175 長く白き雲の島
ニューゼーランディア部族連合国は、アルビオン連合王国の南海大陸領有宣言に脅威を覚えた現地在住の秋津人と有力部族長たちが共同して秋津皇国皇主に対して新海諸島を一つの国家として承認してくれるよう請願したことで成立した国家であった。
一応、名目上は独立国家ではあったが、その成立過程から秋津皇国の保護国と見ることも出来た。
しかし、秋津皇国がニューゼーランディア部族連合国の外交や軍事を掌握しているわけではない。西洋列強のような準植民地的な意味での保護国とは言えなかったのである。
どちらかといえば、中華式の朝貢冊封関係に近いかもしれない。新海諸島の部族長たちの地位を秋津皇国皇主が保障するという意味では、まさしく歴代中華帝国の皇帝が周辺諸国に行っていたやり方と同様であったからだ。
ただし、ニューゼーランディア部族連合国として承認された後も、新海諸島では部族同士の抗争が続いていた。
ニューゼーランディアの現地島民のことを、彼らがこの島々を「アオテアロア(長く白き雲)」と呼んでいたことから「アオテアロア人」、あるいは白い雲を意味する「アオテア」の部分だけを取って「アオテア人」などと呼称するが、アオテアロア人は長年にわたる戦乱と秋津人・西洋人が持ち込んだ疫病によってその人口を急激に減らしつつあった。
八〇年ほど前に西洋人探検家が調査した際には五〇万人と推定された人口も、今では十五万人ほどに激減しているという。
こうした新海諸島の現状を憂えた有力部族長たちの一部が、かつて皇国に国家として承認されることで西洋列強から諸島を守ろうとしたように、皇国の権威と軍事力によって戦乱を終息させようと考えたのである。
もちろん、皇国という後ろ盾を得て他の部族長に対して優位に立とうとする打算も、彼らの中には存在していた。
皇国の側も新海諸島を併合して新たな植民地を獲得したいという思惑を秘めつつ、会談は開始されたのである。
会談初日である六月二十七日、皇国側はニューゼーランディア部族連合国側に対して一つの条約案を提示した。
それは、次の三条からなるものであった。
一、新海諸島各部族長はそのすべての権利を秋津皇国皇主に全面的に譲渡すること。
一、アオテア人の所有する土地・森林・水産資源などは秋津皇国皇主によって完全に保障されること、及びアオテア人が土地を譲渡したいと希望する場合には秋津皇国皇主に先買権があること。
一、アテオア人には秋津皇国国民としての権利が与えられること。
明らかに保護国化ないし併合を目的とした条文であったが、一方の新海諸島部族長たちから見れば自らの地位と権利を秋津皇国皇主が保障してくれるようにも受け取れる内容であった。
実際、結城家は南洋植民地を統治するにあたり、現地部族たちがそれまで築き上げてきた社会を植民地の統治機構に組み込んでいる。それと同じことを、新海諸島でも目指そうとしていたのである。
そして、アオテア人から土地を買い取る権利を手に入れることで、秋津人の入植を進めることが出来る。
アオテア人の人口減少という事実から考えれば、将来的には秋津人入植者の人口の方が上回り、新海諸島の社会における秋津人の影響力が強まることになる。
こうした現象は、多数の秋津人移民が渡っていたペレ王国にてすでに発生していた。
その再現を、皇国側は狙っていたといえる。
ニューゼーランディア側は秋津側提案に対する部族長同士の協議などが必要である関係上、第二回会談は六月三十日に行われることとなった。
◇◇◇
「早急な新海諸島併合は、難しいだろうな」
知事公館に引き上げた景紀は、宵や冬花、菖蒲たちの前でそう言った。
「そうでしょうか?」
疑問というよりも、反発と反論の口調で口を開いたのは風間菖蒲であった。宵の警護役として今回の使節団に随行している忍の少女は、いささかきつい口調で続けた。
「宵姫様のご発案により、我が結城家は南泰平洋に進出する機会を得ました。この好機を、若君は逃すのですか?」
そんな菖蒲の様子を、景紀は内心で面白がっていた。
彼女の自身と冬花に対する反発の感情を、景紀は知っている。では菖蒲が護衛につくことになった宵はどうかと言えば、どうやら主君として仕え甲斐のある姫君だと思っているらしい。
桜浜までの船の中で、景紀は宵から内地での生活の様子などを聞いていた。自身が不在中の菖蒲の言動についても宵から報告を受けている。
恐らくこの忍の少女は、宵の政治的成果を夫である景紀が無にしようとしていることが気に喰わないのだろう。
「お前がそういう政治的発言をするなんて珍しいな」
さも意外そうに景紀が言えば、からかわれたと思ったのか、菖蒲は少しだけむっとした表情を浮かべた。
政治的中立を心掛けているはずの風間菖蒲が、明らかに宵を支持するような発言をしている。宵が自分自身の家臣を得られたことに、景紀はどこか誇らしい気持ちであった。
「私は若君の不在中の姫君のご活躍を間近で見ておりました。姫君は次期当主正室として相応しい政治的見識をお持ちです」
だから内地にいなかった景紀が宵の政治的成果を無にするようなことをするな。
そんな内心が聞こえてきそうな声音であった。
菖蒲は菖蒲なりに宵を仕えるに足る主君と見ているようだが、その主君の内心まで推し量ることは出来ていないようだ。
宵は本心では皇国の南泰平洋進出を他の列強諸国、特にヴィンランド合衆国との軋轢を深めるだけであるとして懸念している。それを、菖蒲は理解していない。
菖蒲は景紀と冬花への反発があるあまり、宵という仕えるべき人物の登場に安心して宵個人を理解することを怠っているのかもしれない。
未だ彼女は、景紀・宵・冬花の三人の関係を掴み切れていないようであった。
「今の戦乱状態にある新海諸島を平定するとしたら、最低でも三個師団は必要だぞ?」
この場にいる四人の中で最も軍事的知識に乏しい菖蒲は、景紀の言葉を十分に理解出来ていないようであった。
冬花は景紀と共に従軍した経験があるので、景紀の三個師団発言にかすかに渋い顔を見せている。
そして、徴傭船船員問題に取り組んでいた宵は、景紀の発言を完全に理解していた。
「今の皇国に、南半球に三個師団を展開させるだけの余力はありません」
景紀の言葉を引き継ぐように、宵が言った。
「正直、必要な船舶量を考えただけでも頭が痛くなりそうです」
景紀と宵はちらりと互いに目配せをし合った。景紀の唇がかすかに吊り上がるのを見て、宵は続ける。
「内地からここまで約二週間。さらに新海諸島を目指すとすれば、三週間は優にかかるでしょう。内地から比較的近い陽鮮半島・満洲に兵力を展開するだけでも国力に相当な負担をかけたのですから、新海諸島を軍事的に完全に平定するのは、非常な困難が予想されるでしょう」
そこで今度は宵が景紀に向かって小さく頷いてみせた。
「それに、今は対斉戦役で消耗した国力を回復すべき時だ」
宵からの頷きを受けて、今度は景紀が説明した。彼は、船の中で宵から徴傭船問題について詳細を聞いていたし、宵が後学のためにと複写した軍監本部長・川上荘吉少将の建白書を船中で読み込んでいた。
「結城家が動かせる騎兵第一旅団も第十四師団も、再編の真っ最中だろう。動かせる兵力が、そもそもないんだ。現時点で確実に併合出来るのは、南瀛諸島止まりだな。あそこは新海諸島ほど混沌としていない」
それでも、南瀛諸島の領有宣言を出しただけで、未だ結城家は南瀛諸島の直接的な植民地統治を始めるには至っていない。
ひとまず諸外国の承認を得ることを優先した結果であり、植民地化に関しては国内の政治情勢や領軍の再編などが終わってから具体的な政策が進むことになるだろう。
それに、ルーシー帝国が西シビルア地方で軍の動きを活発化させ、さらにルーシー帝国-マフムート朝間の緊張も高まっている現在の国際情勢では、当面、皇国は北方のルーシー帝国に備える必要がある。
なおさら、新海諸島への三個師団派遣というのは現実的ではなかった。
「俺たちが今の時点で目指すべきは、新海諸島の領有を西洋列強に認めさせることだ。そのための既成事実として、今日提示した条約の締結は必須だろう。だが、実際に大洋州総督府を設置して秋津人の官吏が乗り込んでいって、新海諸島の統治を始めるのはもう少し先にすべきだろうよ」
正直、景紀自身の意見としては南瀛・新海両諸島の併合は時期尚早だと思っていた。
結城家による南泰平洋進出を促進する切っ掛けを作った宵もまた、性急な南泰平洋進出には懸念を抱いている。
宵が南泰平洋進出を景紀の父・景忠に提言したのは、あくまでも景忠公の政治的指導力の低下を糊塗するためであり、そうでなければあえて対斉戦役中に戦局にまったく寄与しない南泰平洋進出など言い出さなかった。
この点については、桜浜へ向かう船中で二人で話し合い、意見の一致を見ている。
しかし、結城家としては進出を急ぐ理由がある。今次対斉戦役で大陸利権の請求権を放棄してしまった以上、家臣団を納得させるために新たな“封土”を得る必要があったのだ。
宵は土地への執着が先行して南瀛・新海両諸島の価値を十分に検討していない、と結城家の姿勢を批判していたが、景紀もまったくその通りだと思っている。
また皇国という国家単位で見た場合、三国干渉を受けた以上、これ以上の列強による干渉が起こる前に南泰平洋進出の既成事実を作っておきたいという理由もあった。
政治的・外交的な要因から南泰平洋進出が進められているだけで、財政的・経済的な検討はなおざりにされている感が強かった。
景紀は、政治的・外交的成果としての新海諸島併合と、それによる結城家の財政的・経済的負担をいかに回避するかという、二律背反な問題を次期当主として解決する必要性に迫られているのである。
「つまり、若様は中華方式で臨まれるわけですか?」
ここで初めて、冬花が口を開いた。
どこかとぼけたような口調に聞こえたのは、菖蒲を除く三人の間で今回の会談へ臨む方針を決めていたからだろう。
「中華方式だと、少し弱いな」
秋津皇国皇主が新海諸島の部族長たちの地位を保障するという、朝貢冊封関係のような外交関係の構築では、ニューゼーランディア部族連合国を国家として承認しているだけの現状とあまり変わらない。
それではあえて会談を行う必要もないし、景紀が次期当主として成果を挙げることも出来ない。
「宵、お前の意見はどうだ?」
極力宵の意見を尊重しようとしていることが判る柔らかい口調で、景紀は問いかけた。
「少なくとも、景紀様は新海諸島を軍事力で平定、併合するのには反対しておられるわけですね?」
「ああ」
予定調和的な景紀の返答を確認した宵は、はっきりとした口調で進言した。
「でしたらば、問題ありません。ペレ王国方式が使えます」
【皇国側提示の条約案】
モデルは、ワイタンギ条約。
ニュージーランドは1835年、英駐在事務官ジェイムズ・バズビーと34名の部族長がイギリス国王へ請願することでニュージーランド部族連合国という独立国家として承認されました。
しかしイギリスはフランスの脅威や現地イギリス人の統制の必要性などから、いったんは独立を承認したニュージーランドを植民地化することを目指します。
そこでイギリス側が現地マオリ族に提示した条約が、ワイタンギ条約です。
作中にある皇国側提示の条約案は、ほとんどそのまま史実ワイタンギ条約を参考にしました。
そして、史実ワイタンギ条約の内容も作中と同じくどちらにとっても都合良く解釈出来る内容であり、さらにあえてマオリ族側を誤解させるような表現も用いていました。
たとえば第一条にある「すべての権利」、つまり主権の文言はマオリ族にまったく馴染みのない「カワナカンダ」という表現が使われており、これは英語の「governor」をマオリ式に発音した「カワナ」を名詞形に改めた造語でした。これは、マオリ側には理解出来ない表現だったとされています。
一方、第二条ではあえて首長の権利を意味するマオリ語の「ランガティラタンガ」を使い、あたかもイギリスがこれまで通りマオリの各首長の権利を尊重するかのように見せかけていました。
結果、ワイタンギ条約はマオリ首長512名の署名の下、1840年に成立しました。
しかし当然、マオリ族を騙すかのような条約は今日に至ってもその正統性が議論される結果となっています。
もちろん、当時ですらこの条約に納得していないマオリ首長たちもおり、1858年、有力首長テフェロフェロをマオリ王に推戴するマオリ王擁立運動が起こり、やがてはイギリスへの抵抗運動となって1860年、マオリ戦争が起こります。両者の間で和平が成立したのは1881年であり、マオリ王は現在、七代目を数えています。