巡り逢ひて*其の七
結局のところ、葵は本当の意味で、この〝ちょっとした部分に違和感はあるけど、概ね平安時代〟な世界に適応できていないのだろう。身分があろうがなかろうが人は人、であれば人としての礼儀を尽くして当然という葵のスタンスは、この世界において、たぶん一般的ではないのだ。
(……まぁ、だからといってわたしを〝この世界〟に合わせようとは思わないけど)
仮にこの世界が、身分ある者は身分のない者を人として扱わず、打ち捨てておいても咎められない世相なのだとして、ならば傍若無人に振る舞おうとは思わない。身分のあるなしに関わらず、〝この世界〟の人々にも心があることを、これまで生きてきた中で知っているからだ。
心がある以上、身分など関係なく、人は人としか思えない。葵はいつだって、相手が誰であろうとも、一律で目の前の〝人〟を尊重しているだけ――。
そう。
それだけ、なのだが。
「葵様……孫娘にまでお優しいお言葉をくださり、感無量にございます。源中将の北の方様は、かの方のご寵愛を一身に受けるに相応しい人格者でいらっしゃると、風の噂に聞いてはおりましたが……所詮は都人の、上位の方々への阿りであろうと、話半分に聞いていた不見識を、どうかお許しくださいませ」
どうも、そう振る舞う度に、宮中における光の〝妻プレゼン〟効果もあってか、葵の評判と周囲からの好感度が、勝手にうなぎ登っている気がする。前世でよく読んでいた〝無自覚チート系主人公〟の常套句、「俺、また何かやっちゃいました?」が己の口から出てきそうな場面を、いったい何度経験しただろうか。
「どうか、そのように重くお受け止めにならないでください。わたしはただ、滞在先にいらした小さな姫君と、ほんの少しだけ、お言葉を交わしたに過ぎないのです。ありがたく思って頂けるようなことは、何一つ、しておりませんから」
取り敢えず、あんまり遜られて、かつ上げられすぎると、本気で身の置き所がなくなりそうなので、菊乃の気持ちをほぐすところから始めることにする。様子見のはずの軽いジャブ的に言葉を放ってみると、菊乃は食い気味に「いいえ」と返してきた。
「葵様には大したことでなくとも、私どもにとっては、この上なくありがたいことなのです。姫――紫の母はこの子がほんの赤子の頃に儚くなり、お父君である兵部卿宮様は、真剣にこの子のことを考えておいでとは思えず……病を得、老い先短い私のような者を頼みにするしかない紫が不憫で、思い悩むばかりの毎日でした」
「そう、だったのですね……」
「そのような日々では、紫に満足な教養を授けてやることも、身分に相応しい立ち居振る舞いを身につけさせることも、容易ではありません。この年頃の娘にしてはあまりに幼いと、葵様もお思いになられたのではありませんか?」
「菊乃様、それは――」
「年相応に振る舞うことも覚束ぬ不出来な娘に、随分と無礼をされましたのに……葵様は姫を咎めることもなく、鷹揚に受け止めてくださったばかりか、幼いこの子にも伝わるよう、平易な言葉で正しい挨拶の仕方を教え、礼儀の大切さについて諭してくださいました。――作法を学ぶにも熱心でなく、いつも聞いているのかいないのかも判然としない紫が、あれほど目を輝かせて聞き入り、あろうことか自発的に〝正しい挨拶〟を実践までしてみせるなんて、夢のようです」
「えぇと……」
「紫の先行きは未だ不安ではありますが、この子がこれほど立派に振る舞えるのだと知れて、ほんの少し、心の澱が取り除かれた心地にございます。そのように姫を導いてくださった葵様に、どうして感謝せず、いられましょうか……!」
つい先程まで上滑りなその場限りの会話をしていたとはとても思えない、怒涛のマシンガントーク。概ね『原作』情報で知っていることだけれど、いくら幼いとはいえ十歳前後の子どもの前で話すには、まぁまぁ際どい内容も含まれている。
葵は少し考え、菊乃へ「少々お待ちくださいね」と言い置いてから、紫へ優しく微笑みかけた。
「紫様。わたしは少々、お祖母様とお話ししたいことができました。お話が終わりましたらお呼びしますので、しばらくの間、別のお部屋で女房たちとお過ごし願えますか? もちろん、犬君や、他の女童たちを呼んでも構いませんよ」
「……犬君に、さっき葵さまから聞いたことを、お話ししても良い?」
「もちろんですとも。犬君にとっても大切なことですからね。しっかりお話しして、お互いに嫌な思いをさせたことを謝り合えば、きっとまた楽しく遊べますよ」
「――うん!」
ぱぁっと明るい顔になった紫はすっくと立ち上がり、「小納言、行こう!」と、襖の外で待っていた女房へ向かって一目散にかけていった。呼ばれた女房――おそらくは『原作』にも出てきた紫の乳母だろう――小納言は慌てて小さな姫を抱き留め、深々と一礼してから、紫を連れて下がっていく。
二人の足音が聞こえなくなったところで、葵は菊乃の方へ、膝でにじり寄った。
「図々しくも場を仕切るような振る舞いをしたこと、お詫び申し上げます。ですが、菊乃様。一つだけ申し上げますと、紫様の前で、ご本人や父君について、あまり悪く言ってはいけません。子どもは聞いていないようで、実は大人の話をよく聞いています。特に紫様は、ほんの少しお話ししただけのわたしでも舌を巻くほど、物覚えが優れておいでですから。言葉の裏など読み取れず、ただ言われたまま、ご自身を〝不出来〟だと思い込んでしまうかもしれません。紫様を思ってのお言葉が、紫様のお心に影を落とすなんて、これほど哀しいこともないでしょう」
「まさか、そんな……あの幼い子が、そんな風に思うなんて」
「いいえ、菊乃様。わたしは幼子を複数見て参りましたが、紫様は気質として素直で無邪気なだけで、むしろ同年代の方々よりずっと利発で、物事の捉え方もしっかりしておいでですよ。確かに京の高位貴族の間では、女人は感情を詳らかにせず、いかなるときも毅然としていることこそ高貴で大人びた振る舞いであるとされていますが、そう振る舞えないからといって紫様が真実幼いとは申せません」
椿と桔梗の母娘がすれ違いかけていたときにも思ったが、全てはこの世界における、幼児教育概念の欠如が悪い。〝概ね平安時代〟に幼児教育もクソもないという直球正論はひとまず見送って、兎にも角にも子どもが〝子ども〟として見られていない世界が、時代が悪い。
(仕方ないのは、分かるけど! 〝前世〟でも子どもが〝子ども〟として見られて扱われるようになったのって、近代以降って話だし。それまでは普通に〝小さい大人〟として、家庭や社会を維持する人員の一人に数えられてたわけだから、〝この世界〟でもそうあるべきと求められるのは、理屈では理解できるんだけども!)
菊乃が紫を〝幼い〟と称するのは、世間が理想とする〝大人の女人の振る舞い〟を、教えているにも拘らずできないと感じているからだ。大人の振る舞いができない、イコール〝幼い〟という、単純にして明快な図式が成立しているのだろうけれど、子どもの成長とはそう簡単に、一側面だけで測れるものではない。
葵は、〝前世〟で弟妹四人を、実質一人で育てた記憶を宿している。どうしてそうなったかは割愛するが、特に最初の弟の時は、前世の〝彼女〟自身、分からないことしかなかった。弟の預け先である保育園の先生たちに、どれほど相談に乗ってもらったことだろう。
先生たちに教えてもらい、〝彼女〟なりに色々調べて得た知識は今、『アーカイブ』となって葵を助けてくれている。
「紫様が感情の赴くままに振る舞われるのは、紫様のご気質として、ご自身の感じたことにとても素直でいらっしゃるからです。それは紫様の持って生まれたものですから、下手に抑え付けては紫様の健全な育ちを妨げかねません。菊乃様のもとでのびのびとお育ちになったのは、紫様にとって、何よりの僥倖なのですよ」
「そう……なの、ですか?」
「はい。作法の習得が不得手でいらしたのも、その素直なご気性ゆえ、自身が心から大切なことだと思わねば、学びに身が入らなかったからです。ゆえに、礼儀が大切な理由を説いたことで、お作法へ向き合う姿勢から、大きくお変わりになりました。――紫様の素直さは、そのように導いて差し上げれば、彼女を成長させる肥やしともなるでしょう」
前世の〝彼女〟が得た知見の一部を、言葉を選びつつ、葵は開示していく。




