第三章 双刀の魔女 第三話
ウォルフは単独でリグノリア陣営を目指していた。出撃直前にタウンゼントから、『お前は好きにしていい』というメレディスの指示が伝えられていたのだ。彼自身は単騎で敵陣を突破しているつもりだったが、少し離れてタウンゼントが、一個大隊を率いて後方を援護していた。ウォルフに命の危険が及ぶような事態を避ける目的であったが、その必要は皆無だった。彼はウォルフの戦いぶりを観察し、戦慄を覚えていた。
(なんだありゃ、悪魔でも乗り移ってるのか。ウチの元帥もいいかげん強いがあいつは化けもんだ)
タウンゼントの感想通り、ウォルフは鬼神のごとき強さを発揮し、敵陣を切り裂いていく。長大な槍が馬ごと敵騎士を薙ぎ払い、近付く敵は左手の剣で切り倒した。黒いマントに染め抜かれた、真っ赤な竜を目にした兵は、うわ言のようにレッド・ドラグーンの名を口にし、恐慌に陥り逃げ惑う。ウォルフの行く先きを、布を切り裂くように敵陣が開いていく。
(見えた!!クレア……今行く!)
ウォルフはついにリグノリアの前線に到達した。
オルロックは馬上で蒼白となっていた。数で勝る自軍に強固な方形陣を巡らせ、速度を頼むトランセリアをがっちりと受け止めて潰していく筈だったのだ。何故自分の前の本陣が無くなっているのだ。近付いて来るあれはトランセリアの魔女、シルヴァではないのか。
血に染まった剣が光り、守備兵が次々と薙ぎ倒されていく中、オルロックは剣を構えた。
「……小娘ごときに引けは取らぬ」
背筋を伝う汗とかすかな手の震えが、彼に拭いきれぬ死の予感を突き付ける。長い黒髪を風になびかせた美しい死神が、オルロックに最後通告を言い渡す。それは透き通る旋律となって彼の耳に届いた。シルヴァが叫ぶ。
「オルロック元帥!お覚悟!」
「なめるな小娘!!」
オルロックの大剣とシルヴァの長剣が、がっしりと打ち合わされた。澄んだ金属音と共にシルヴァの右手の長剣が折れ、地面に突き刺さる。『双刀の魔女』を片手に追いやり、好機と見たオルロックがすかさず二撃を繰り出す。シルヴァは折れた剣を捨て、背中から短剣を引き抜き一瞬の内に双刀を回復する。ぶ厚く幅の広い三本目のその剣は、がっちりと大剣を受け止めた。至近距離で視線を合わせたオルロックは、魔女の瞳の奥に燃え盛る地獄の業火を、幻のように垣間見た。風に舞い上がる黒髪はさながら死神の鎌を思わせ、悪鬼のごとき女の唇がかすかに微笑んだ。
二人の元帥が睨み合ったわずかな静寂の次の瞬間、シルヴァの左の長剣が一閃しオルロックの太い首を両断する。首から上を失ったオルロックの身体を乗せたまま、馬がゆっくりと陣を抜けて行く。血しぶきを吹き上げ、地上に転がる頭を見下ろし、血まみれの魔女は叫んだ。
「晒せ!!」
槍に突き刺された総司令官の首は、イグナートの戦意を一気に喪失させ、陣容は崩壊の一途をたどった。
クレアは一万を割ったリグノリア兵に守られ、じりじりと後退を余儀なくされていた。陣形も命令系統も既に崩壊し、若き二人の准将、ルーガーとハインズも、ここを死に場所と覚悟し、クレアをなんとか落ち延びさせようと、最後の力を振り絞って剣を振るっていた。
伝令すら動かせぬリグノリアには、トランセリア参戦の報はまだ伝わっておらず、ましてやオルロックが討ち取られた事など知る由も無かった。絶望と死が、静かに全軍を支配しようとしていた。
ダルガルは深手を負いながらも、クレアの元に駆け戻り、馬上の少女を説得する。
「姫、戦線を離れ、落ち延びてくだされ。ここはもう持ちませぬ」
「…兵がまだ戦っているのに、王族が戦列を離れるわけにはいきません。生き残った全軍で撤退は出来ないのですか?」
「ここで我等が敵を押さえねば、イグナートになだれ込まれます。姫!どうかこの老いぼれの言う事をお聞き分け下さい」
クレアはダルガルが重傷を負っている事に気付いた。少女は老将軍の手を取り、震える声でそっと、しかしはっきりと告げた。
「……ダルガル、そなたは…いいえ全ての兵は、本当に良く戦ってくれました。もう降伏を…、わたくしの首を差し出しなさい。そうすれば今生き延びた兵はこれ以上死なずに済みます。…ダルガル、白旗を」
「……姫」
クレアの目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。死ぬ事は怖くなかった。ただ一つだけ、ウォルフとの約束が果たせない事が心残りだった。もう一度彼の胸に甘えたかった。逞しい背中を、ぶっきらぼうな声を、暖かい手を、優しい瞳を、不器用に触れる唇を。思い出される全ての光景が、遠い昔の事のように感じられた。
自分は何故あの大きな手を離してしまったのだろう。あの時ただ一言、一緒に来てくれと言えば、彼の手で命を絶ってもらう事が出来ただろう。ウォルフの腕に抱き締められて死ぬ事が出来ただろう。もう何もかもが遅かった。
大切に胸元にしまったクシに、そっと服の上から手を添え、その感触を確かめると、クレアはもう一度声を振り絞った。
「……ダルガル、わたくしの首を落とすのです。…そなたの手で。……リグノリア王家最後の命令です」
(ウォルフ…ごめんね、…約束、…破っちゃって)
「………」
ダルガルの手が剣に掛かる。次の瞬間、イグナートの突撃隊が本陣の囲みを突破し、クレアに迫った。
「姫ぇっ!お逃げ下さい!」
ダルガルが敵の前に立ちふさがる。たちまち乱戦が始まり、クレアは慣れぬ手綱を操り、必死で馬首を巡らす。その眼前にイグナートの騎士が現れ、血にまみれた剣を振りかざしクレアの首を狙う。
(…ごめん、ウォルフ)
愛しい男の名を最後の言葉と頼み、クレアは死を覚悟した。その刹那、剣を振り下ろそうとしたイグナートの騎士の首に、長剣が突き刺さった。
「クレアーっ!」
涙でかすむ目で、少女は確かにその人を見た。漆黒のマントが翻り、長大な槍が草を刈るように敵兵を薙ぎ払う。殺戮と災厄の象徴である血の色の竜が、イグナートの突撃隊を大混乱に陥れた。
「クレアーっ!!」
懐かしいウォルフの声がはっきりと耳に届く。自分に向かって走って来るその姿に、クレアは手を伸ばし、叫ぶ。頬を流れ落ちる涙が止まらない。
「ウォルフ…、ウォルフーっ!!」
「クレアっ!」
手を差し伸べるクレアを抱え上げ、ウォルフはしっかりとその胸に、少女の小さな身体を抱き締めた。
「ウォルフ…、ウォルフ…、ああ、来てくれた……、ウォルフ…、ウォルフ……」
ただ同じ言葉を繰り返し、男の胸で泣きじゃくるクレア。血と汚れにまみれた大きな手が、少女の髪を優しく撫でた。
「間に合った…クレア…」
一瞬の後、イグナートに第二の災厄が訪れる。わずかな手勢を引き連れ、戦場を突き破るように横断したシルヴァが、セリカと共に本陣に突入する。三本の剣が血しぶきと共に煌めき、敵兵の首が次々と地面に転がる。トランセリアの二人の魔女は、たちまち辺りに死人の山を築き上げた。
少し遅れて飛び込んだ黒と銀の騎士達が、二人の周囲を固め、猛然と残敵を掃討していく。タウンゼントの率いる大隊も合流し、形勢は完全に逆転した。
ダルガルは朦朧とした意識の中、幻を見ているかのようにその光景を眺めていた。クレアの命を救ったあの男、レッド・ドラグーンのマントを纏ったあの男は…。
馬上から崩れ落ちようとするその身体を、両側から二本の腕が支えた。長い黒髪の若い女が言った。
「ダルガル将軍、まだ死ぬのは早い」
「……シルヴァ…殿…か。……間に合った…のだな」
「オルロックの首は私が取った。この戦、勝ったぞ」
ダルガルはシルヴァとセリカに支えられ、馬から降り、地面に座り込んだ。もう立っている事すらも出来なかった。
気が付けば周囲にはトランセリアの騎士しか残っていなかった。シルヴァはウォルフと馬を並べた。クレアの顔を覗き込み。今迄の戦いぶりからは信じられないような優しい声で言った。
「クレア王女。よく頑張ったわね、よく生き残ってくれたわ。あなたは国を取り戻したのよ」
「…シルヴァ元帥。…あり…ありがとうございます。……なんて、…なんてお礼を言えば…。…ありがとう、…ほんとうにありがとう」
「……?姫はどこか怪我をしておられるか?」
シルヴァはクレアの足に血がつたっているのを見つけ、問いかける。そう言われて初めてクレアは、自分が出血している事に気付いた。
「え?……あれ……わた…し…」
確かめようとするクレアの意識が遠のき、がっくりとウォルフの胸に崩れ落ちた。
「ク…クレア?…おいっ!」
動転するウォルフを押しとどめ、シルヴァが容態を確認する。
「落ち着け、生きておる。医者が要るな。セリカ!」
「はい。本隊に走りますか」
「…いや、私が行こう。姫に付き添ってくれるか。女が居た方がいいだろう」
まるで自分は女ではないと言っているような台詞に、セリカは少し苦笑した。彼女も全身が血と泥に汚れ、数多くの敵を斬り倒して来た事を証明していた。
「心得ました。一個小隊はお連れ下さいね」
「分かった分かった」
放っておけば単身で戦場を駆け抜けるシルヴァにクギを刺すと、セリカは宮廷騎士団に短く指示を与える。
「一個小隊、元帥に続け。残りは周辺確保。深追いは無用。リグノリアとの連係を急げ」
馬から降り、セリカはクレアの身体をそっと地面に横たえさせる。気を失った少女の下腹部に、じっとりと血が滲んでいた。
(……?……いやに出血が多い…)
おろおろするウォルフに、セリカは小さくささやいた。
「エルスハイマー殿、立ち入った事を伺いますが、クレア様は妊娠していらっしゃいますか?」
「!………えっ?……あっ!………えぇっ!」
目を白黒させるウォルフにセリカは続けて言う。
「……身に覚えはおありなんですね。…マントを、あまり殿方の目に触れさせるものではないでしょう」
ウォルフはレッド・ドラグーンのマントを、そっとクレアの身体に掛けてやった。少女の手を握り、じっと動かないウォルフをその場に残し、セリカは少し離れた所で再び部下に指示を与え始める。状況はもう一方的な物となっていた。
「メレディス閣下」
シルヴァの副官ロベルトが本隊に合流し、第三軍の本陣に戻って来た。メレディスは既に各師団をまとめつつあり、残敵の掃討と負傷兵の救出を命じていた。
「おう、ロベルトか。お疲れさん、…シルヴァ様は?」
「ウチのおっかない姫さん達は、リグノリアの本陣に突撃かましに行っちまいましたよ。クレア王女の顔が見たいとか言って」
「やれやれ、後でいくらでも顔を会わせるだろうに…。セリカも行ったのか?…イグナートが気の毒だな」
「念の為一個大隊を向かわせてあります。残りをまとめたら宮廷騎士団はあっちで合流しようかと…あれ?」
そのシルヴァ当人が本陣に姿を見せた。周囲の兵が一斉に歓声を上げる。既にシルヴァが敵の司令官の首を取った事は全軍に知れ渡っていた。軽く片手を上げてその声に答えると、シルヴァは用件だけを切り出した。
「メレディス、医者が要る。クレア王女が出血しているようだ」
「はい、すぐに向かわせます。…危ないですか?」
「いや、斬られた訳ではない。ロベルト、私の隊をまとめてセリカに合流しろ。あちらさんはボロボロだ、手がいる」
「了解です。そんなにひどいですか?」
「見た所七千…居るかどうかだ。よく持たせた」
幕僚達から感心したような声が漏れる。ほとんど全滅と言っていい程の損失を被り、よくぞ王女を守り抜いたものだと、皆思ったのだ。
日はようやく天中に差し掛かろうとしていた。シルヴァが戦線に到達して、わずか数時間で勝利は決した。トランセリア側の死者は百人に届かず、完璧な勝利と言って良かった。
貴族との血縁や地縁の無いトランセリアは、その軍事力のみが頼みの綱であり、他国よりも国防の意識が格段に高い。宮廷騎士団の幕僚は数多くの偵察をリグノリアに派遣し、幾つものシミュレーションを行っていた。繰り返された演習により、第三軍は実力をほぼ十分に発揮出来たようであった。シュバルカ率いる第二軍が街道を押さえ、補給線をがっちりと固めていたのも、速度を誇る第三軍が後方を気にせずに戦えた理由の一つだったろう。
戦が短時間で終わった為に、死者も随分と少なく済んだ。戦場で命を落とす者は、傷を負った後すぐに治療を受ける事が出来ずに、傷口が化膿して間に合わなくなる場合が少なく無い。トランセリアは後方に自慢の医療大隊を派遣し、担ぎ込まれる兵をその場で治療していた。怪我をしていない者など皆無だったが、彼等の活躍により死に至る者もごく少数だった。しかし時には、手の施し様の無い者の苦しみを長引かせない為に、軍医らがその手で絶命させる事もあった。
国王アルフリートの言った通り、この出兵でシルヴァとトランセリア第三軍は、大陸中にその強さを轟かす事になったのである。
シルヴァは王都ヘ入城する。リグノリア軍の顔を立て、先陣は最後まで生き残ったルーガーとハインズの両准将に任せ、医師の応急手当を受けたクレアとダルガルが馬車で続いた。
城内のイグナート兵は、敗戦の報が伝わると共に、ほとんどが逃げ去っていた。逃げ遅れた者も市民に袋叩きにあい、次々と軍に引き渡されていた。軍と言ってもリグノリア軍はほぼ壊滅状態であり、まともに仕事が出来るのはトランセリアの兵士だけであった。市民の大歓声を受けながらも、シルヴァはしばらくの間は第三軍を駐留させねばならないだろうと考えていた。補給線を維持しているシュバルカと連絡も取らねばならぬ。戦が勝利に終わっても、まだまだやる事は残っていた。
まずは兵を休ませようと、シルヴァは第三軍の内二個師団を城外に、一個師団を城内に置き、交替勤務による安全確保を命じた。宮殿前の広場に天幕を張り、臨時本部を設営すると、自らの五千にも交替勤務のシフトを取らせ、宮殿内の掃討を行わせた。
城内外の警備をメレディスに一任すると、シルヴァは宮廷にダルガルを見舞った。既に危篤状態だと連絡が届いていた。
宮殿の大広間は仮の病院となっており、負傷したリグノリアの兵が数多く横たわっている。それでも彼等はシルヴァの姿を見掛けると、次々と立ち上がり、敬礼をし、感謝の言葉を口にした。
一つ奥の部屋にダルガルが居た。ベッドに横たわる彼の傍らに、クレアとウォルフが座って居た。クレアは将軍の手をしっかりと握りしめ、目に涙をためていた。静かに近付くシルヴァに気付くと小さく会釈をし、ウォルフはそっと首を横に振った。
膝をつき、顔を覗き込み声を掛けるシルヴァに、ダルガルはかすれた声でささやいた。
「…ダルガル将軍、シルヴァです」
「……シルヴァ…どの。……あり…がとう。……武人と…して、…死ぬ…ことが…でき…る……」
「…そのような事をおっしゃってはいけません。リグノリアにはまだまだ将軍のお力が必要です」
そう言ってダルガルを励ますシルヴァだったが、彼女にはもう分かっていた。老将軍は最後の声を絞り出した。
「……姫を。……国を。………た…の……」
ダルガルの声はそこで途切れた。シルヴァはそのまましばらくじっと彼の顔を見つめていたが、やがてそっと老人の目を閉じ、静かに立ち上がった。クレアはダルガルの頭を抱き締め、白髪の混じった髪を優しくなぜ、涙を流した。
クレアの嗚咽が小さく響く部屋で、その場に居る全ての者が敬礼をし、リグノリア最後の将軍を送った。
シルヴァはゆっくりとクレアの隣に寄り添い、少女に優しく問い掛けた。
「ダルガル殿は、なんとおっしゃっていましたか」
「……ありがとう、って。……自分は幸せだって。…そう言っていました。……もう二度と彼の手を離すな、とも……」
クレアはそう言うとウォルフにしがみつき、再び涙を流す。ウォルフと離れている間、人前で涙を見せる事の無かった少女は、彼の胸でいつまでも泣きじゃくった。シルヴァはそっとその頭をなでてやると、母親のように語り掛けた。
「姫、もうお休みなさい。全ては明日からの事です。今のあなたにはとにかく休息が必要ですよ」
小さく頷くクレアに微笑みかけ、今度はウォルフにささやいた。
「おぬしも休め。だが気を抜くな、一瞬でも王女から目を離さぬように。まだ油断出来ぬ」
いつもの口調に戻ったシルヴァに、ウォルフは答える。
「承知しています。もう二度と離れません。……シルヴァ元帥、ありがとうございました」
頭を下げるウォルフに、シルヴァはにっこりと笑い掛け、軽く彼の肩を叩くと部屋を後にした。
彼女自身も疲れきっていた。とにかく身体を休ませようと、本陣に戻り、簡単に顔や手足の汚れを拭うと、軍装を解かぬまま横になった。睡魔はすぐに訪れ、彼女は未だあわただしさの残る本部の片隅で、眠りに就いた。
床で眠っているシルヴァを見つけたセリカは、そっと彼女に毛布を掛ける。ロベルトに声を掛け、自分も休む事を告げると、シルヴァの隣で剣を抱え、眠った。ロベルトはその二人の寝顔を眺め、(眠ってる時は可愛いんだよなぁ…)と、素直な感想を思い浮かべていた。三十をいくつか越えた二人の副官にとって、シルヴァは尊敬する上官であると共に、世話の焼ける妹のようでもあった。
トランセリアの兵士達にとっても長い一日だった。日はようやく暮れていこうとしていた。
トランセリア本国の作戦本部は勝利の報告に沸き立っていた。宰相ユーストより最初の報告を受けたアルフリートは、椅子に沈み込みながら深くため息をつき、こう漏らした。
「一時はどうなるかと思ったけど、何とかギリギリで間に合った訳だ。…やっぱり待ってるのは性に合わないなぁ、今度は俺も行くよ」
ユーストは静かに答えた。
「もう予算がありません、しばらくは無理です」
「……ユースト、リカルド局長みたいだよ」
「彼は私の部下ですから」
「………」
かすかにやれやれといった表情を浮かべたユーストは、落ち着き払って報告を続けた。一筋の乱れも無い金色の長い髪がさらりと揺れる。
「リグノリア暫定政府に、ヴィンセント外務長官とディクスン将軍を送ります。あちらは相当な人手不足のようです」
「王都周辺の都市はどう動いてる?」
「各地で反抗が起きている模様です。イグナートはばらばらに撤退をし始めています」
「各国の反応はあった?」
「どの国からも正式な発表はまだですが、各国の市民の反応はおおむね好意的なようです」
「例の鉱脈は?」
「駐留していた隊は引上げを開始したようです。プロタリアは公式には何の反応も見せていません」
「イグナートはあきらめが早いなぁ。…これで王弟派の力が俄然強くなったって事かな?」
「おっしゃる通りで。あの国はもう何年も一枚岩ではありません。今回の襲撃も国王派の勇み足だったようです。引続き調査を致します」
アルフリートら閣僚は、戦のきっかけとなった金鉱脈の調査が、どうやらあまり順調には進んでいないとの情報を得ていた。リグノリアもイグナートも鉱山開発の実績が少なく、それはトランセリアが他国より優位に立てる数少ない分野の一つだった。
先々代の王アーロンが率いる王立工匠は、こと鉱山に関しては相当の自信を持っており、リグノリアと協定を結べさえすればすぐにでも技術者を派遣すると意気盛んだった。そしてそれは、トランセリアの重鎮達が出兵を認めた理由の一つであった。
小さく一つ伸びをすると、アルフリートはテーブルの上に置かれたカップに手を伸ばす。行儀悪く音を立ててコーヒーをすすり、ため息混じりに呟いた。
「……古い国は腐っていくばかりだな。地位を巡っての対立と抗争、無駄で贅沢な慣習、現実を顧みず横暴に振る舞う貴族。そんなんで戦に勝てる訳がないよ」
「リカルドのような締まり屋の財政担当もおらぬのでしょう」
「……あそこまで重箱の隅を突つくように節約しなくてもいいとは思うけど」
「彼の手腕で建国以来初めて王室財政が黒字に転じたのですよ。国王としては褒めるべき所でしょう」
「は~い」
「返事は短く。コーヒーは音を立てずに」
「………はい」
ユースト・リーベンバーグは王族に連なる家系であり、アルフリートとははとこにあたる。彼の父親も先代の宰相であり、現国王の祖父の代から王に仕えている。徹底して表には出ず、大陸中にはり巡らした情報網を駆使して、トランセリアを裏から支える重鎮であった。時に一族の年長者として、アルフリートやシルヴァにお小言を与える唯一の人物でもある。ヴィンセント曰く『陰気で地獄耳の宰相閣下』は、未だ独身で今年三十二歳になる。二人の美しい女性副官を従え、今日も情報戦に暗躍する、宮廷政治のプロフェッショナルであった。
リグノリアの宮殿内の一室に、どうにか落ち着き場所を確保したウォルフとクレアは、やっと二人きりの時間を取る事が出来た。話したい事は山ほどあるのに、二人はしばらくの間ただじっと抱き合って、お互いの胸の鼓動を聞いていた。
クレアの出血は、過度の緊張と疲労による月経の異常であり、妊娠の事実は無い事が医師の診断により判明していた。きちんと処置を済ませ、安静を言い渡されたクレアは、やっと落ち着いて会話が出来るようになっていた。ウォルフはクレアの白い頬を撫で、小さく口付けると、ぼそぼそと話し始めた。
「少し…痩せたか?」
「……うん、…なんだかあんまり食べられなくて」
「傷は痛まないか?」
「うん、だいじょうぶ。……見る?」
「今はいいよ。出血はしていないな」
「うん。……あ、さっきびっくりさせちゃってごめんね」
「ああ…。セリカ殿…シルヴァ様の副官に、お前が妊娠しているかって聞かれて……」
「わたしもびっくりした。……ウォルフの赤ちゃんダメにしちゃったかと思って、悲しかった」
「お前はまだ若いんだから、そんな心配しなくてもいいんだよ。……そうだ、これ」
ウォルフは自分の首からペンダントを外すと、ごしごしと服の裾で拭いて、クレアに渡した。
「わたしが取りに行くって言ったのに…。ありがとうウォルフ、トランセリアを動かしてくれて。リグノリアを助けてくれて。……わたしの命を二回も救ってもらって。……ウォルフの声が聞こえた時、わたし、夢を見ているのかと思った。うれしくて、うれしくて。涙が止まらなくなっちゃって。……わたしウォルフの前で泣いてばっかりいるね」
再び瞳を潤ませたクレアをしっかりと胸に抱き締め、ウォルフの手が優しく少女の髪を撫でる。その仕種がどれ程自分を安心させてくれるのか、クレアは改めて自らの気持ちを確かめていた。この数日間一言も泣き言を漏らさなかった少女は、男の胸で幼い子供のように甘えた。
「…ラウはどうしたの?」
「宿屋に預けて来た。時間が出来たら迎えに行ってやらなきゃなぁ」
「……これ、やっぱりウォルフに持っててもらっちゃダメ?離れていてもこれがあれば…繋がっていられるから」
「…もういいんだ。…もう離れない。……ずっとお前の傍にいる」
「ほんとうに?……国に帰らなくていいの?……あの家に戻らなくても…いいの?」
「ああ、俺にはやるべき事が見つかったんだ。…お前が嫌じゃなければだが」
「わたしがイヤなわけないじゃない…。うれしい、ウォルフ。うれしい…」
クレアはウォルフに頬ずりを繰り返す。見つめ合った二人の唇が重なり、しばらくの間、夢中で互いの温もりを求めあった。やがてウォルフはそっと顔を離し、クレアに言った。
「もう休め。明日からまた忙しくなる」
「うん。……一緒に寝てくれる?一人で眠るのってすごくさびしくて。……わたし、ウォルフの匂いしてないと…なかなか眠れなくって。……今日はちょっと、抱いてもらえないけど…」
「分かってるって。そんな事気にしなくてもいいんだよ、お前は」
ウォルフは少し微笑むとクレアの頭をぽんぽんと軽く叩き、少女をベッドに横たえる。夜着が見つからず、下着姿のクレアの身体はとても軽く、儚げだった。
枕元に剣を置き、すぐ近くの壁に槍を立て掛け、クレアの隣に潜り込んだウォルフは、両腕で包み込むように少女を抱き締めた。頬を擦り寄せて来るクレアにそっと口付ける。クレアは目を閉じ、小さな声で「おやすみなさい」とささやいた。すぐに寝息を立て始めた少女の、かすかな寝息を聞きながら、ウォルフも目を閉じる。一度はその手を離してしまった愛する少女を、再び自分の手で守り抜く事が出来たウォルフは、心地よい充足感と共に眠りに落ちていった。
一夜が明けた。
すぐに必要なのは宮廷の機能を回復させる事だったが、今のリグノリアにはあまりにも人材が不足していた。夜が明ける前から行動を開始したシルヴァは、クレアに進言し、ルーガーとハインズを将軍に、ウォルフに仮の准将の地位を与え、暫定政府の指揮を取らせる事にした。ウォルフはほぼ無傷であったが、新たに将軍となった二人は、やはりそれなりの負傷を負っていた。唯一生き残った閣僚であるマーカス宰相は、老齢に加え、長期の拘束を受け、これまた半病人の有り様で、シルヴァは城内に残っていた文官をかき集め、身元の判明した者から暫定政府に放り込んで行った。
大隊長クラスの武官も使い、どうにか頭数を揃えると、事実上の指揮をウォルフに一任した。片時も彼の傍を離れようとしないクレアや、二人の新将軍にも懇願され、彼は渋々その役職を引き受けた。シルヴァは早々に政治のプロを呼ばねばならぬと考え、本国に次々と現状の報告を送った。
ウォルフとクレアの関係は、既に噂として市民の間に広がっていた。これは宰相ユーストの策略であった。彼はリグノリア王都内部にも間諜を潜伏させており、彼等は救国の英雄ウォルフと流浪の姫君クレアの恋物語を、ドラマチックに仕立て上げ、さも見て来たように語ったのだった。これによりウォルフの評判は一段と跳ね上がり、しばらくの間は、宮廷をまともに歩けぬ程の感謝や握手責めにあったのである。
さらに翌日には、トランセリア第一軍司令官ディクスン将軍率いる一個師団一万が入城し、同行したヴィンセントは国王の全権代理を手に、自らのスタッフを引き連れ、意気揚々と宮殿に乗り込んだ。シュバルカの第二軍は補給線を維持しつつ、各都市に兵を送り、王都周辺の安全を確保していった。これにより地方に散っていた貴族や文官が、続々と帰還するようになり、王宮は次第に活気を取り戻していった。
悲しい知らせも届いた。トランセリアに避難していたラクロ前伯爵が、国の再興を見る事無くこの世を去った。アルフリートは丁重な追悼文を送り、老伯爵の為に避難所に赴いて祈りを捧げた。他国の貴族の屋敷に身を寄せていた息子である現伯爵は、父親が亡くなったのはトランセリアの所為だと抗議するが、彼を諌めたのはヒンシェル大使だった。
「お父上の最期を看取ったのはわたくしでございます。忌まわのお言葉をお伝えします。『人生の幕を閉じる前に、このような仕事に関われて幸福であった』と、『残された領民を頼む』ともおっしゃっておいででした。お父上はアルフリート陛下に感謝こそすれ、恨み言など一言も口にはなされませんでした」
大使の言葉を裏付けるかのように、老ラクロに献花をする領民の列は長く、柩は花で埋め尽くされた。老人の遺体と共に祖国へと戻る避難民達を、トランセリアの騎士達はリグノリアの国旗を掲げて見送った。
慎重なシルヴァはクレアの暗殺を警戒し、宰相マーカスに面通しを依頼する。王族に非常な忠誠心を持つこの老宰相は、クレアの為ならばと、ベッドに横たわったまま数多くの面接をこなし、暫定政府の機能を回復していった。ルーガーとハインズの両将軍は、すっかりウォルフに傾倒し、准将である彼を上官のように扱ってウォルフを苦笑させる。それでも二人は着々と壊滅状態にあった軍を再編し、どうにか二個師団を格好付けた。
クレアは常に仕事をするウォルフの姿が見える位置に腰を下ろし、身体を休めながらも彼女なりに仕事をこなしていた。ぐっすりと休み、きちんと食事も取れるようになった彼女は、若さもあってかみるみる体力を取り戻し、うっすらと頬に赤みもさすようになってからは、煌めくようなその美しさが評判となった。宮殿ではこれも全てウォルフのおかげだと、ますます彼の株が上がっていき、ウォルフを閉口させるのである。
ウォルフはクレアの元に挨拶に訪れたヴィンセントに、こっそりとこぼした。
「噂の流れるのが早すぎる。トランセリアが一枚噛んでるだろう?」
「……正解」
「いくらなんでもやり過ぎだ。俺を見かけると土下座したり拝み始めるヤツ迄いるんだぞ。どうにかしてくれ」
「だから言ったじゃないか、表舞台に立つけどいいか、って」
「………」
「あんな美人のお姫様を手に入れたんだから、少しぐらいの事は我慢しろよ、な」
ヴィンセントは呆然と立ち尽くすウォルフを無視し、新しいリグノリアの閣僚達への顔繋ぎに余念がなかった。こういった場こそ彼の本領が最も発揮される局面であった。ヒゲづらの大男の愚痴を聞いている暇など無いのである。
シルヴァとメレディスはようやく肩の荷を下ろし、久しぶりにのんびりと夕食を取る事にした。ヴィンセントとディクスンを誘い、ヴィンセントの隠しもっていたワインをリサからこっそりと入手し、メニューは淋しいものの、取り敢えず晩餐の格好をつけた。
宮廷騎士団と第三軍は明日にはトランセリアに帰還する予定であり、二人はリラックスして食事を楽しんだ。ヴィンセントは宮廷政治のプロであったし、ディクスンは口数少なく、粘り強い性格で、地味で単調な仕事を黙々とこなし、かつ兵の志気を下げさせないという、都市防衛に非常な才覚を持っている男だった。
シルヴァは気心のしれた相手と言う事もあり、今日は口数も多かった。
「二人とも良く来てくれた。これでやっと苦手な仕事から解放される。もう宮廷人事は沢山だ」
ヴィンセントがさっそく軽口を叩く。
「この後はおまかせを。こう言っちゃなんですけど、今ならこの国乗っ取れますよ」
残りの三人は思わず顔を見合わせ、苦笑する。ヴィンセントは友好条約の締結と、金鉱脈の有利な条件での交易の為にリグノリア入りしたのだが、あまりのトランセリアへの依存ぶりに、そんな事まで考えていたのだ。
「今この国をもらってもお荷物になるだけだ。陛下はそんな事許さないだろうよ」
メレディスが真面目に返事をする。ヴィンセントは笑って受け答える。
「まぁ今のは冗談ですけど、この分だと鉱脈の開発もいつになるか…。案の定どちらの国もほとんど手を付けられず仕舞いのようですし、ウチとの共同採掘を提案してみようかとは思ってます。これは本気です」
シルヴァが口に物を入れたまましゃべる。
「……まあ…ウチの……技術力があれば……鉱山も…」
「シルヴァ様お行儀が…」
メレディスが横から注意する、ワインで流し込むシルヴァ。それを見たヴィンセントが文句をつける。
「いいワインなんですからもっと味わって飲んで下さいよ。…ああそんなにだばだば注いじゃ」
ディクスンがぼそりと話題を変える。
「イグナートはいかがでしたか、元帥」
「あんな動きの鈍い騎士団は始めて見た。亀か何かかと思ったぞ、なぁメレディス」
「驚かされたのは夜間に全軍を移動された事だけでしたね。志気もああ低くちゃ、……隠せ酒」
最後の一言はヴィンセントに向かって言った言葉だ。シルヴァが酒癖が悪い事をメレディスは思い出したのだ。既にご機嫌のシルヴァは更に大口を叩く。
「あれだったらウチだけで八万引受けても勝てたな。どうだ?」
「あははそうですね閣下。……ばかに酔いが早くないですか?」
ヴィンセントはワインを背中に隠して二人の将軍に小声で聞く。
「ヴィンセント~。ワインを隠すなっ!」
グラスを突き付けるシルヴァ。後ろ手にディクスンに瓶を渡し、ヴィンセントは両手を上げる。
「な、ないですよほら。もう飲んじゃったでしょ。ね。……助けて」
「あれ?そうだったか?ディクスンか?お前はよく飲むなぁ…」
自分が一番飲んだ事はもう忘れている。メレディスが別の話題を振る。
「ウォルフの戦いぶりはご覧になりましたか閣下」
「ちらっと見た。あの槍が曲者だな、あれをしのげば……。そうだあれお前の槍だろう、見た事があるぞ」
「……よくご存じで」
「ずるいじゃないか~、今度私にも貸せ」
「シルヴァ様、槍はお使いにならないじゃないですか…、そ、そうだヴィンセント、陛下は何かおっしゃっていたか?」
いきなり話題を振られ、あせるヴィンセント。
「えっ!……ああ大変に喜んでおられましたよぉ、お二人が戻られる日を楽しみにしていらっしゃいました。……なんでこっちに振るんですか」
「……アルフ。明後日でないと会えないのか、つまんないの……。セリカ~っ!」
いきなりシルヴァに呼ばれて本部から顔を覗かせるセリカ。
「は、はい。どうなさいました」
「今夜はいっしょに寝て」
そう言いながらセリカに抱きつき、本部でダンスを踊り出すシルヴァ。とりあえず自分は助かったと思った三人は、こそこそとワインを取り出す。
「あるじゃないか~っ!」
「うわぁっ!」
いきなり戻って来るシルヴァ。ヴィンセントはとうとうワインを抱えて逃げ出した。
「シルヴァ様もう飲んじゃ駄目ですってば!」
「な~ん~で~」
本部内で追いかけっこをするシルヴァとヴィンセント。それを指差し「やっぱり始まったよ」と、げらげら笑うロベルト以下宮廷騎士団の幕僚達。頭を抱えるメレディス。知らん顔でワインをちびちびとやるディクスン。セリカは苦笑しながら、数分後には眠ってしまうであろうシルヴァの寝床を用意していた。かようにシルヴァは酒に弱く、かつ酒癖が悪かった。
翌日。昨晩の傍若無人ぶりなどけろっと忘れたシルヴァは、さわやかな顔で王宮を訪れる。メレディスと共にそれぞれの副官や准将を伴い、クレアに帰郷の挨拶をする為だ。ウォルフ以下の閣僚達がずらりと並ぶ中、クレアは一人一人と固く握手を交わし、何度も感謝の言葉を繰り返す。
「シルヴァ元帥、メレディス将軍。ほんとうにありがとうございました。リグノリアはトランセリアに受けた恩を忘れる事はありません。これからも末長い友好関係を築けるよう、アルフリート陛下にもよろしくお伝え下さい」
シルヴァはにこやかに答える。
「承りました。リグノリアはこれからが大変でしょうが、姫にはエルスハイマー殿がついていらっしゃいます。お二人で力を合わせて頑張って下さい。……結婚式には呼んで下さいね」
小さくウィンクをするシルヴァに、クレアはにっこりと笑い頬を染める。ウォルフがメレディスに話し掛ける。
「将軍、槍をお返しします。何から何まで、本当にありがとうございました」
「役にたったようだね。お前さんも忙しくなるだろうが、一度故郷に帰る気は無いのかね?」
「今の所は…。そうですね、少し考えてみます。でもこれからはここが自分の国ですから」
メレディスに肩を叩かれ、照れくさそうに笑うウォルフ。タウンゼントやセリカ達と握手を交わすウォルフに、シルヴァがそっと語り掛ける。
「エルスハイマー、夜営の時は辛い事を聞いてすまなかった」
「いいえ、とんでもありません。自分が今こうしてクレアの隣に居られるのも、元帥のお陰です。感謝しています」
「あのマントはどうするつもりだ?」
「……もう、必要の無い物ですから。……故郷の将軍に返そうかと考えています」
「それがいいかもしれん。…おぬしちょっと女々しい所があるからな」
面喰らったウォルフににやりと笑い掛け、シルヴァは踵を返す。戦場で悪魔のごとき戦いぶりを見せたウォルフに、『女々しい』と言えるのは彼女だけかもしれない。
市民の大歓声を受け、トランセリアの騎士達が帰郷していく。リグノリアにようやく復興の鎚音が響き始めていた。




