第122話. 黒泥の囁き
「――セシル!!」
ノエルの悲鳴にも似た叫びが鋭く空気を裂き、その高く震える声に重なるように、小鳥の不安に満ちた甲高い鳴き声が細く響き渡った。
しかし、そのすべてがまるで遠くの出来事のように霞んで聞こえるほどに、ミメットの視界はただ一つの光景へと縫い止められ、瞬きすら忘れたまま硬直していた。
魔獣は迷いも逡巡も一切見せず、まるで最初から標的を定めていたかのような正確さで、セシルただ一人を狙い澄まし、その脇を掠めるようにして猛然と駆け抜けていく、その一瞬の軌跡はあまりに速く鋭く、風圧だけが遅れて頬を打ち、衝撃がようやく現実を突きつけていた。
だが――。
「まずっ、こっちも......ッ!!」
ノエルの切羽詰まった声が鋭く響いたその瞬間、凍りついていた時間が一気に音を立てて動き出すかのように、セシルが立ちはだかっていたことで動きを止めていたヘドロのような黒い塊たちが、ぬるりと不気味に蠢きながら歩みを再開し、今度は明確な意思を帯びてノエルたちへと迫り始めていた。
その動きは緩慢でありながら確実で、粘つく足取りのくせに逃げ場を塞ぐ算段だけは正確に計算されているかのように、じわじわと包囲の輪を狭め、湿った水音を立てながら退路だけを確実に奪っていた。
黒い塊は互いにぶつかり合うこともなく、まるで無言の合図でも交わしているかのように位置を変えながら、確実に退路を塞ぎ、視界の端を侵食していく。その様子を前に、ノエルは唇を噛みしめ、悔しさと焦燥を滲ませた小さな声で呟いた。
「どしよ......弓、置いてきちゃったのに......」
その言葉が耳に届いた瞬間、ミメットの意識ははっと現実へと引き戻され、氷水を頭から浴びせられたかのように、一瞬で思考が澄み渡っていた。胸の奥で荒れ狂っていた恐慌を、理性という名の蓋で強引に押し込みながら深く息を吸い込み、彼女は目の前に広がる状況を、整理し始めていた。
正面から打ち合える者は、誰もいない。
自分とノエル、そして犬と小鳥。守るべき存在はあれど、正面から打ち合える者はいない。黒く蠢く異形の塊は数も質も未知数で、その正体すら掴めぬまま、確実に距離を詰め、じりじりと退路を削り取りながら包囲を完成させようとしている。
恐怖は十分に膝を震わせるほど濃かったが、それでも足を止めた瞬間にすべてが終わるという確信だけは、冷たい針のように胸の奥へ突き刺さっていた。
――ならば、取るべき行動は一つしかない。
ミメットは一瞬で庭の入口へと続く芝の道へ視線を走らせた。朝露を含んだ芝生は淡く光を反射し、踏み込めば滑る可能性があるものの、一直線に走り抜けるには最短距離だ。
その先には重厚な門があり、さらに向こうには街へと続く道が伸びている。そこまで辿り着ければ人目がある。助けを求められる。閉ざされた庭より、生存の確率は格段に上がる。
それらの道筋への計算を終えたとき、胸の奥に残っていた震えは、もはや恐怖ではなく、 震えは既に止まっていた。
「っ......王女様!! あちらへ走りますわよッ!!」
その叫びは単なる指示ではなく、恐怖を押し殺し自分自身を奮い立たせるための宣言でもあり、迫り来る異形の気配を断ち切る刃のように鋭く、はっきりと夜気を震わせ、張り詰めた空間を力強く貫いていった。
「なんっ、走るって言っても――」
あまりにも唐突で、説明も猶予も与えない宣言に、ノエルは思わず大きく目を見開き、喉元まで込み上げた疑問を言葉にしきれぬまま、その場で息を詰まらせていた。その瞳には戸惑いと焦燥が入り混じり、状況を理解しきれないまま判断を迫られる幼さが滲んでいる。
だが、その隣では対照的に、まるでミメットの判断が最善であると本能で理解しているかのように、犬が低く喉を鳴らして短く息を吐き、小鳥もまた小さく首を揺らしながら羽を震わせ、こくりと頷くような仕草を見せていた。
しかし、ミメットの意識は、もはや周囲の反応を確かめることもなく、ノエルの戸惑いも犬や小鳥の動きも視界に入らないほどに一点へと収束し、ただ門へ続く芝の道だけを捉えて離さない、鋭く絞られた状態にあった。
その先にある“可能性”だけを見据えたまま、彼女は勢いよくノエルの手を掴み、その細い指を強く握り込むと、返答を待つことなく半ば引きずるようにして駆け出していた。
「今すぐ、ここを出ますの!! 街へ出れば誰か気づきますわ!!」
声を張り上げながらも、その響きの奥には自分自身を鼓舞する切迫した色が滲んでおり、振り返れば恐怖に絡め取られてしまうことを本能的に理解しているからこそ、彼女は無理やりにでも前だけを見据え、振り返れば足が止まると分かっていたから、無理やり前へ足を叩きつけた。
「......セシル、一人で、大丈夫かな......」
引かれるがまま走り出したノエルは、一瞬だけ胸の奥に鋭い棘のような不安を覚え、取り残されたセシルの姿を思い浮かべてしまい、思わず視線を落としかけていた。
しかし、今この場に留まることがいかに無謀であるかも理解しているのか、唇をきゅっと結び、俯きがちになりながらも必死に足を動かし続けていた。
その背後では、犬が役目を果たすかのように位置を取り、彼女たちより僅かに後ろを走りながら、何度も振り返っては低く唸り声を漏らし、迫り来る気配を睨み据えていた。
――グォォォォォッ……ッガァアアアッ!!
――ギィィィィィィィッ……!!
彼女らが背を向けて走り出したことが、明確な合図となったのだろう。
それまでゆらり、ゆらりと不気味に歩を進めていた黒い塊たちは、獲物が逃げ出したことを悟った捕食者のように動きを変え、ぬらりとした影を引きずりながら、確実に速度を上げ始めていた。
そして、耳を裂くようなその咆哮は獣の鳴き声ではなく、喉の奥で腐った泥を掻き混ぜたような濁音と、金属を擦れるような異音で、聞く者の神経を直接削るような不快な震えを伴っていた。
「ギャッギャッ」
黒い塊たちの加速にいち早く気づいた小鳥は、振り返った瞬間にその異様な変化を目にし、全身の羽毛を逆立て、犬の背を強く突きながら危機を伝えるように鋭く鳴き声を重ねた。
「......ッ、グルルル......」
地面を伝う振動、空気を押し分ける重たい圧、そして耳にまとわりつくあの不快な咆哮が、先程よりも明らかに近づいているのを察しているのか、犬は低く喉を震わせながら唸り声を漏らし、顔を顰めていた。
だが、背後との距離を確かめるように犬がゆっくりと顔を傾け、その黒々とした瞳を僅かに細めた、そのほんの一瞬のことだった――。
耳の奥へとまとわりつくように響いていた不快な雑音のざらつきの、そのさらに奥底から、明らかに異質な“何か”が確かに紛れ込んでいることに気づく。
それは風でも花々の擦れ合う音でもなく、規則性のない咆哮の塊の中に、不自然なほど断片的に浮かび上がる、人の喉が限界まで絞られた末に零れ落ちたかのような、あまりにも微かな声だった。
『............ケテ.........タス............』
「......ッ」
自分だけが聞いているのかとでも言うように犬は一瞬だけ視線を揺らし、その音の正体を確かめようと耳を震わせるが、確証を持てないまま、聞き間違いであってほしいという戸惑いを胸の奥へ押し込めた。
しかし、その曖昧な安堵を嘲笑うかのように、間を置くことなく、今度はより鮮明に、より生々しく、別の誰かの喉から無理やり押し出されたかのような声が、空気の裂け目から零れ落ちてきた。
『.........イカ.........ナイ...........デ.........イタ............イ.........』
先程とは異なる響きを含みながら、それでも同じように力尽きかけた弱さを帯びたその声は、空気の奥底から滲み出すように重なり合い、ひとつの音でありながら幾つもの喉が同時に震えているかのような不自然さを孕んでおり、明らかに“複数”の喉が、同時に潰れかけているようだった。
「......」
犬は反射的に瞳を僅かに見開き、耳先をぴくりと震わせながらも走る速度を決して落とさず、地面を蹴るリズムを崩さぬまま、音の発生源を探るように周囲の空間へ神経を鋭く張り巡らせた。
しかし、前を走る二人の足取りに乱れはなく、背の上で後方を警戒している小鳥からも何の異変も示す反応が返らないことを確認すると、自分だけが拾ってしまったのかもしれないという疑念と戸惑いが胸の奥に重く沈み、やがてそれを振り払うこともできぬまま、ゆっくりと目を伏せていた。
だが――そのほんの刹那だった。
背の上で小鳥が突如として羽毛を逆立て、喉を引き裂くような鋭く甲高い鳴き声を上げ、その小さな身体を強張らせる。その警告は、先程までの警戒とは明らかに質が違い、瞬間的な“発見”の色を帯びていた。
その瞬間、犬の瞳は、芝の上をまるで見えない針が糸を縫い走らせるかのように、一直線に、そして異様なまでに滑らかな速度で横切っていく黒い影を、確かに視界の端で捉えていた。
「......ッ」
重さを感じさせぬその移動は、追跡者の走りではなく、最初から“先回りする”ことを前提にした軌道であり、音もなく、風も立てず、ただ芝を歪ませるわずかな揺らぎだけを残して通り過ぎていく。
それは、つい先程まで確実に背後に位置していたはずの黒い塊の一つであり、本来ならば追い縋る側にいるはずの存在が、いつの間にか自分たちと並ぶ位置、あるいはそれ以上先を奪おうと、進路を断ち切るように移動していたのだった。
その直後、彼らの視界に飛び込んできたのは、悲鳴を必死に押し殺すように足を地面へ突き刺し、急停止するミメットとノエルの姿と、その数メートル先、本来ならば一直線に伸びているはずだった逃走路を塞ぐように、黒いヘドロが次々と隆起し、個々の塊へと形を成しながら立ち上がっていく、絶望的な光景だった。
「――ぅな......っ。そ、そん、な......」
急停止の反動で僅かに身体を揺らしながらも、辛うじて体勢を保ったミメットの口から零れ落ちたのは、押し殺していたはずの恐怖が堰を切ったように滲み出ていた。
「......後ろもだめ。っ、囲まれちゃってる......」
対して、はっきりと告げられたノエルの声は、周囲を冷静に分析しようとする理性と、それでも拭いきれない焦燥とがせめぎ合っているようだった。
そして、それら黒い塊は、彼女たちがなすすべなく立ち尽くしている様を愉しむかのように、先程よりは僅かに速度を落としながらも、その分だけ確実さを増した足取りで、左右からゆらり、ゆらりと不気味に揺れ動きつつ距離を詰め始めていた。
だが、そんなおぞましい光景を真正面から突きつけられながらも、全身の震えをどうにか押し殺すような足取りで一歩前へと踏み出し、細い両腕を大きく左右へと広げて立ち塞がった。
「こ、これ以上近づかないでください!! それに、狙うならわたくしだけにしなさい!!」
「っ、ダメ!! 危ないから下がって!!」
ミメットが無抵抗のまま己を大きく見せ、ほんの僅かでも前方の塊たちとの距離を詰めようとしていることに気づいたノエルは、思わず背後から彼女の腕を掴んで強く引き寄せ、その無謀な一歩を止めようとした。
しかしミメットは、その制止の声を優しく受け止めながらも、静かに、けれど断固として拒むかのように、ゆっくりと首を横へ振り、その瞳に宿る決意を曇らせることなく前を見据え続けた。
「いいえ。大事なことは、みんなで生き残る事ではなく、王女様だけでも安全に逃がす事ですの。わたくしなんかの身一つで無事でいてくださるのなら――」
「そ、そんなの...... あたしだけ生き残らせるような言葉はやめてよ!! あたしは勿論、ミメットもセシルも皆んな誰一人、死んじゃダメなんだから!!」
既に覚悟を決めてしまったかのようなミメットの言葉を頭ごなしに否定するように、ノエルは半ば叫ぶように声を荒げ、その細い身体に見合わぬ力で彼女を後方へ引き戻そうとしながら、必死にその背中へ縋りついたが、その手には恐怖と怒りと、そしてどうしようもない不安が混ざり合って震えていた。
「......」
そのやり取りの最中、言葉を交わす二人の背後で、鋭く周囲を観察していた犬の耳はぴくりと動き、その鋭敏な感覚が捉えた異様な違和感に反応するように、細められた目が空間の中を射抜くように走った。
彼の視界に映っていたのは、ただ迫り来るだけの黒い塊ではなく、互いに微かに震えながら、まるで意思を持つかのように後退したり、別の塊へわざと衝突するようにぶつかり合ったりして、まるで互いの存在を削り取るかのような不可解な挙動を見せる、理解の及ばぬ異形の群れだった。
『............ダ......メ............コロス............トマ......レ............』
複数の人間の声が重なり合い、濁り、引き裂かれたように歪んだ囁きが、空気そのものに染み込むかのように低く響き、塊の一部は後退しながらも、別の一部はなおも前へと滲み出るように進み、その動きは統一されているようでいて、どこか内部で葛藤しているようにも見えた。
「キュイプッキャプッキャッ」
犬の背から頭上へと素早く移動していた小鳥は、その奇怪な光景を小さな瞳で見下ろしながら、何かを報告するように喉を鳴らしていた。
「......ギッ」
小鳥に先程の不気味な声が届いている様子はなかったが、それでも塊たちの異常な動きだけで十分に不審を感じ取っているらしく、その鳴き声に応じるように犬は耳を震わせ、僅かに鼻先を上げながら、喉の奥で低く息を鳴らした。
その表情には苛立ちにも似た緊張が滲み、今にも舌打ちをしそうな鋭さが浮かんでおり、喉の奥で、低く短い息が荒れているようだった。
そしてその混乱の最中、後退と衝突を繰り返していた黒い塊のうち幾つかが、ぐにゃりと形を歪ませながら、その内部から腕のようなものをぬるりと伸ばし始め、それがほんの僅かに空間を裂けば、ミメットの指先に触れてしまいそうなほどの至近距離に迫っていることを、犬は鋭く察知した。




