第05話:『酔っ払い刑事』の捏造と誤審
50代の男の部屋は、安酒と饐えた煙草の臭いで満たされていた。
カーテンは閉め切られ、昼夜の感覚などとうにない。
ただ一つ、暗闇の中で青白く光るスマートフォンの画面だけが、この部屋の主である男の顔を照らし出していた。
男のハンドルネームは『酔っ払い刑事』。
かつては捜査一課の敏腕として名を馳せたが、今はただの、うらぶれた窓際族だ。
画面には、ネットニュースの速報が表示されている。
『鬼頭黒鷹、証拠不十分で無罪確定』
男が10年追い続け、自身の家族を殺したと確信している男の名だ。
「……ふざけ、やがって」
男は震える手で、ワンカップの縁を噛むように煽る。
証拠はあった。
いや、男が作ったのだ。
奴を有罪にするために、現場の痕跡を改竄し、偽の目撃証言すらでっち上げた。
正義のためだ。奴は悪だ。
だから、手段など選んでいる場合ではなかった。
それなのに、司法は奴を解き放った。
「誰か……、誰か俺の代わりに、あいつに引導を渡してくれ……」
つぶやいた瞬間、画面の下部に漆黒のバナー広告が現れた。
『一生懸命書きました。アナタの人生「あなた」の幸せがココに詰まっています。』
普段の男なら、そんな怪しげな広告は指先一つで弾いていただろう。
だが、その「黒」は違った。
まるで画面のピクセルが抜け落ちて、底なしの深淵が口を開けたかのような、異質な闇。
そこから漏れ出す、魔力的な引力。
「あ……」
疑う余地も、考える隙もなかった。
男の指は、何かに操られるように吸い寄せられ、その闇をタップしていた。
*
表示されたWeb小説は、法で裁けぬ悪を主人公が超常的な力で葬る復讐劇だった。
文章は稚拙だ。構成も荒い。
だが、その内容は男のどす黒い欲望を的確に撫で回した。
「そうだよ……これだ。俺がやりたかったのは、これなんだよ」
読み終えた時、男は涙を流しながら、憑かれたように評価欄へ指を伸ばした。
躊躇いはなかった。
男は震える指で、一番右にある星――★5つを力強くタップした。
送信ボタンを押す。
その瞬間。
スマートフォンの画面が、黒いインクを零したように滲み始めた。
「……あ?」
「おやおや、そんなに驚かないでくださいよ」
画面から黒い靄が噴き出し、男の目の前で人の形を成す。
燕尾服を着た、細身の男。
顔には慇懃な笑みを張り付けている。
「今時、幽霊だってモニターから出てくる時代じゃないですか。なら、悪魔が出てきたって何の不思議もありませんよ……くっくっく」
刑事である男は、これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた。
だから、腰を抜かすような無様は晒さない。
「……お前が、この小説の作者か」
男は懐から拳銃を取り出し――警察官としての唯一の誇りであり、持ち出し禁止の違反品だ――怪人に向けた。
「いい度胸ですねぇ。私はサイフォン。しがない小説家ですよ」
「小説家だと? ふん、そんな恰好でか」
男は銃口を下げないまま、獰猛に笑った。
「丁度いい。俺は今、虫の居所が悪いんだ。化け物だろうが何だろうが、使えるもんなら使ってやる」
「ほう?」
「あの小説に出てきた『ノート』。あれを寄越せ。名前を書けば死ぬ、あのノートだ」
サイフォンは、男の傲慢な態度に呆れるどころか、愉悦に歪んだ表情を見せた。
「強欲な素材だ……素晴らしい。それに、最高の評価(★5)を頂きありがとうございます。読者様の期待には、全力でお応えしなければなりませんね」
サイフォンが指を鳴らす。
男の手元に、重厚な黒革のノートが現れた。
「★を5つ頂きましたので、特別に5人まで裁ける権利を差し上げましょう」
「5人……だけか?」
「おやおや、量より質ですよ。★5つの対価として、『絶対に足がつかない完全犯罪』をご用意しました」
「完全犯罪……?」
「ええ。医学的にも完全に自然死。誰にも疑われない、完璧な執行権です。それに、貴方の正義(捏造)に合わせて、特別仕様にしておきました。名前や顔が一致していなくても構いません。『こいつは悪だ』と念じて顔を思い浮かべるだけで、その人間は心臓麻痺で死にます」
「……上等だ」
男はノートを受け取ると、すぐにペンを走らせた。
1人目。
鬼頭黒鷹。家族を奪った憎き仇。
『……う、ぐぁ……っ!?』
テレビのニュース画面に映っていた鬼頭が、突如として胸を押さえ、苦悶の表情で倒れ込んだ。
スタジオが騒然となる。
「は、はは……! 見たか! 死んだ! 俺の正義が勝ったんだ!」
男は狂喜し、すぐに2人目を書く。
鬼頭を無罪に導いた、敏腕弁護士。
数分後、速報テロップが流れる。弁護士の急死。
「素晴らしい……これこそが法だ! 俺が法律だ!」
男の筆は止まらない。
3人目。
現在、男が捜査に関わっている連続強盗事件の容疑者。
状況証拠は揃っているが、決定打に欠ける若者だ。
「こいつもどうせクロだ。俺の勘がそう言っている」
男は若者の顔を思い浮かべ、ノートに『×』を記した。
その直後だった。
スマートフォンのニュースアプリが、新たな通知を告げた。
『連続強盗事件、真犯人を逮捕。容疑者の若者は無関係と判明』
「……は?」
男の動きが止まる。
真犯人? 自供した?
じゃあ、さっき俺が殺した若者は?
「おやおや、推敲不足でしたねぇ」
サイフォンが冷ややかに囁く。
「随分とプロットが甘いようだ。貴方のその『勘』とやらは、まったくの取材不足でしたね」
「う、うるさい! 多少の犠牲は付き物だ! 俺は悪を滅ぼすために……!」
「無実の人間を『悪役』に仕立て上げるとは。キャラ設定の理解が足りていませんよ」
サイフォンは男の弁明を遮り、楽しそうに急き立てる。
「さあ、契約は絶対です。あと2人残っていますよ。次は誰にしますか? 貴方のその素晴らしい正義のノートで、誰を裁きますか?」
男は震える手でペンを握りしめた。
冤罪を生んだ。無実の人間を殺した。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
男の血走った目が、目の前の悪魔を捉える。
「……お前だ」
「はい?」
「お前がいなければ、こんなことにはならなかった! お前こそが諸悪の根源だ! 貴様を殺して、俺はこのノートを捨てる!」
4人目。
男は強く念じた。
目の前の、慇懃無礼な小説家の顔を。
そして、ノートにペンを叩きつけるように走らせた。
『文学の悪魔、サイフォン』
書き終えた瞬間。
ドクン、と男の心臓が大きく跳ねた。
「が、はっ……!?」
激痛が胸を貫く。呼吸ができない。
「な、ぜ……俺は、お前を……」
床に崩れ落ちる男を、サイフォンが見下ろしていた。
その目は、誤字だらけの原稿用紙を見るような冷たさだった。
「私は言いましたよね? 名前や顔が一致していなくても構いません。『こいつは悪だ』と念じて顔を思い浮かべるだけで、その人間は心臓麻痺で死にますと」
サイフォンは、男の手から滑り落ちたノートを拾い上げ、嘲るように告げる。
「貴方……自分の罪の重さに負けたんじゃないんですか?」
「……あ、あ……」
そうか。
俺だ。
俺こそが、死ぬべき罪人だったんだ。
「貴方が最後に思い浮かべた『殺すべき悪』は、無意識のうちに鏡の中の自分自身だったのですよ。……まったく」
サイフォンは呆れたように首を振る。
「主役が自分で自分を殺すなんて、ひどいご都合主義だ。貴方の存在そのものが、この美しい物語における最大の矛盾なんですよ」
サイフォンは、もがき苦しむ男の顔の前で、指をパチンと鳴らした。
「これ以上の駄文は読者に失礼です。貴方の人生はこれにて打ち切りです」
男の視界がノイズに覆われる。
肉体が、血管が、細胞の一つ一つが、無機質な文字データへと変換され、そしてバックスペースキーを押されたように消滅していく。
痛みすら、文字化けして消えた。
*
部屋には、誰もいなかった。
死体もない。
最初から、そんな人間は存在しなかったかのように、部屋は空っぽだった。
サイフォンは黒いノートを拾い上げ、パラパラとページをめくる。
1人目、2人目、3人目。そして4人目の男自身の筆跡。
「おやおや……」
サイフォンは、まだ空白のまま残されている5行目を指でなぞった。
「★5つ分の契約を頂いたのに、4人目で終わってしまうとは。あと1人分、枠が残っているのにもったいないですねぇ」
サイフォンはゆっくりと顔を上げ、画面の向こうにいる『あなた』と視線を合わせた。
その瞳の奥で、底知れない闇が笑っていた。
「どうです、読者様。この余った最後の1枠……」
スッ、と黒いノートが画面越しに差し出される。
「貴方が代わりに使いますか? 誰か、どうしても消したい『悪』がいるのでしょう?」
サイフォンは深々と一礼し、闇の中へと消えていった。
「これにて第05話:『酔っ払い刑事』の捏造と誤審は完結です。」
404 Not Found
指定されたユーザーは削除されました




