第07話:『@Laplace_Demon』の予知と確定
深夜2時。
六畳一間の安アパートは、ブルーライトの冷たい光と、鼻を突く饐えた臭いで満たされていた。
散乱したカップ麺の容器、飲み干されたエナジードリンクの空き缶、そしてキーボードの隙間に落ちたポテトチップスの破片。
万年床の布団は脂汗で黄ばみ、主である四見啓介(31歳)の不健康な皮膚と同じ色をしている。
彼は無精髭を指で掻きむしりながら、ニチャリと歪んだ笑みを浮かべてキーボードを叩いた。
「『犯人は執事。動機は10年前の事故。主人公は最後に死ぬ』……っと。送信」
人気ミステリードラマの実況掲示板に、放送前のネタバレを投下する。
直後に湧き上がる「最悪」「死ね」「楽しみにしてたのに」という阿鼻叫喚のレス。
啓介にとって、それは極上の賛辞だった。
彼のハンドルネームは『@Laplace_Demon(ラプラスの悪魔)』。
元データアナリストという経歴を鼻にかけ、あらゆる物語の結末を予測し、他人の楽しみを奪うことを至上の喜びとする男だ。
「くだらない。どいつもこいつも、あんな見え透いた伏線にハラハラしやがって。感情の無駄遣いなんだよ」
予測できない展開など、彼にとってはノイズでしかない。
人生も同じだ。結果がわからないまま努力するなど、非効率の極みだ。
そう毒づきながら、次の標的を探そうとブラウザを更新した時だった。
画面の中央に、漆黒の闇が広がった。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
黒地に白の明朝体。
装飾を削ぎ落としたそのバナーは、まるで葬式の案内状のように静謐で――抗いがたい引力を放っていた。
指が勝手に動く。
脳がクリックを命令するより早く、人差し指がマウスボタンを押し込んでいた。
◇
ページが開くと、そこには小説が掲載されていた。
タイトルは『完全なる予知者』。
主人公は、啓介そっくりの男。
彼はすべての未来を見通し、株で巨万の富を得て、愚かな大衆を見下ろしながら王のように振る舞っていた。
そこには、啓介が常々不満に思っていた「不確定要素」や「ご都合主義」が一切ない。
完璧な論理。完璧な因果律。
そして、完璧な自分。
「ははっ、なんだこれ。最高傑作じゃないか。俺が書きたかったのは、こういう『正解』だけの物語なんだよ」
啓介の自尊心が、かつてないほど刺激される。
この物語こそが、世界で唯一評価されるべきだ。いや、この主人公こそが、最高評価を受けるべき存在なのだ。
画面下部に現れた評価ボタン。
彼は迷いなく、震える指で一番右の星をクリックした。
――カチッ。
★5。最高評価。
「おやおや、高評価ありがとうございます。私の拙作がお気に召したようで光栄です」
不意に、部屋の中に男の声が響いた。
啓介が振り返るより早く、モニターから黒い影が滲み出し、実体化する。
黒いスーツにシルクハット。
片眼鏡を光らせたその男――サイフォンは、慇懃に一礼した。
「そんなに驚かないでくださいよ。今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
啓介は椅子から転げ落ちそうになりながらも、持ち前のプライドで虚勢を張った。
「あ、悪魔だと? ふん、どうせ新手のAR(拡張現実)広告だろ。凝った演出だが、プロットが甘いな。俺のPCに不正アクセスした罪は重いぞ」
震える声で権利を主張する啓介に、サイフォンは愉しげに肩を竦めた。
「流石は『@Laplace_Demon』さん。洞察力が鋭い。ええ、私は編集者のサイフォン。貴方がたった今、最高評価をくださった物語……あれを現実に実装しに参りました」
「実装だと?」
「ええ。貴方は常々、仰っているではありませんか。『先の見えない展開はストレスだ』『結論を先に出せ』と。……推敲しましょう。貴方の人生に『完全攻略チャート』を実装するのです」
啓介の目が欲に濁る。
攻略チャート。それはつまり、未来予知だ。
株価の変動、他人の思考、成功への選択肢。それらがすべて可視化されるなら、人生はイージーモードになる。
「……条件は? タダじゃないんだろ。俺は客だぞ、足元を見るなよ」
「強欲な素材だ……。いえいえ、対価は先ほど頂きましたよ。貴方のその『★5評価』こそが契約の証。さあ、物語を始めましょう」
◇
世界は一変した。
啓介の視界には、常に半透明のウィンドウが浮かんでいる。
『【A】上司にお茶を出す(好感度+5)』
『【B】無視する(解雇フラグ)』
『【C】昨日の失態を指摘する(パワハラ訴訟勝利ルート確定)』
すべてが見える。
啓介は迷わず【C】を選び、嫌味な上司を論理的に追い詰めて退職金をもぎ取った。
投資を行えば『【A】この銘柄は3時間後に暴落する』という警告が出る。
ナンパをすれば『【B】この女性は今、寂しさを感じている。正解ワードは「映画」』と答えが表示される。
「ははっ! 簡単だ! 人生なんて所詮、パラメータ調整されたプログラムに過ぎない!」
啓介は笑いが止まらなかった。
失敗の恐怖がない。迷う時間も不要。
最短最速で、彼は高級タワーマンションの一室を手に入れ、美女を侍らせ、シャンパンタワーの頂点に立った。
サプライズ? 不要だ。
ハプニング? 欠陥品だ。
すべてが予定調和された世界こそが、至高のエンターテインメントなのだ。
――そう、信じていた。あの日までは。
◇
その日の朝、視界に表示されたウィンドウは、いつもと少し様子が違っていた。
『【確定イベント】10時05分、駅のホームから転落し、電車に轢かれて死亡する』
啓介はコーヒーを吹き出しそうになった。
時刻は9時30分。これから外出する予定だったが、当然キャンセルだ。
「おいおい、バグか? 死ぬわけないだろ。俺は家にいるんだから」
彼はソファーに深く座り込み、外出を取りやめた。
これで回避完了。そう思った瞬間だった。
『警告:シナリオからの逸脱を検知。修正措置を実行します』
空中に赤い文字が明滅する。
同時に、啓介の身体がガクリと跳ねた。
「な、なんだ? 手が……足が、勝手に!?」
意思とは無関係に、筋肉が収縮する。
まるで、見えない糸に操られるマリオネットのように、啓介は立ち上がり、玄関へと歩き出した。
「やめろ! 止まれ! 俺は行きたくない!」
叫んでも、口は勝手に靴紐を結んでいる。
恐怖で涙が溢れるが、足は軽快なリズムでドアを開けた。
『伏線回収:貴方は以前、言いましたね。「意外な結末など不要だ」「あらかじめ提示された結末に向かって整合性を取るのがプロの仕事だ」と』
サイフォンの冷徹な声が脳内に響く。
「ふざけるな! これは俺の人生だぞ!」
『ええ。ですから「ご都合主義」は排除しました。貴方は結末を知っている。ならば、その結末に向かわないのは「キャラ崩壊」であり「プロットの破綻」です』
駅のホーム。
電車が近づく轟音が聞こえる。
啓介の意識は必死にブレーキをかけているのに、身体はスムーズに黄色い線の外側へと歩みを進める。
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!! 助けてくれ!!」
『貴方の望んだ「確定された世界」ですよ。思考が乱丁していますね。さあ、ラストシーンです。綺麗な放物線を描いてください』
10時05分。
啓介の身体は、完璧なタイミングで宙を舞った。
◇
激痛と衝撃の後、啓介は奇妙な感覚に包まれていた。
痛みはない。だが、動けない。
目を開けると、そこは駅のホームだった。
しかし、誰も彼を見ない。彼を通り抜けていく。
サイフォンが、線路の脇に立って手帳に何かを書き込んでいた。
「素晴らしい。完璧な『死亡シーン』でした。これにより、貴方はこの世界の『背景』として固定されました」
「……あ……あ……」
声が出ない。
いや、自分自身が「駅のホームにある染み」や「注意書きの看板」といった、単なるテクスチャデータに変換されているのを感じる。
「貴方は未来を知りすぎた。結果を知っている人間に、選択の自由などありません。あるのは、決められたレールをなぞる義務だけ。……これからは永遠に、ここで『悲惨な事故の痕跡』として、他人の物語を彩ってください」
サイフォンは帽子を取り、優雅に一礼した。
「ああ、それと。物語にはオチが必要ですよね? 貴方はもう、誰にもネタバレできませんよ。誰からも認識されないのですから」
絶望する間もなく、啓介の意識は静止画した。
◇
サイフォンは、中空に浮かぶモニターに向かって、読者に微笑みかける。
「人間というのは不思議な生き物です。未来を知りたがるくせに、いざ未来が確定すると、その不自由さに絶望する。不確定な明日があるからこそ、人は今日を足掻けるというのに」
彼は懐から万年筆を取り出し、虚空に×印を刻んだ。
「貴方も、あまり先のことは知りすぎない方がいいですよ? 楽しみが減ってしまいますからね……くっくっく。これにて第07話:『@Laplace_Demon』の予知と確定は完結です」
そして、サイフォンは画面の向こう側にいる「あなた」をじっと見つめた。
まるで、値踏みをするような冷たい視線で。
「さて、今回の物語……いかがでしたか? 愚かな彼が迎えた必然の結末。もし楽しんでいただけたのなら……ええ、わかっていますよね?」
彼は白い手袋をはめた指先で、画面の下を指し示した。
「私への報酬は『★5評価』だけで結構です。さあ、そこにボタンがあるでしょう? 嫉妬でも、優越感でも、どんな感情でも構いません。……押してください。そうすれば次は、貴方の願いを叶える番かもしれませんよ?」
『403 Forbidden
アクセス権限がありません。強制排除を実行します』




