第123話. 白花の冬
――ッ、グルルァァァッ!!
その咆哮は、ただの威嚇ではない。相手の本能を直接揺さぶる、牙を剥いた獣の怒りそのものだった。
犬はその一瞬の隙を逃さず、地面を強く蹴って前足に力を込め、頭上で体勢を崩しかけながらも必死に踏ん張る小鳥と息を合わせるようにして、躊躇なくその黒い塊へと踏み込んだ。
――ッガァアアアッ!!
すると、塊の一部が、犬が突撃してくることを早急に察知したかのように、 針のように狙い澄まし、ノエルとミメットの方へ驀進してきていた。
「っ、来ますよ、王女様!! 今すぐに、わたくしから離れてください!!」
両側から挟み撃ちにされるかのように迫り来る咆哮を耳にしたミメットは、なおも自身を盾として立ちはだかり続ける意思を示すかのように両腕を大きく広げていた。
そして、背後から必死に自分の身体を引き離そうとしているノエルの存在を確かめるように、ほんの一瞬だけ視線を後ろへ向け、その瞳に揺るぎない決意を宿しながらも、どこか諦めにも似た静かな覚悟を滲ませていた。
だが、それでも尚――いや、むしろその覚悟を感じ取ったからこそ、ミメットが羽織っているマントの布を両手で強く、決して離すまいとするかのように掴み締めたノエルは、必死に首を横へと振り、その小さな身体のすべてで拒絶を示した。
「イヤッ!!」
「わたくしなんて置いて行くのが先決です!!」
ミメットの声は必死だった。理性がそう叫んでいるのではなく、王女という立場である彼女を守るという使命そのものが、彼女の存在理由そのものが、そう叫ばせているようだった。
――それでも。
「お願いだから!! あたしは――あたしの事を守ってくれる人に、死んで欲しくないの!!」
ノエルの悲痛な叫びは、恐怖に震えながらも決して折れることのない心の奥底から絞り出されたものであり、その声は空気を震わせるように、強く響き渡った。
そして――その瞬間だった。その“懇願”が、引き金になったかのように。
空間の一部が不自然に軋み始め、その歪みは静かに、しかし確実に現実を侵食していく。
次の瞬間、それまで一点に凝縮されていた歪みは、限界を迎えたかのように急速な膨張を始め、その中心から同心円状に波紋のように空間を押し広げながら拡散していく。
そして、その歪みの中心点から――純白に輝く花弁が、一枚、生まれた。
そして次の瞬間には、もはや数えられぬほどに増えていた。歪みに侵食された領域を覆い尽くすように、無数の純白の花々が空間そのものに根を張るかのように咲き誇っていた。
だが、その奇跡のような光景が広がってなお、黒い塊達の進撃が止まることはなかった。
それらは花々の存在など意に介さぬかのように、ただ獲物を喰らうという本能だけに突き動かされるようにして前進を続け、その圧倒的な殺意は微塵も衰えることなく、同時に、それへと対抗するように疾走する犬の勢いもまた、止まることはなかった。
そして――犬が、その純白の花々が咲き広がる領域へと、足を踏み入れた、その瞬間。
それまで空間に蔓延していた歪みの気配が、まるで上書きされるかのように塗り潰され、その代わりに、凍てつく冬の深淵そのものを切り取ってきたかのような、圧倒的な冷気の気配が、一気にその場を支配した。
「――――――――ッッッ!!!」
次の瞬間、無数の氷柱が空へ向かって突き上がり、その軌道上に存在していた黒い塊達の肉体を、一切の抵抗を許さぬ絶対的な質量と冷気をもって、容赦なく抉り取っていた。
氷柱はただ貫くだけでは終わらず、その接触した瞬間から塊達の存在そのものを凍結へと変換し、黒く蠢いていた肉塊は、凍りつく過程すら認識する間もなく、その全身を完全な氷へと変えられていた。
そして、完全に凍りつく直前――何かが、音もなく途切れた。
塊の表面にひびが走り、その氷は無数の亀裂を刻みながら、不気味な静寂の中でゆっくりと崩壊の兆しを見せていた。
次の瞬間、その氷と化した肉体は、もはや形を保つことすら許されなかったかのように、耐えきれない圧力が一斉に内側から解き放たれたかのような鈍い破砕音とともに、抵抗する間もなく粉々に砕け散った。
細かな氷片と霜の粒子となって空中に弾けるように四散し、淡く白い靄となってその場に静かに降り積もっていった。
「......っ」
その一連の出来事は、瞬きほどの時間で戦況を塗り替えていた。それを視界の中で受け止めていたミメットは、気づけば周囲一面に静かに咲き誇っていた無数の白い花々、そして犬を中心として突如として生まれた凍てつく冷気や霜の気配に、思わず喉を詰まらせるように息を止めてしまっていた。
「倒した......わ」
微かに震える声は、状況を伝えるための最短の言葉でありながらも、今の現実をようやく受け入れ始めた証のようでもあった。
ミメットはゆっくりと、広げていた腕を力なく下ろしながら、自身の中に残る冷気の余韻を確かめるかのように、慎重に視線をノエルの方へと移していった。
「えっ?」
ミメットのか細い声と、つい数秒前まで響いていた破壊の余韻が嘘のように消え去り、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた空間の異様さに、不審の色を浮かべながらノエルもゆっくりと顔を上げた。
「うそ......あの変なの、消えちゃった?」
すると、確かにそこに存在していたはずの塊達は完全に消え失せており、その代わりに、そこには、冬そのものが降り立ったかのように白い霜が一面に広がり、その中心にただ一匹、静かに佇む犬の姿だけが残されていた。
「......この花、は......もしかして、あたしの力? で、でも......こんな冷たい力なんて知らない......それに――」
周囲に咲き誇る白い花々が、ノエル自身の意思と感情の延長として生み出されたものであることは理解できた。だが――その花々の周囲に満ちているのは、これまで知っていた自身の力とはまるで異なっていた。
その場に広がる凍てついた冷気に押されるように、ノエルはその違和感に戸惑いを隠せないまま、恐る恐る振り返った。
「っ.....また新しいのが来てる。でも、チャンスだ」
視界の先、氷河のように白く覆われて動きを止めている塊だったもののさらに奥から、まだ凍結の影響を受けていない黒い塊が、僅かな数ではあるものの、確実にこちらへと近づいてきているのが見えていた。
「こっち。ほら、ちゃっちゃとここから出るんだから!!」
「え、えぇ!」
その脅威を一瞬で見極めたノエルは、躊躇する余地などないと判断するや否や、すぐさまミメットの腕を強く掴み、足元に咲き誇る白い花々をためらいなく踏みしめながらも、ただ前へと進むことだけを選んでいた。
「ほら、ドギーと鳥ちゃんも! 早く、着いてくるんだからね!」
力強く声を掛けたノエルたちは、霜に覆われて淡く光る地面を静かに見つめていた犬と、そのすぐ隣で、なぜかノエルが生み出した白い花の花びらを一枚一枚丁寧に拾い集め、自身の尾や胸元に差し込んでいた小鳥のすぐ横を、風のように駆け抜けていった。
ノエルの声と遠ざかっていく足音に反応するように、犬はゆっくりと耳を揺らしながら顔を上げ、その瞳が一瞬だけ、前を捉えたが、すぐに視線は再び自身の足元へと戻されていた。
そこでは、小鳥が真剣な様子で、犬の足の周囲に落ちている花びらを選び取り、遠慮という概念を持たないかのように、それを犬の足へと差し込もうとしていた。
「プキャッキャ!」
すると、犬の視線に気づいた小鳥は、誇らしげに顔を上げると、自身の体に飾り付けた花びらを見せびらかすように胸を大きく膨らませ、その小さな体全体で満足感を表現していた。
「ヒチッキュ」
そして、小さな片足を器用に持ち上げると、地面に広がる霜と、犬の足に差し込まれた花びらを交互に指し示すように示しながら、さらにその先――ゆっくりと迫り続ける黒い塊の方へと視線を向け、その方向へと足を伸ばして軽く突き刺すような仕草を見せながら、低く喉を鳴らした。
犬は、その声と仕草の意味を測るように、僅かに首を傾けながら、小鳥の方を見つめ返していたが、やがてその動きの意図を読み取ろうとするかのように、ゆっくりと自身の足元へと視線を落とし、そこに差し込まれたまま凍り始めていた白い花びらをじっと見つめた。
花びらは本来の柔らかな質感を失い、霜と冷気に触れ続けたことで、まるで氷の欠片のように硬く、静かに光を反射しており、その存在はこの場の異常さを何よりも雄弁に物語っていた。
「.....グルッ」
しかし、小鳥の鳴き声が完全に終わる前に、犬は不意に顔を上げると、小鳥に向かって顎を僅かに動かし、ノエルたちが走り去っていった方向を指し示していた。
そして、次の瞬間にはすでに自身の体を反転させるように踵を返し、躊躇することなく、ゆっくりと迫り続けている黒い塊の方へと向き直っていた。
「ヒチ......」
小鳥は、話を途中で切り上げられたことで、不満げに喉を震わせるような声を漏らしたが、すでに歩みを進め始めた犬は振り返ることなく、そのまま前へと進み続けていった。
小鳥は、その小さな体を僅かに揺らしながら、去っていく犬の背を見送っていたが、やがてその視線は自然と、犬が踏み出す足元へと移り、そこを起点として静かに広がっていく氷の様子を、じっと見届けていた。
犬の足が地面に触れるたびに、そこから淡く白い霜が広がり、冷気が染み出すように周囲へと広がっていき、その現象はまるで犬自身が冬の一部となっているかのように、静かにその痕跡を刻み続けていた。
小鳥は、その光景をただ見つめながら、小さく喉を鳴らしたが、それ以上は何もせず、ただ静かに、その背が遠ざかっていくのを見守り続けていた。




