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巡り逢ひて*其の八


 葵が語る紫についてのあれこれを、菊乃は心なしか前のめりで聞き入っていた。その姿は、本人無意識であろうけれど、先程、礼儀についての話を聞いていた紫そっくりで、こんなときだけれど微笑ましい気持ちになる。


「お作法がご自身にとって大切なもので、礼儀正しく振る舞うことは相手への思いやりなのだと飲み込めたときの紫様は、心の底から楽しそうでいらっしゃいました。理解できないことが理解できたときに、あれほど喜びを露わにされる方が、学びを望まれていないわけがありません。これまでは単に、紫様の取り巻く世界と勉学で得る〝学び〟が繋がっておらず、気持ちがそちらへ向かなかっただけ。学ぶ意欲さえ高められれば、紫様のような方は、むしろ自発的に学びを深められるのではと存じます」

「そ、そうでしょうか……」

「えぇ。紫様は決して、年齢不相応に幼いわけではございません。お心を抑えられず、気持ちの赴くままに振る舞われる様をご覧になれば、不安に思われるお気持ちも分かりますが。あれほど賢い方ですから、そう遠くないうち、感情に振り回されることなく他者と接する術を、覚えていかれるでしょう」


 現代の幼児発達理論で言えば、紫は感情のコントロールがやや不得手な子どもにはなるのだろう。とはいえ、あの年齢で完璧に自制を効かせることはそもそも難しいし、彼女の不得手はあくまでも、他と比べれば苦手程度のものでしかない。もっと自分を抑えられない子は大勢いるし、何より『原作』の『紫の上』を参照すれば、紫が自由気ままなのも今だけだと分かる。

 さすがに『原作』のことまでは言えないけれど、少しでも菊乃の心をほぐすべく、そして紫への誤解を解くべく言葉を重ねた葵を、〝若紫〟の祖母はじっと見つめて――。


「あの子は……本当に、大丈夫なのでしょうか」

「わたしが見る限り、紫様は並外れて記憶力に優れ、理解力も人並み以上のお子です。何のために学ぶかの目的意識さえしっかり持てば、自発的に学んでいけるだけの意欲もある。そういう方は経験上、適切に導いてさえ差し上げれば、いずれ、世間から尊敬を集める、ご立派な人となられるでしょう」

「紫は、葵様からそう仰って頂けるほど、優れた資質を持っている、と?」

「紫様にも申し上げましたが、わたしは嘘で人を褒めることは致しません。特に子どもを相手にするときは、極力、嘘はつかないと決めています。……大人の嘘は、大人が思う以上に子どもの心に傷を残し、その魂を歪ませかねないと、知っていますから」


 幼子にとって、養育者の存在は、言葉は、文字通り〝全て〟だ。子どもは全身全霊で養育者――大人を慕い、その言葉を信じて大きくなる。

 もしも、そんな大人の行動に、言葉に、〝嘘〟があったら。その〝嘘〟が暴かれた瞬間、子どもの世界は〝嘘〟の数だけ覆されてしまう。放った大人にとっては些細な、その場凌ぎの嘘のつもりでも、積み重なれば世界はぐらついてしまうだろう。

 紫にとって葵は、人生のほんの僅かな時間、袖擦り合う程度の大人でしかないけれど。それでも関わる以上は、せめて誠実でありたい。


「菊乃様。――どうか、紫様の可能性を信じ、ありのままのお姿を受け止め、見守って差し上げることはできませんか? 大好きなお祖母様に信じて頂けることは、紫様にとって、何よりの力となるはずです」

「葵様……」


 堪えきれなくなったように、菊乃は、はらはらと涙を零す。女房たちも啜り泣く中、葵はそっと立ち上がると菊乃の横へ膝をつき、その背を優しく撫ぜた。布越しに触れた菊乃の身体は病的に細く、彼女が病み衰えている現実を突きつけてくる。


(……そうだ。『原作』通りなら、菊乃様は、もうすぐ――)


 菊乃の病について、『原作』では明確に病名までは記されていない。椿の夫だった東宮のときもそうだったが、『原作』で詳細を知ることができない病となると、いくら葵に『アーカイブ』があっても、打てる手は限られる。葵にあるのはあくまでも〝前世〟の記憶と知識の貯蔵だけで、聞き齧り、読み齧りの医学知識はあっても、医者のように診断が下せるわけでも、適切な治療を提供できるわけでもないからだ。

 特に令和の時代、病気になって医者へかかり、薬を処方してもらうことはあっても、その薬を自作する機会など皆無。某原始時代から始める科学クラフトマンガの知識で、抗生物質と解熱鎮痛剤を作れるのが、むしろ例外なのである。

 結果、こうしてあからさまに命の灯火が消えかかっている菊乃を前にしても、葵ができることはせいぜい――。


「菊乃様。どうか紫様のためにも、ゆっくり養生なさってくださいね。紫様にとって菊乃様は、もっとも身近でご自身を慈しんでくださる、とても大切な存在です。紫様の成長を、どうぞこの先も見守って差し上げねば……」

「えぇ。……えぇ、そうですね。本当に、仰るとおりです」


 墨染の衣で上品に目元を抑えた菊乃は、よく見れば紫と似たその相貌を、ひたと葵へ向けて。


「こうして葵様と巡り逢えましたのは、御仏のご加護に他なりません。ここまで親身に姫のことを思い、私どもを案じてくださる方と、まさかこのような山奥でお目にかかれるとは、夢にも思いませんでした」


 どれほど言葉を尽くしたところで、所詮は励ますことしかできない身には分不相応なほどの感謝を捧げてくれる。

〝この世界〟に生まれ落ちて、もう何度感じたか分からない『原作』への敗北感に胸を締め付けられながら、その胸の内を綺麗に隠し、葵は穏やかに菊乃へ微笑んだ。


「こうして出逢えたことも、ご縁ですもの。わたしとのお話で、菊乃様のお心が少しでも晴れ、心穏やかに紫様とお過ごし頂けるのなら、これ以上のことはございませんわ」

「勿体無い、お言葉です。思えば私は、残り少ない命を嘆き、せめて逝く前に姫を一人前の女人に育て上げねばと、焦っていたのかもしれません。葵様から頂戴した助言のとおり、これより先は紫と共にある時間を何より大切に、一日一日を過ごして参ります」

「はい、是非に。そのお時間はきっと、菊乃様と紫様、お二人にとってかけがえのない、宝物になるはずです」


 穏やかに頷き合う葵たちの間を、春の夜風が吹き抜けていく。……いつの間にか、随分と夜も更けてきた。


「紫様は、そろそろご就寝のお時間では? 眠られる前に、もう一度ご挨拶差し上げてもよろしいでしょうか?」

「願ってもないことにございます。――誰ぞ、姫と小納言をここへ」

「畏まりまして」


 襖の一番近くに座っていた女房が平伏し、静かに下がっていった。紫が待機していた室はそう離れていたわけではないようで、女房が下がってそう経たないうちに、ぱたぱたと簀を走る、可愛らしい足音が響いてくる。

 先ほどと違うのは、遠くから聞こえた「姫様、ご挨拶はとても大切なお作法ですよ!」という小納言らしき人の声掛けで、近くまで聞こえた足音がぴたりと止まり、ややあって、襖が静かに叩かれたことだ。


「失礼します、紫です。お呼びと伺い、参上いたしました」

「……っ、どうぞ、お入りなさい」


 菊乃の返事をしっかり聞いてから、ゆっくりと開けられた襖。襖を開けたのは小納言で、紫は小納言が襖を開け切るのをちゃんと待ってから、しずしずと入室してくる。きちんと葵からも菊乃からも下座になる位置を選んで腰を下ろした小さな姫君は、幼いながらも立派な礼をしてみせた。


「失礼いたします。葵さま、おばあさま、お呼びでしょうか」

「いらっしゃいませ、紫様。お上手なご挨拶ですよ。入室のお作法も、しっかり守れていましたね」

「――うん!」


 葵の言葉に顔を輝かせた紫は、次いで菊乃の顔をそっと窺って。


「おばあさま。ゆかり、ちゃんとできてた……?」

「――っ、えぇ、えぇ。立派でしたよ。これほどお見事にご挨拶できるなんて、本当に驚きました」

「やった!」


 無邪気に喜ぶ紫。その様を見守る菊乃は再び涙ぐみ、女房たちも皆、感無量を隠さない。


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