柳生十兵衛は片目ではなかった?
時代小説や映画、漫画、ゲームなど現在も多数のメディアで人気の柳生十兵衛――
片目に鍔つばの眼帯をして、剣をふるう姿が凛々しく、敵をバッタバッタと切り裂く無敵の「隻眼の剣豪」ヒーローとして描かれることが多いですね
しかし、実はその隻眼、つまり片目姿はフィクションだった可能性が高いのです……
柳生十兵衛は慶長12年(1607)生まれでで、柳生但馬守宗矩の長男として柳生の庄で生まれました。
柳生藩の記録「玉栄拾遺」によると、十兵衛は「弱冠にして天資はなはだ梟雄きょうゆう、早く新陰流の術に達し、その著書を術作したまう」とあります。
わかりやすくいうと、十兵衛は若いころから剣術の才能があり、凶悪で乱暴であったそうです。
そして、兵法研究家でもあり、柳生新陰流の解説や研究した兵法書を三冊執筆しています。
なんだか、実際の柳生十兵衛は時代小説や映画に出てくるキャラクターとは違いますねえ……
隻眼になった説は大きくわけて以下の三つになります。
1、「柳生美談」によると、「父・宗矩が十兵衛の腕を試すため、暗夜に礫つぶてを飛ばしてみたところ、右目に命中し失明した」とあります。
しかしこのとき、十兵衛は無事な左目をかばい、痛む右目をかばわなかったといいます。敵の次の襲撃を回避するためですが、こんな衝撃的なことがあっても、反射的に次に備えるとは只者ではありません……
2、柳生厳長の「正傳・新陰流」によると、「十兵衛7歳のときに、「燕尾えんび」の稽古けいこ中、四番目の太刀「月影」の太刀打ちを父・宗矩に習っていたとき、その太刀先が右目を突いてしまった」というのです。
宗矩がめずらしく誤って手元がくるってしまったのか……十兵衛の未熟が招いた要因か……
以上、いずれも父・宗矩が原因のエピソード二つは、時代小説家が独自にアレンジしてドラマを盛り上げる話に書き上げているので、読み比べてみるのも面白いと思います。
3、最後は、実は柳生十兵衛、両目ともあったとされる説です。
「日本武芸小伝」によると、残された十兵衛の肖像画は両目ともあり鋭い眼光だったと。
さらに、江戸柳生の文献や十兵衛当人の兵法書には、片目であることは書かれていません。
ただ、同時代に生きた伊達政宗も独眼竜と呼ばれ、片目でしたが、肖像画は両目とも開いてます。
これは、政宗本人が晩年になって、「肖像画などに自分の姿を残す場合は、必ず両目のある状態で描くように」と厳命していたからです。
その理由は「親からさずかった大切なものが、ひとつ欠けたのは誠に不敬なことである。肖像画には両目がそろった形にせよ」というものです。
では、柳生十兵衛もそれにならい、両目を開いた状態で描かせた可能性もあるのでは?
しかし、それでは上記ふたつの父が原因説だとすると、嫌味なことになりますね……
ちなみに柳生十兵衛の没年は慶安三年(1650)で、父。宗矩の没年は正保三年(1646)です。
肖像画がいつ描かれたかわかりませんが、フィクションの十兵衛は父にやたら反発していますが、実際の十兵衛はたいへん父を尊敬していたのです。父に不敬なことはしなかったと思いますね……
実は「十兵衛隻眼説」は、彼の死後、元禄時代に「柳生美談」などの戯作本が発祥で、講談で虚構が広がり、明治時代の「立川文庫」、昭和の剣豪小説ブームで定着したようですね。




