
平成十三年の角川書店で、社長秘書の女になった俺は、わけも分からないまま改革案を口走ってしまった。
そして一番恐ろしいことに。
その改革案は、たぶん間違っていなかった。
*
俺はこの時、まだ知らなかった。
この午後の役員会での一言が、角川書店の未来を少しずつ狂わせていくことを。
そして社内で、篠宮玲子という女がこう呼ばれるようになることを。
社長室の氷点下。
数字で刺す女。
議事録の魔女。
そして、未来を見ている秘書、と。




