01 日課
町に近い深夜の森、クマの魔物と向かい合っている少年がいた。
クマが一歩出ようとする。
直前、少年が右足を出す。
するとクマの足がぴくりと震える。
それ以上動かない。
クマが思い直したようにまた前に出ようとする。
その直前に少年が動く。
ぴくり、とクマは止まる。
繰り返す。
少年だけが一歩ずつ距離を詰めていく。
少年は細身の剣を抜き、ゆっくり、無抵抗のクマの喉を突いた。
クマの体から力が抜け、うつ伏せに倒れ、動かなくなった。
少年はしゃがんで右前足の、人さし指の爪をつかんで一気に抜き取った。
鋭い爪が月の光を反射して銀色に光る。
そうしているうちにクマの体は分解されてチリのように消えた。
「欠けてるかあ」
少年は、手に残った質の良い爪を、月にかざすように見た。少年の手首から指先ほどの長さがあった。
それから、あくびをしながら、クマの魔力で腐食した剣を布で巻き、持ってきたケースに爪と一緒に収めようとして取り落とす。爪の先を親指に引っかけてしまったのだ。痛みと後悔で目がぱっちりと開く。
ゆっくりふくらんでくる血の玉をくわえながらケースを担ぐと、来た道を帰っていった。
これが彼の日課だった。
翌日。
帰りのホームルームが終わると、教室からどっと生徒があふれた。
二人の男子が、乗り遅れたように最後尾で教室を出る。
「なあバッツ、男に一番大事なものってなんだと思う?」
一方の男子が言った。
「……収入?」
「そういうことじゃねーよ! やっぱ男は強さだろ? おれも英雄教室に入れないかなー」
しゅっしゅっ、とビーンはシャドーボクシングのまねをする。
そしてキリッと顔をつくった。
「なあ、ある日突然さ、英雄教室の先生が言うわけよ。『君、すごい才能じゃないか……、英雄教室に興味ないか!? お願いだ、来てくれ! 気づかなかったわたしが恥ずかしい!』とかさ。ロマンだよなあ!」
くう、たまらん! と打ち震えるビーンに、バッツは苦笑いを浮かべた。
「いままでの体力テストとかでわかるだろ」
「おいおいわかってねえなあ! ロマンよロマン! それでさあ、ただの木の棒で、よっ! はっ! って倒すわけよ! いいだろ!?」
「あ、ビーン、前」
「いや聞けよ、あのな?」
バッツだけを見ていたビーンは、進路の誰かにぶつかった。一方的によろけ、尻もちをついた。
「あ、すんません」
軽く謝ったビーンは、ぶつかった相手を見上げてぎょっとした。
顔つきから、バッツたちと年齢は離れていないように見えた。15、16歳だろう。だが身長は180センチを優に超えている。
身長だけでなく鍛えられた体つき。デザインの異なる制服。
明らかに一般生徒ではなかった。
「どこに目えつけてんだ!」
本人ではなく、近くにいた男子が言った。こちらも制服のデザインがちがう。
「す、すいません!」
「お前みたいな一般のせいで、タッパさんみたいな英雄候補が変なケガでもしたらどうすんだあ!?」
「すいません、すいません!」
ビーンはどんどん深く頭を下げる。
さっきまでは近くにいた生徒も、距離をとって遠巻きに見ていた。
「だいたい、お前みたいな」
「もういい」
タッパは言った。
「行くぞ」
「え? あ、お前! 二度はないからな!」
そう言うと、二人は行ってしまった。
「……ふん、びびらせやがって。覚えてろよ」
ゆっくり立ち上がったビーンが、ほこりを払いながらささやき声で言った。
バッツは思わず、ビーンの肩を叩いて笑った。
そのとき軽い痛みが走った。親指の傷が開いてすこしだけ血が出ていた。バッツは指をくわえながら、薬をつけるのを忘れたと思い出した。
深夜。
静まった建物の中、足音を殺してタッパ、それと他二人、それぞれが荷物をまとめた細長いかばんを持って、寮の玄関を慎重に開けた。無音だ。毎日このために油を差してメンテナンスをしてあった。
一日中施錠はされていない。
同じ学校でありながら、一般生徒と異なり英雄生徒は全寮制だ。
外の空気はひんやりと静まっている。遠くに鳥の声がした。
三人は特に暗い、校舎と敷地の間を進んだ。木箱が放置されている区画に入る。
日中に選んでおいた、特に頑丈で音のしない箱を土台に、壁を越えた。
月の光でも充分な明るさだが、見通しは悪い。
三人はうなずき、町の外壁まで進んだ。日中ならば許可が必要な場所を歩いている。
タッパが両手を組んで土台にすると、あとから来た男子が小さくすみませんと言い、右足を乗せる。タッパはそれを背筋で放り投げるようにし、男子は外壁を越える。
残ったタッパは腕力にものをいわせて外壁を乗り越えた。
目の前には草原、その先にあるのは北の森だ。
三人は見晴らしのいい草原を速やかに走り抜けると森に入って荷物を置き、そこで武器を取り出した。
タッパが長剣、あとの二人は牽制用の弓だ。
すべて一般用に販売されているものだ。これで強力なクマ型の魔物、ブラック・ベアを倒す。
他の荷物は置いたまま、三人はうなずいた。
夜が深くなるほどブラック・ベアの出現率は上がる。
森の中、歩みを進める。
彼らにとっては、鍛錬であり、反抗であり、飛躍の準備だった。
なにが英雄教室だ。
中身は、魔道具を使ったお勉強ばかり。
便利で安全な生き方ばかり教えてくれる。
であれば自力で英雄に近づくしかない。
教師たちは笑うだろう。いや笑いもしないか。ただ無表情で呆れるにちがいない。
「ちがう」
タッパはつぶやいていた。
月明かりが木の間に差している。
そういう部分にはブラック・ベアは現れない。木陰だ。
目を凝らしながら進む。
ひとり、ひっ、と小さな声が上げ、小さく謝罪する。この森は、ときおりぎょっとするほど空気が冷たいのだ。
今日で五度目だった。討伐に成功したのは三度。二度は逃げ帰った。しかしそれでいいとタッパは考えていた。命がけと無謀はちがう。
恐れを受け入れ、打ち勝つ。
そのときタッパは手を上げた。二人も止まり、それからゆっくり木陰に身を移す。
軽い足音だった。
ブラック・ベアではない。
人間が歩いてくる。
町の方向、タッパたちとは別の場所からやってきたらしい少年が、森に入ってきた。肩に細長いケースをかけている。
そのまま森を進むようだ。タッパたちの10メートルほど前を左から右へと歩いていく。緊張感のない、ただの散歩のような歩きかたで、タッパは幻かと思い横の二人を確認したくらいだった。目で追っている様子を確認し、現実なのだと確信できた。
そのとき、タッパは横から肘で押された。
視線を追う。
ブラック・ベアだ。
やってきた少年の5メートルくらい先に現れていた。
弓を持った仲間が、どうするかと目で訴えてくる。
無理だ。タッパはすぐ悟った。
彼とブラック・ベアが近すぎるし、こちらとの距離が離れすぎている。その上ブラック・ベアを狙うと弓の射線が少年と重なり危険だ。
無理に救助に行けばタッパたちも危ない。先に動かれれば弓の牽制の成功率が下がる。生還率も。
しかしタッパは声を出さずに、行くぞ、と口を動かした。
こんなときに震えて立ち止まって、なにが英雄生徒だ。
なにが英雄を目指す、だ。
やるのだ。
たとえ自分たちが傷ついても、彼を逃がす。そういう生き方をしなければならない。
そう自らを鼓舞し、攻撃にふさわしい位置を見つけ出そうとしていたときだった。
少年は、ぼんやり歩いていく。
ブラック・ベアに向かっていってしまう。
バカな。
それでは間に合わない。
胸の奥がひやりとする。
ブラック・ベアが前足を払うだけで、彼の頭部など……。
しかし。
少年は迷いなく、動きそうで動かないブラック・ベアに近づいていく。
ブラック・ベアの様子がおかしい。
動かない。みるみる近づいていくのに突っ立っている。
いや、動こうとしている?
が、動かない……?
気づけば、彼はブラック・ベアを剣で刺していた。
倒れ、霧のように消える前に少年はなにかしていたようだったがよくわからない。
なにかつぶやくように言って、少年は去っていく。
少年の残像が記憶の奥にある、かつて自分を救った剣士と一瞬重なる。
タッパは思わず首を振って振り払った。
少年の姿が見えなくなってから、はっとした。
焦って出ていったが、もうどこにもいない。
何者だ。




