柳生十兵衛隠密説
映画や時代小説で柳生十兵衛が幕府の隠密として諸国に潜入する話が多いですね。
さて、実際はどうだったかというと、創作だった可能性が高いようです。
柳生十兵衛が公儀隠密として活躍する話は明治から大正時代の講談師によるものがはじまりで、明治の立川文庫で広まったようです。さらに、昭和に剣豪ブームがあり、今に至る十兵衛隠密像が形成されたようです。
史実はどうだったかというと、寛永三年(1626)に将軍・家光の勘気に触れて暇を出され江戸を去り柳生の里に戻ったそうです。
その原因は沢庵の手紙や柳生藩の記録によれば、若い頃の十兵衛は素行が悪く、酒の上の失敗があったようです。
家光に許されて寛永十五年(1638)に御書院番として江戸城に出仕するまでの12年間、十兵衛が何をしていたのかは記録がありません。
12年間も謹慎とは長すぎる気がしますが、父は将軍家の兵法指南であり、柳生新陰流は将軍家御流儀です。さらに1632年には初代の幕府惣目付(大目付)に就任し、老中や諸藩を監察しました。
実にお硬い立場であり、他人に厳しくするには、己も厳しくしなければ務まりません。遅刻を叱る社長が、本人は重役出勤では信用されないでしょ?
しかし12年間の謹慎生活は長い。
これが後世の講談師に隠密説を思いつかせたのでしょう。
歴史上の人物は史実ががっちり決められているので、自由に動かすには限度がある。
あまり史実が残っていない柳生十兵衛は自由に創作できる、かっこうの素材だったと思われます。
柳生十兵衛が身分を隠して諸国を旅する話は「貴種流離譚」として大衆受けします。
でも実際のことろ、この12年間は柳生の里に引きこもり、柳生新陰流の口伝と伝書を研究していたのでしょう。兵法書をしたためます。
それが第一の兵法書「昔飛衛という者があり」で、1637年に完成しています。
その中に、「主君(家光)の側を離れたからには、諸国を歩き回ることは礼儀に反するので、12年間故郷を出なかった。その間、実家の剣術兵法を考え、兵法書の執筆に心魂をこめた」と語っています。
その後も1642年に「月之抄」、1649年に「武蔵野」を上梓しています。
実際の柳生十兵衛は若き日は向こう気の強い剣豪で、お酒で失敗、後年は反省して兵法研究に余念がなかったようです。




