第三十話 猫の日も、人の日も、あなたの最愛
丸一日が経ち、人間に戻ったミレイユに、殿下が切り出した。
「二のつく日のことだが」
「は、はい……本当に申し訳ありません。なんだか、とんでもなく変な体質になってしまって」
「謝罪はいらない」
「でも」
「ミレイユ」
殿下が、ミレイユの名前を呼んだ。
猫としてではなく、人として。
しかも、初めてまっすぐ名前で呼ばれた気がして、ミレイユははっと顔を上げた。
「問題ない。むしろ、ちょうどよかった」
「ちょうど……?」
殿下が少しだけ間を置く。
「ミィがいなくなってから、執務室が少し静かすぎた。あの重さが膝になくなって、妙な違和感があった」
「殿下……」
「だから——」
殿下が真っ直ぐにミレイユを見た。
「二のつく日に猫になるなら、その日は猫として傍にいてくれ。残りの日は人間として傍にいてくれ。それで何も問題がない」
ミレイユの目が、じわりと熱くなった。
(泣きそう……泣いてはいけない……でも……)
猫だった時間を、なかったことにしないでくれる。
それどころか、これから先にもちゃんと含めてくれる。
それがたまらなく嬉しかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それから、確認させてください……殿下」
「なんだ?」
ずっと、聞くのが怖かった。
でも、ここまで来たら聞かなければならない気がした。
ミレイユは大きく息を吸い、意を決して尋ねる。
「猫の私と、人間の私。どっちの私が好きなんですか!?」
雷に打たれたように固まる殿下。
瞬きもせずに沈黙している。
薄々気づいてはいたけれど、まさかここまで本気で悩むとは思わなかった。
「……っ、えら、……べないっ」
「もうっ!少しは迷ったふりをしてから、人間の私って言ってください!」
「迷った」
「そういう意味ではありません!」
「だが、猫の君を切り離して考える発想が、私にはない」
「切り離すとか、そういう話でもありません!」
「ミレイユ」
「なんです」
「どちらの君も、私の最愛だ」
「……ずるいです」
「そうかもしれない」
「でも」
「でも?」
「……今回は許します」
殿下の手が伸びてきて、猫のときと同じように、まず手に触れ、それから頬へ、最後に髪を撫でた。
今は猫ではないのに、その手つきにほっとしてしまう。
擦り寄りたくなる。ぺろぺろではなく、今度はちゃんとキスしたくなる。
結局、そういうことなのだろう。
猫であろうと、人間であろうと、この人の前ではこうなってしまう。
「ミレイユ。私からも、ひとついいかな?」
「なんでしょう?」
「今後も、私だけはミィと愛称で呼ばせてほしい」
殿下が懐から小さな箱を取り出した。
「そして、これを」
「なんですか、これ?」
箱を開けると、中には薄いピンクのリボンが入っていた。
見覚えのある、あの色だ。
「二のつく日のために、宮廷魔術師に作らせた。人間でも猫でも、苦しくないよう調整してある」
「ぷっ……あははっ、はは……もうっ、殿下ったら」
ミレイユは思わず笑った。
自分でも驚くくらい、素直に、心から笑えた。
「何がおかしいのか」
「いいえ……嬉しいんです」
「ならいい」
「はい」
ミレイユは何度も頷いた。
次の二が付く日。
朝、目を覚ましたミレイユは——案の定、白猫になっていた。
(ふわふわ……)
猫の感覚が戻ってくる。
世界がまた大きい。シーツの織り目までよく見える。毛並みはやわらかく、尻尾は勝手にゆらゆら動く。
そして——やっぱり殿下をぺろぺろしてしまっている。
「ミィ」
「ニャア(はい)」
ミレイユを見る殿下の目は、昨晩と変わらず、これ以上ないほどやわらかかった。
猫だから仕方なく向ける目ではない。ちゃんと、ミレイユへ向ける目だった。
「……好きだ」
昨晩、人間のミレイユに向けて何度も聞いた言葉。
でも今日は、少しだけ温度が違う気がした。
猫の姿でも、人の姿でも、同じ熱で言ってくれているのだとわかる。
ミレイユは笑った。
猫なので顔ではあまり笑えないけれど、ごろごろと喉を鳴らす。
殿下が、ほんの少し目を細めた。
「ニャァ(知ってるわ、もう。あなたが笑ったとき、どんな顔になるか)」
殿下がミレイユを抱き上げる。
「今日は一日、おまえと過ごす」
「ニャア(嬉しい)」
「そうか」
殿下の腕の中で、ミレイユはごろごろと鳴き続けた。
窓の外には春の光が差し込んでいる。
庭では庭師が花壇を整え、廊下では侍従が忙しそうに走り抜けていく。
猫としても。人間としても。
この人のそばが、一番温かい。
ミレイユは目を細めた。
「ぺろ」
「今日もするのか」
「ニャア(します)」
「……まあ、いい」
殿下の声が、少しだけ笑っていた。
その響きを胸いっぱいに受け取りながら、ミレイユはもう一度だけ、満ち足りたように喉を鳴らした。
春は、やわらかく続いていく。そのまま。
ヴェルモンの宮廷では、その後しばらく、こんな話が広まっていた。
王太子殿下は、妻であるミレイユ王太子妃を大変溺愛している、と。
人間の日には、執務の合間に二人で本を読む。
昼食をともにする。庭を散歩する。夜は同じ部屋で過ごす。
王宮の者たちは、そんな二人を見て、たいそう微笑ましそうな顔をした。見るたびに、である。
以前より殿下の表情がやわらいだ、という声まで上がるほどだった。
そして二のつく日には——
「今日もお猫様がおいでだ!」
宮廷じゅうが、目に見えて浮き立った。
殿下が薄いピンクのリボンをつけた白猫を抱いて廊下を歩けば、侍女たちは壁際に整列して、きちんとお辞儀をする。
「お猫様!」
「今日もお綺麗!」
「ピンクのリボンまで完璧……!」
王妃が「今日はミィの日ね」と言って執務室に顔を出し、白猫を膝に乗せてくつろいでいく。
王様が廊下で白猫を見かけ、無言でしばらく撫でてから「よし」と言って立ち去るのも、すっかり日課になった。
侍従が「本日のお猫様のご朝食」として白身魚のムースを用意するのも変わらない。
「殿下、お猫様のお世話をご自分で」
「私の特権なのだから当然だ」
「……ごもっとも」
侍従は毎回、深く深くお辞儀した。
もう誰も、そこに疑問は持たない。
庭師は『お猫様専用の散歩コース』を、今年の春も丁寧に整え直した。
「毎月必ず来てくれるんだから、しっかりしておかないとな」
そう言って、生け垣の切り込み具合まで本当に念入りに確かめているらしい。
猫の日が近づくと、庭師のやる気まで少し上がるのだと、侍女たちは噂していた。
そして、殿下の溺愛は、猫の日にはさらに加速した。
どういうことかと言えば。
人間のミレイユへの溺愛は、殿下なりの控えめな形でなされていた。
本を見繕う。食事を共にする。散歩に誘う。静かな時間を分け合う。
そういう積み重ねだ。
でも、猫のミィへの溺愛は——遠慮がなかった。
「こちらへ来なさい」
「膝に乗るといい」
「今日はどこにも行くな」
「ニャア」
「そうか」
抱き上げて、撫でて、リボンを確認して、食事を気にして、寝所に連れていき、朝には「よく眠れた」と言う。
人間のミレイユには、まだ少し照れがある。
でも猫のミィには、照れずに全部できる。
(結局……猫の私も人間の私も、どちらも溺愛してくれるということ)
ミレイユは、殿下の膝の上で撫でられながら、ごろごろと喉を鳴らした。
(得したのか損したのか……まあ、どちらでもいいか)
どちらの日も、ここにいる。
それが一番、大切なことだ。
「ミィ」
「ニャア」
「明後日は人間に戻るな」
「ニャア」
「戻ったら……庭を歩こう。庭師が新しい花を植えたそうだ」
「ニャア(一緒に行きたいです)」
「そうか。では約束だ」
殿下の手が、白い毛並みをそっと撫でた。
ミレイユは目を細める。喉が、静かに鳴り続ける。
窓の外では、五月の風が庭の花を揺らしていた。
薄いピンクのリボンが、日の光を受けてきらりと光る。
もう、猫のことを不吉だと言う者は、この国にはいない。
いたとしても、王太子と王妃と王様と、ついでに宮廷じゅうのお猫様支持者たちが許さないだろう。
白猫の令嬢と過保護な王太子は、こうして仲良く暮らしましたとさ。
ただし月のうち三分の一ほどは、白猫としてもにゃあにゃあ暮らしましたとさ。
人間の日も、猫の日も、どちらもたっぷり幸せに。
めでたし、めでたし。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
月の1/3が猫になってしまうミレイユの新婚生活……どんな新婚生活になるのでしょう。
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