忘れ物
少女が恐る恐る家の中へ入る。
その後を追うように、僕も玄関を上がった。
祖父は少女の顔を一度だけ確かめると、何も言わず廊下の奥へ歩いていく。
その足取りには迷いがなかった。
まるで、こうして誰かが訪ねてくることには慣れているかのようだった。
僕はその背中を追いながら、ふと足を止めた。
この家には何度か来たことがある。
居間も、台所も、風呂場の場所も覚えている。
けれど――。
祖父が向かっているのは、廊下の奥にある一枚の引き戸だった。
「……こんなとこ、あったっけ。」
思わず呟いた。
祖父は振り返らない。
そのまま引き戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。
ガラリ、と音がする。
祖父の肩越しに部屋を覗くと
その向こうには、少し変わった部屋があった。
広さは、普通の居間とそう変わらない。
部屋の角には椅子が置かれ、壁に沿うように古びた木の棚がいくつも並んでいる。
その一つ一つに、様々な物が置かれていた。
古い写真。
腕時計。
小さな箱。
髪飾りや鍵、手紙。
どれも特別高価なものには見えない。
けれど、なぜだか雑に扱ってはいけないような気がした。
部屋の中央には、年季の入った大きな木の台が置かれている。
何に使うものなのかは、僕には分からなかった。
ただ、その上だけは何も置かれていない。
「……ここが店?」
「ああ。」
祖父はそれだけ答えると、部屋の中へ入っていき、少女もそれに続いた。
扉の横の壁には、小さなベルが吊るされている。
僕はそれを横目に見ながら、部屋の中へ足を踏み入れた。
――カラン。
触れていないはずのベルが音を立てた。
「……!?」
急いで振り返ると、ベルがかすかに揺れていた。
「忘れ物が届いたか。」
祖父が後ろから声をかける。
「いや、でも誰も……。」
入口には、僕たち以外誰もいない。
廊下にじっと目を凝らしてみても、誰かがいる気配はしなかった。
祖父は気にする様子もなく、部屋の中央にある木の台へ目を向けた。
すると――。
さっきまで何もなかったはずの台の上に、小さな木箱が置かれていた。
「……いつの間に?」
「今、届いたんだ。」
祖父は木箱を手に取った。
そして、少女へ差し出す。
「開けてみなさい。」
少女は戸惑いながら箱を受け取った。
ゆっくりと蓋を開ける。
中に入っていたのは、小さなイルカのキーホルダーだった。
「……これ、」
少女の表情が変わった。
「知ってるのか?」
と僕は尋ねた。
「うん……。」
少女はキーホルダーを両手で包むように握った。
「……これ、お母さんが買ってくれたの。」
その瞬間だった。
少女の周りに、小さな光が浮かんだ。
淡い光がひとつ、ふたつ。
それは少女の髪の周りをゆっくりと漂って、消えていく。
「……旅行」
少女が呟いた。
「お父さんと、お母さんと……三人で行ったの。」
少女はキーホルダーを見つめた。
「海を見に行ったの。」
少しずつ、途切れていた記憶が戻っていく。
「朝早く家を出て、お父さんが運転して……お母さんが隣で歌ってて」
少女が小さく笑った。
「途中で道を間違えて、お父さんがお母さんに怒られて……」
「それで?」
「お母さんが、はしゃぐ私たちを見て、二人とも子どもみたいって笑ってた。」
少女はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、さっきまでの不安そうな顔が嘘みたいだった。
「……楽しかったんだね。」
「うん。」
少女は頷いた。
「すごく楽しかった。」
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
少女は何かを思い出そうとするように、眉を寄せる。
「……そのあと」
「そのあと?」
「……分からない。」
少女は頭を押さえた。
「急に……何も見えなくなって」
少女の声が震えた。
「気づいたら、一人だった。」
僕は何も言えなかった。
「何も分からなくて、ただ帰らなきゃって」
少女は俯いた。
「でも、どこへ帰ればいいのか分からなくて。」
祖父は黙って少女を見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「覚えているのは、そこまでか。」
少女は小さく頷いた。
「うん……。」
「そうか。」
祖父はそれ以上、何も聞かなかった。
その代わり、壁際に並ぶ棚へ歩いていく。
戻ってきた祖父の手には、一枚の写真があった。
「……これは、お前さんのものだ。」
海を背景にした三人の家族。
写真の中では、少女が両親の間に立って笑っている。
「……これ」
少女が写真を受け取る。
その瞬間。
少女の目から、涙がこぼれた。
祖父は少女の前にしゃがみ込んだ。
「最後まで、思い出してごらん。」
少女は目を閉じた。
しばらくして、ぽつりと呟く。
「……お母さんが、眠そうだねって。」
「お父さんが、家に着いたら何食べるって聞いて……」
少女の頬に涙が流れる。
「私、カレーがいいって言った。」
僕は思わず笑ってしまった。
「……普通だな。」
少女も少し笑った。
「うん。普通だった。」
そして、また目を閉じる。
「普通に旅行して……普通に帰って……」
少女の声が震える。
「普通に、帰るはずだった。」
祖父は静かに頷いた。
「……ああ、そうだな。」
「……。」
祖父はもう一度写真に目をやり
「いい写真だ。」
とだけ言った。
少女は答えなかった。
ただ、写真を強く抱きしめている。
祖父も、僕も、それ以上何も言わなかった。
しばらくそうしていたが、やがて少女が口を開いた。
「私、ここに来るまで、すごく寂しかった。
ずっとひとりぼっちなんだって、悲しかった。」
少女は写真に映る三人を見つめた。
「忘れてたんだね。お父さんと、お母さんと一緒にいたこと。
楽しかったことも、二人が笑ってたことも……全部」
その声は、今にも消えてしまいそうだった。
「私の、最後の、幸せだった時間。」
「……大切なものは、時が経てば形を変えることもある。」
祖父は写真を見る。
「それでも、そこにあった時間まで消えるわけじゃない。」
少女は微笑みながら頷いた。
「……帰らなきゃ。」
少女が顔を上げる。
「帰れるの?」
僕が聞くと、少女は少し考えてから頷いた。
「うん。」
迷いのない返事だった。
「もう、帰る場所、分かったから。」
祖父は静かに頷いた。
窓を開ける。
夜の風が、部屋の中へ流れ込んできた。
少女はキーホルダーと写真を大事そうに抱えた。
「これは……持っていっていいの?」
「ああ。」
「ありがとう。」
少女は何度も二つを見つめた。
そして、窓辺へ歩いていく。
裸足の足が床を踏む音が、小さく響いた。
少女が夜空を見上げると、どこからともなく小さな光の粒が現れ、彼女の周りを漂い始めた。
「……ありがとう」
少女は祖父に頭を下げる。
それから僕を見る。
「あなたも」
「僕?」
「うん」
少女は少しだけ笑った。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
僕は何と答えればいいのか分からなかった。
だから、ただ頷いた。
光の粒は、少女の髪や肩に触れては、淡く消えていく。
そのたびに、少しずつ輪郭が夜に滲んでいった。
やがて少女そのものがひとつの光となり、
その光に寄り添うように、いつの間にかふたつの小さな光が浮かんでいた。
三つの光は、しばらく寄り添うように漂っていた。
そして、ゆっくりと夜空へ向かって昇っていく。
もう、決してはぐれることのないように。
どんどんと小さくなる光を見つめていると、その光が夜空の中で小さく瞬いた。
それはもう、星だった。
三つの星が並ぶ夜空を、僕はしばらく黙って見上げていた。
ふと気づけば、隣に祖父が立っていた。
「……帰れたんだね。」
「ああ。」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
僕はもう一度、窓の外を見た。
大切だった時間や、誰かと過ごした記憶。
そういうものも、いつか忘れてしまうことがある。
けれど――。
遠ざかっていた記憶を、もう一度手繰り寄せることができたなら。
それはきっと、忘れる前とは少し違う形で、心の中に残っていく。
思い出せたその瞬間から、新しい大切なものになるんだろう。
……あの子が今日取り戻したものが、これからもあの子の中に残っていますように。
僕はそう思いながら、静かに窓を閉めた。




