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青の時代 2  作者: 森 鉛
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第三章 双刀の魔女 第四話

 半月後、リグノリアの国葬が盛大に執り行われた。王族の埋葬は既に済んでおり、犠牲となった人々の肖像画を掲げ、粛々と騎士団の列が進む。喪服に身を包み、それを見つめるクレアの瞳から幾筋もの涙が流れ落ち、傍らに寄り添うウォルフがそっと彼女を気遣う。その光景は居並ぶ人々の涙をさそった。

来賓席にディクスンやヴィンセント、リサら幕僚の姿も見え、トランセリアの駐留軍一個師団も喪章を肩に、葬列に参加した。

 今回の紛争の犠牲者全ての名が彫り込まれる石碑が除幕され、来賓を代表し、トランセリア外務長官ヴィンセント・ペルジーニにより、国王アルフリート・リーベンバーグの追悼文が読み上げられる。それは異例とも言える厳しい内容だった。

 アルフリートは全ての犠牲者に哀悼の意を表すると同時に、イグナートの行為を厳しく非難し、これを容認し、傍観した諸国にも猛省を促した。大陸二十年の平和を、今後五十年、百年にしていく為に、二度とこのような悲劇を繰り返す事の無いよう、諸国間の対話を重視すべきであるとし、最後にリグノリアの繁栄を祈って文を終えた。

 ヴィンセントは、眉をひそめる他国の閣僚や大使達の目の前を悠々と通り過ぎ、着席する。彼の独壇場とも言える場面であったし、確かにトランセリアにしか出来ない主張であった。


 この日、ウォルフ准将とクレア王女の婚約が正式に発表され、ウォルフは将軍に昇格する。これ以前にウォルフは故郷のプロタリアに三通の手紙を送っていた。一通は自分の家族に、もう一通は亡き妻ヒルダの両親に、そして皇帝騎士団の将軍宛に、手紙とレッド・ドラグーンのマントを送った。それぞれの手紙には、三年間の空白を詫びると共に、自分はもう二度と故郷の土を踏む気の無い事、そしてリグノリアに骨を埋める覚悟である事を記した。ウォルフはクレアを気遣い、ヒルダの遺髪をも送り返そうとしたが、クレアの懇願によりそれは思い留まった。そんな事をしたらヒルダが可哀相だと、彼女は涙ながらに訴えた。


 国葬を終え、明日にはトランセリアも軍を引き上げる予定だった。三人となったリグノリアの将軍は、小規模ながらもそれぞれの騎士団を形作り、宮廷の機能もようやく回復していた。

 ウォルフはクレアと共にヴィンセントとリサを夕食に招く。思えば彼が居たからこそ、ウォルフはトランセリアを頼ったのだった。ヴィンセントはこの半月で着々と条約を締結していき、金鉱脈の共同開発、技術協力、向こう二十年の優先交易権、その他諸々の有利な条件を獲得し、ほくほく顔であった。これは彼の長い外交キャリアの中でも、格段に大きな仕事だった。さすがにリグノリアも採掘権は譲れなかったが、イグナートを牽制する意味でも、この条約の意味は大きかった。既に現地に開発チームが向かっており、今後の発展が期待されていた。ヴィンセントは開口一番こう言った。

「ありがとう!ウォルフ。よくぞ俺の事を覚えていてくれた。お前は真の友だ」

「………現金な奴だなぁ、まぁ気持ちは分かるが。これでトランセリアも一流国の仲間入りか?」

「正直そこまではいかないが、……一流半ぐらいは、…どうかな?」

 軽口を叩き合うウォルフとヴィンセントを、クレアはニコニコしながら眺めている。すっかり体調も回復し、ウォルフの愛情を一身に受けた彼女は、これまで以上に美しさに磨きがかかり、見る者を魅了した。何をするにも可能な限り二人で行動するその姿は、新しい王宮のシンボルとして定着しつつあった。そんなクレアに、ヴィンセントは遠慮なく質問をぶつける。

「クレア様はいったいこいつの何処がそんなに気に入ったんですか?」

「え?…どこって言われても…」

 クレアはちらりとウォルフを見る。その視線から顔を反らし、ウォルフはヴィンセントに何か文句を言いたそうな顔をしている。クレアははにかみながらも微笑んで答えた。

「ぜんぶ」

 ヴィンセントとリサは顔を見合わせ肩をすくめた。テーブルは笑いに包まれ、会食は和やかに進んだ。


 帰り際、いい気分になった男二人を余所に、リサがクレアにこっそりと何か耳打ちをしていた。ウォルフは二人が去ってからクレアにその事を訊ねてみた。

「さっきリサに何か言われてたろ、何だったんだ」

 ゆったりとした夜着に着替え、ソファーに腰掛けたウォルフの膝に飛び乗りながら、クレアは答える。

「え~、聞きたい?……どうしよっかな」

「おっぱいを大きくする方法とかか?」

「ちがうわよ。何言ってるのよ、もう。……やっぱりあれぐらいおっきい方がいいの?」

「そんな事は無いが…、いや、どうかな?でもお前も少し膨らんできてるだろう」

「あ、分かる?…まだちょっとだけど」

「どれ」

 酔っぱらってご機嫌になっているウォルフは、クレアの薄い下着をめくり上げ、顔を潜り込ませる。

「あ、こら。…ダメだってばウォルフ。…あん、こんなとこじゃ、…ちゃんと…ベッドに……あっ、ダメぇ…」

 ウォルフの唇で白い肌のあちこちにキスされ、クレアは思わず声を上げてしまう。ウォルフはにやにやしながら顔を上げ、耳元で囁く。

「お前それじゃ全然駄目になって無いぞ」

「もう……いじわる」

 真っ赤になってウォルフの首にしがみつくクレア。その髪を優しくなでてやりながら、ウォルフは少し真面目な声で呟いた。

「傷…やっぱり残っちまったなぁ」

 クレアはウォルフの顔を両手で包み込み、正面から彼の顔を見つめ、言った。

「いいの。これはウォルフとわたしの思い出の傷なんだから」

 そう言ってキスをするクレアを片手で軽々と抱え上げ、ウォルフは寝室の扉を開け、大きなベッドに少女を横たえる。クレアの手がウォルフの夜着を脱がせ、細い指が愛しげに男の胸をなぞる。ウォルフは口付けようとしてふとさっきの質問を思い出した。

「結局リサにはなんて言われたんだ?」

「ん~。……あのねぇ、男の人はすぐ他の女の人に目が行っちゃうから、時々はわがままを言ったり、拗ねたりしてこっち向かせなきゃダメよって」

「………それはヴィンセントの事だろう。俺は違うぞ」

「でもウォルフだってリサのおっぱい見てたでしょ。隣にわたしがいるのに…」

 クレアはほっぺたをふくらませ、指でウォルフの頬を軽くつねる。

「……すいません、見てました。……でもあれは反則だよなぁ、つい目がいっちまうよ、…あんなにでか…いててっ」

 ウォルフは素直に白状したが、ぶつぶつと何か言い訳をしている。クレアが指に力を入れた。

「なにごちゃごちゃ言ってるのっ、もう。わたしといる時はわたしだけを見ていて。わかった?」

「はいはい、わかりましたって。……お前なんか性格変わってないか?」

「そんなことないわよ。……ウォルフだって最初はすっごく怖かったわよ」

「そうか?…そういえば無礼者!とか言われたなぁ」

「うふふ、…懐かしいわね。まだ三か月ぐらいしか経ってないのに」

「なかなかラウを迎えに行く時間が取れないなぁ。あいつ俺の事忘れてるぞ、きっと」

「ラウはお利口だもの、そんなことないわよ。わたしのことだって覚えていると思うわ」

「そうかなぁ…」

「きっとそうよ、早く二人で迎えに行ってあげましょう。大切な家族だもの…ね」

 今やクレアに残されている身内といえば、婚約者であり同時に保護者でもあり、そして少女の人生の全てとなったウォルフと、クレアの淋しさをずっと紛らわせてくれた犬のラウのみであった。瞳を潤ませる少女の頬を、男の無骨な指が優しくなぞる。やがてそっと唇が重なり、抱き締めあう。互いの温もりを確かめるように、二人は肌を重ね合わせた。



 クレアはかつて家族と暮らしていた王宮の一角へ足を踏み入れていた。遺品の整理をしなくてはならなかったからだ。本来は国葬の以前にやっておくべき事だったが、クレア自身の気持ちの整理が着かず、ずるずると先送りにしてしまっていた。ウォルフは彼女を気遣い、他の人に任せてはどうかと言ってくれたが、クレアは自分自身で片付けなければならない仕事だと考えていた。

 幾人かの侍女や侍従と共に、あの惨劇以来初めてその場所を訪れた。部屋自体は綺麗に掃除がされ、事情を知らぬ者ならここで何かがあったとは思わないであろう。しかしクレアの脳裏にはまざまざとあの時の光景が浮かぶ。逃げ出したくなる気持ちを押さえ、流れ出しそうになる涙を懸命にこらえながら、彼女は侍女達に指示を与え、てきぱきと荷物を運び出させる。それでも時折見知った品物が目に触れ、過ぎ去った幸福な日々が思い出され、胸が締め付けられる。(昨日の事より明日の事を考えよう)自分自身に幾度も言い聞かせ、固く手を握りしめ、クレアは作業を進めた。逼迫する財政の為にも、処分できる高価な宝石などは国庫に納めなければならない。彼女はわずかな数の遺品を選り分けると、ほとんど全ての品を運び出させた。

 この一角もきちんと慰霊を済ませた後に、新たな用途に使用するべく改装をする予定だった。いつまでも過去にとらわれてはいけないと、彼女自身がそれを望んだのだった。ウォルフは同行しなかったが、クレアは彼が居たからこそ、自分がこのような前向きな考えを持てるのだと感じていた。


 丸一日を掛けた作業を終え、自室へ戻るクレア。ウォルフは仕事を早めに済ませ、彼女を待っていてくれた。大きなその姿が目に入ったとたん、こらえきれずに涙が溢れ出る。何も言わずに男の胸にすがりつき、泣きじゃくるクレアをウォルフは優しく受け止め、長い間髪を撫で、慰めてくれた。ようやく少し落ち着きを取り戻したクレアに、ウォルフはそっと口付けし、囁いた。

「よく頑張ったな…、えらかったな…」

 じっと彼女を見つめる優しい瞳に、クレアはたまらぬ愛しさを感じ、かすれた声で呟く。

「……ウォルフ、…抱いて。……何もかも忘れさせて」

 淫らな女だと思われてもいいと思った。今彼の手が離れたら、自分は壊れてしまうような気がしていた。ウォルフは一瞬ためらう。まだ日が落ちたばかりだった。しかし彼はクレアを抱きかかえ、寝室のベッドに少女を横たえると、荒々しく服を剥ぎ取り、覆いかぶさった。

 ウォルフの背中に手を回し、腕にきつく力を込め、男の激しい動きを受け入れるクレア。幾度も口付けを交わし、何度も昇り詰め、やがて少女は眠りに落ちる。頬を流れた涙の跡を指先で拭ってやると、ウォルフはクレアの華奢な裸身をしっかりと抱き締め、じっとその寝顔を見つめていた。


 夜更けに目が覚めたクレアは隣にウォルフが居ない事に気付き、不安に飛び起きる。しかし彼はベッドのすぐ横で食事をしていた。いつもの調子でウォルフは声を掛けた。

「起きたか。腹減ってないか?お前の分も用意してあるぞ」

 ウォルフは下履き一枚の姿でがつがつと料理を口に運んでいた。行儀の悪いその姿は、クレアにあのあばら家で暮らしていた頃の事を思い起こさせ、懐かしく、そして微笑ましかった。

 今思えば、あの頃がとても楽しかった事に気付く。不安や悲しみから逃げるように、ウォルフにすがりついて暮らしたあの日々。何一つ持たず、明日の事すらも分からずに、ただ目の前の男の大きな胸に身体を擦り寄せ、暖かく伝わるその温もりだけが自分を支えていてくれた。怪我の治療よりも、クレアはウォルフが居なかったら自分は気が狂ってしまっていたかもしれないと、何度か思った事もあった。こうして王宮に暮らすようになった今でも、それらはクレアのかけがえのない思い出として、大切に胸に刻み込まれていた。

 手近にあったウォルフのシャツを素肌に羽織り、男の隣に並んで料理に手を伸ばす。夕食を取る事もなく愛し合ったクレアは、今さらながら自分が空腹な事に気付く。心に浮かんだ事をそのまま口に出し、ウォルフに話し掛ける。

「ふしぎね、……どんなに悲しくてもおなかはすくのね…」

「あたりまえだ、生きてるんだから」

 いつものように素っ気無く答えるウォルフに、クレアは頭をもたれかける。

「そうなのよね…、生きているのよね、わたし。……あなたも」

「ああ、そうだ。……だから食え。お前ちょっと細すぎるぞ。…もうちっと肉がつかねぇと抱き心地が悪くて…」

「もう…。ばか…。………これ、ウォルフが持って来てくれたの?」

 料理を指差してクレアが訊ねる。ウォルフは頷いた。

「ああそうだ。腹減るだろうと思ってな、侍女に用意してもらった」

「ごめんね、わがまま言っちゃって」

 今になって恥ずかしくなってきたのか、クレアは頬を染めてウォルフに謝った。

「ちょっとバツが悪かったかな?まぁ気にする程の事じゃない」

 そう言ってクレアの頭をごしごしと乱暴に撫でるウォルフ。クレアは嬉しそうに彼に甘え、料理を残さず平らげた。真夜中に裸同然の姿で食事をするなど初めての事だったが、何故だかそれはとても楽しかった。昼間の重苦しい悲しさは、いつの間にかすっかりと消え失せていた。

 じっとウォルフの横顔を見つめ、クレアはこの人の存在が、どれ程自分にとって大きな物になっているかを改めて実感していた。いったいいつの間にこれ程彼の事を愛してしまったのか。ウォルフの胸に抱き締められ、彼の温もりと匂いが無ければ、もう自分は眠ることすらも満足に出来なくなってしまっている。ウォルフにとって、自分という存在は果たしてこれ程大きな物なのだろうか。幾度も肌を重ね、愛の言葉を交わしあった二人だったが、ウォルフはクレア程には相手の存在に依存していないように、少女には思えた。ウォルフはクレアの視線に気付き、笑って言った。

「なんだ、腹がいっぱいになったらまたしたくなったのか?」

 ウォルフのからかいにクレアは顔を赤くして答える。

「なに言ってるのよ、もう。………ねぇ、…ウォルフはわたしの事好きだって言ってくれるけど、…きっとわたしの方がずっとあなたの事好きなんだと思う…。……わたし、もうウォルフが居なかったら生きていけなくなってしまってるもの…」

 ウォルフはその言葉にしばらく考え込むと、ゆっくりと口を開いた。

「だったらそれでいいじゃねぇか。どっちがどれだけ相手に惚れてるとかどうとかなんて、比べる事も出来ねぇしな。……お前は不安なのかもしれないが、俺はそんなに…その、女が喜ぶようなうまい台詞は言えねぇんだよ、すまんな」

 クレアはあわてて言い返す。

「不安なわけじゃないわ。ウォルフはこんなに優しくしてくれるし…、いっぱい愛してくれるし……。ただ、わたしがあなたに頼り過ぎちゃってるような気がして」

 ウォルフはクレアの肩を抱き寄せ、少し笑いながら言った。

「それは当たり前だ。俺はお前より二回りも歳がいってるんだぜ、逆だったら変だろう。それにお前は歳の割に随分としっかりしてると、俺には思えるがなぁ」

「そうかしら…?だって一日だって離れていられないって思うんだもの。……甘え過ぎてるような気がして」

「そうか?もっと甘えてもいいぐらいだ。俺は少しも気にならないが…。ここんとこえらく感じやすくなってるみたいだしな」

 にやにやと笑うウォルフにクレアの頬が赤く染まる。

「もう、えっち。……ウォルフは…まだ…したいの?」

 男の顔を見上げ、咽に絡んだ声で問い掛けるクレア。ウォルフは返事の代わりにワインを少し口に含むと、クレアの口に流し込んだ。初めて口にする酒のせいか、身体が熱く火照るのを感じながら、クレアは男の愛撫に身をゆだね、押さえる事無く声を上げた。

 全てを忘れ、ただの男と女になった二人は、互いを激しく貪りあった。クレアは初めてウォルフに抱かれたあの洞窟の夜を思い出す。汗をかいた男の肌の匂いに、自分の身体が溶けていきそうな幸福感を覚え、クレアは幾度も彼を求め、夜が明けるまで愛し合い、疲れ果てて眠りに就いた。



          ◆



 街道沿いの小さな宿屋の前に、豪華な馬車が止まる。年老いた親父が驚いて店の中から飛び出して来る。大勢の騎士に護衛されたその馬車の中から、見知った顔が現れ、親父は事情を悟った。この田舎の宿屋にも、リグノリアを救った英雄の噂は届いていたのだ。

 満面の笑みでウォルフを迎えた老人は、続いて降りてきたクレアの姿を見るなり、仰天して平伏する。ウォルフに引っ張り上げられ、やっと顔を上げた彼は、しどろもどろで挨拶をした。

 クレアが店の奥に向かってラウの名を呼ぶと、のっそりと大きな犬が現れた。最初は大勢の人に戸惑っていたラウは、くんくんとクレアの匂いを嗅ぎ、差し出された手を舐め始める。ウォルフとクレアの二人に交互に身体を擦り寄せ、頭を撫でられて嬉しそうにしっぽを振った。

 店の奥からメアリが姿を見せ、おずおずとクレアに話し掛ける。

「……やっぱり王女様だったんだ」

「うん。……ごめんね、ウソついちゃって」

「仕方がなかったんでしょ。……良かったね、国を取り返せて」

「ありがとう、メアリ」

「名前…覚えててくれたんだ。……ラウはいい子にしてたよ、ね」

 ラウの背中を撫でるメアリに、ウォルフが声を掛ける。

「済まなかったな、なかなか迎えに来れなくて」

「ううん。…あ、そうだ、ロス!」

 メアリが店の奥に声を掛ける。扉の影からこそこそと顔を覗かせたのは、あの賞金稼ぎの若い男だった。

「お前……」

 驚いたウォルフの視線を避けるようにメアリの後ろに隠れ、ロスは情けない声を出す。

「すまねぇ、旦那。もう改心したから、殺さねぇでくれ。頼むよ」

 ロスはウォルフがあのレッド・ドラグーンの准将だと知り、さらに肝を冷やしていた。彼はダルガルから支払われた情報料を博打ですっかり使い果たしてしまい、国にも帰れず、メアリに拾われて今はここで働いていた。毎日親父とメアリに怒鳴られて、ようやく使えるようになったとメアリは笑って言った。

「安心しろ、もうなんとも思っちゃいねぇよ。それよりもお前がリグノリアに情報を売ったお陰で、こうして国を取り戻せたんだ。感謝してるよ」

 ウォルフの言葉にやっとロスはメアリの陰から出てきて言った。

「そ、そうか。良かった……。すげぇなあんたたちは、ホントにイグナートを追い出しちまったんだ」

 ウォルフはロスの肩をぽんぽんと叩き、彼をびくりとさせた。


 店の親父にいくばくかの礼を支払うと、ウォルフとクレアは懐かしいあの家に向かった。数人の騎士を伴い、クレアを抱えてウォルフは山道を下る。荒れ果てた小屋にはもう山羊の姿も見えず、畑も雑草だらけになっていた。

 あちこちをがたがたとひっくり返すウォルフは、ふとクレアが涙を流しているのに気がついた。

「…どうした、大丈夫か?」

「あ……、うん。なんか…思い出しちゃって」

「人が居なくなるとあっという間にぼろぼろだ、もう住めねぇなぁ…」

 二人は長い間ただ黙って、じっとそのあばら家を見つめていた。


 家の中からわずかな物を持ち出すと、再び来た道を登って行く。クレアは途中何度も振り返り、その光景を目に焼き付けようとしていた。街道に戻るとラウが駆け寄って来る。彼はさっそく同行の侍女達に懐き、可愛がられていた。ウォルフはため息と共にその様子を見て言った。

「まったくお前は女には愛想がいいんだよなぁ」

 クレアの膝に頭を擦り寄せるラウの背を、王女の白い手が何度も往復した。


 馬車がゆっくりと進み始める。クレアは窓から顔を出し、遠ざかる景色をじっと見つめている。二人が出会い、心を通わせ、愛を確かめた場所。国も、家族も、何もかもを失い、自分の人生は一度ここで終わったのだと、クレアは思っていた。そして新たにここから始まったのだ。

 ウォルフと暮らしたわずか二ヵ月足らずの記憶を、決して忘れぬよう心に刻み込む。馬車の中に視線を戻すと、優しげな瞳でじっとクレアを見つめるウォルフと、足元にうずくまるラウが居る。何よりも大切な新しい家族と共に、クレアは王都へと帰還する。

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