ホームレス
都会にあるとある公園。そこは夜には人気のない場所である。だが、つい先日から、ここには一人の男が住んでいた。いや、住んでいたという言い方は適切ではない。正確には住む場所がなくなって公園にいることを強いられている、いわゆるホームレスというやつであった。
「寝るかぁ」
彼の名前は金入求。数か月前に会社が倒産してからしばらくの間は貯金で生活していたのだが、それもすぐに底をつき、住んでいたマンションからも追い出される始末だ。今では日雇いのバイトで食いつなぐ毎日である。だが、最近ではこの不景気でバイト先すら見つからず、残ったお金もせいぜいワンコイン程度。食い繋げてもせいぜい一週間がいいところであった。何も食べずに生活したとして、おそらく一か月は持たないだろう。雑草でも食べれば話は別だろうが。
「くそっ、こんなはずじゃなかった」
ベンチの上に横になった彼は呟く。彼の勤めていた企業は一時はテレビで取り上げられるほどの大企業だったはずだった。しかし、それはあくまで偽りの姿で、実は損失を上の人間がひた隠しにしていただけだった。とはいえ、途中で首を切られなかっただけまだ彼はマシなほうだ。彼の見てきた中にはリストラにあっていた人間も少なからず、というかかなりの人数いたからである。結局のところ、そこからさまざまな紆余曲折を経て損失が明るみに出て倒産することになったわけだが、今思えばリストラにあっている人間がいる、という事実があった時点で会社を辞めればよかったのかもしれない。辞めるとまではいかないまでも、別の就職先くらいは探しておいたほうがよかったのかもしれない。あくまで結果論でしかないが。
「おじさん、こんばんは!」
そんなことを考えていたとき、ふと上から声がした。閉じかけた目を開けると、そこにいたのは小学生くらいの女の子だった。黒いコートに白いワンピース姿の彼女は、年の割には大人びて見えた。
「……お嬢ちゃん、こんな時間に外にいると危ないよ? 早く帰りなさい。じゃないとおじさんが君のこと襲っちゃうぞ?」
起き上がって両手を熊の手にして襲い掛かるしぐさをする金入。
「おじさん、何か困ってることあるんじゃないですか?」
しかし女の子は金入の発言を全スルーしてこう聞いてきた。
「……それは、見りゃ分かるだろ。こんなところで寝てるような奴に悩みがなかったら逆にびっくりだよ」
気勢をそがれた金入はとりあえず素直に答える。
「あはは、それもそうですね。でも、もしこの状況をひっくり返せるようなことが起こるなら乗ってみたいと思いませんか?」
「そんな夢のような話があるっていうならなー」
真面目に取り合わない金入。それもそうだろう。彼はそこら中で社会の闇を見てきている。そんな夢のような話があるのならもっと早くに出会っていてもおかしくない。
「それじゃあ、これ。受け取ってください。おじさんにはこれを受け取る資格があります」
すると、女の子は名刺を差し出してきた。こんなに小さいのに名刺を持っているなんて奇妙な女の子だ、と思いながらも、とりあえず名刺を受け取る。
「俺今名刺持ってないんだけど……」
「ああ、気にしないでください。そこには連絡先くらいしか書いてないので。もしあなたが今の現状を脱したい、と思うなら、そこに連絡ください。ただし、チャンスは一回しかないので、慎重に考えてくださいね。それでは」
「あ、おい、ちょ……」
それだけ言って立ち去ってしまった女の子を追いかけようとすると、すでにそこには女の子の姿はなかった。
「いったい何だったんだ……?」
金入は首をかしげるだけだった。
次の日、金入は夢だったのかと思えるような昨日の奇妙な出来事が現実だと知ることになる。それは、その辺に置いておいて飛ばされてもおかしくないはずの名刺が、彼のズボンのポケットの中に入っていたからである。
(あなたの変身願望を現実に 淡口美月)
裏面には彼女の言うとおり、確かに電話番号らしきものが印刷されてあった。
「なんか怖いな。とりあえずごみ箱に捨ててくるか……」
金入は少し不気味に感じ、それを公園の燃えるごみ、と書かれたゴミ箱に捨ててきて、バイトを探しに行った。しかし、結局この日も仕事が見つからないまま帰ってくることとなる。彼はもう40代近い。そんな人間をいまさら雇ってくれるところ、というのもなかなか現実には存在しないのが現状だ。
「……とりあえず今日は寝るか。明日はきっと見つかるさ。そう信じよう。くそっ、昔ならもっと金もあったし、贅沢もできたっていうのに」
彼は人気がなくなってからの特等席であるベンチの上に横になると、夢の中の世界へと誘われていった。
しかし、金入は今度は昨日以上の恐怖を覚えることになる。
「……な、何でこれがここにあるんだよ!」
朝起きた彼はポケットに固いものが入っているような感触を覚えて目を覚ましたのだが、それを取り出してみてびっくり、なんと昨日捨てたはずのあの名刺だったのである。
「ど、どうなってるんだ……?」
怖くなった彼は、バイト探しに隣町まで行ったついでにその隣町のスーパーの中にあるゴミ箱にそれを捨ててから帰ってきた。もちろん今日もバイトの収穫はなしである。
「これで大丈夫だろう。ようやくこれで寝られるよ……」
彼はお気に入りのベンチの上に体を横たわらせると、そのまま眠りについた。
ところが次の日、
「うわぁあ!」
金入はまたもや悲鳴を上げてしまった。理由は簡単である。
「……な、何でだよ」
捨ててきたはずの名刺が、また彼のポケットの中に入っていたのだ。前の公園に捨てたのはまだ誰かが捨てたのを拾ってきたという説明がついたが、今回はそうもいかない。何せ彼が捨ててきたのは隣町のスーパーのごみ箱である。まさか、彼を追いかけているストーカーがいるとも思えないし、そもそも彼はホームレスの身である。何をどう考えても追いかけられる要素など微塵もなかった。
「何だ、何なんだよこれ……。いったいどうすれば……」
そこで彼はひらめく。そうだ、燃やせばいいじゃないか。いくらなんでも灰になったものは元には戻らないだろう。そこで、彼はお寺に行ってこの名刺を燃やしてもらうように頼みに行った。バイト探しが一日無駄にはなったが、これでこの名刺から逃れられると思えば安いものだ。
「私たちにお任せください。この名刺には何か悪いものが取りついているので、入念に供養いたします」
「そうしていただけると助かります」
知り合いの伝で住職をあたれたのが救いだった。でもなければ高額なお金を請求されていたからである。近所に住んでいた友人には本当に感謝しなくては、と心から思いながら、金入はこの日眠りについた。
だが、その考えが甘かった、と再び金入は思い知らされることになる。それは次の日、びゅうびゅうと強い風の吹く日のことだった。
「ど、どうしてだよ……?」
お寺にまで持って行って、燃やしたところまでしっかり見てから帰ったのにもかかわらず、やはりこの日も彼のポケットの中に名刺が入っていた。
「……何だよこれ」
こうなると別の可能性を考えるしかない。どうもこの名刺に原因があるわけではなさそうである。
「……とりあえず電話してみるか」
金入はもったいないと思いつつも、10円を使って公衆電話で電話を掛けた。その電話の主は、数回のコールで電話に出た。
「あ、おじさん! 何か変身したいものが見つかったんですか?」
「……何か変身したいものが見つかったんですか? じゃねーよ! お前だろ俺のポケットの中に毎日自分の名刺突っ込んでったの!」
「……え、えっ? な、ナンノコトヤラ……」
あからさまに焦っている様子の電話口の女の子。
「おい棒読みだぞやっぱ犯人てめーじゃねーか! 返せ、俺の貴重な一日を返しやがれ!」
「ま、まあまあ、そんなに怒ってばっかりだといいことないですよ?」
「お前が正論言うんじゃねー!」
こういう時、正しいことを言われるとやたらとムカつくものである。
「まあまあ、それじゃあそっちに……」
そこで電話が切れた。だが、何を言いたいのかは彼も大体予想がついた。
「……どうせこっちに来るとかそんなんだろ」
「はい、その通りです!」
「のわぁ!」
独り言をつぶやいたはずなのに、その返事は電話ボックスから出た直後、真正面から帰ってきた。いったいいつここに来たのだろう。
「で、名刺の文言は読んでいただけました?」
「一応な。まあ信用できねーから捨ててきたわけだが」
「だと思って、ジャーン、今日は100円を持ってきました!」
女の子は100円硬貨を取り出す。黒髪のロングが風に振り回されていた。
「……それが?」
「今からこれを500円硬貨にします!」
「……冗談も休み休み言えよ、そんなこと無理に決まってんだろ?」
呆れた様子で頭を抱える金入。そんなことができるのなら今頃彼は何の苦労もせずに億万長者になっていたはずである。
「まあまあ、不可能を可能にすること、それすなわち錬金術の基本、っていうことです。じゃあいきますよ。せーのっ、えいっ!」
「錬金術ってお前な……ってええ!」
ため息をつきながら返そうとした彼の言葉は、実際に100円が500円に変わったことでどこかへ吹き飛んでしまった。
「い、いやいや待て待て! 今の何だよ!」
「一種の魔法みたいなものですよ。錬金術っていうのも間違いではないかもしれませんが、私のは別に金に限ったことではないので……」
「ちょっと待て、じゃあそれは自分が望んだものを何でも好きなものにできるってことか?」
「まー、そうですねー。さっきみたいなこともできますし、あなた自身の性格を変えることだってできます。いわゆる何でも屋の変身バージョンみたいな感じですかね」
「な、何てこった……」
金入は頭を抱える。
(俺はこんなチャンスを棒に振ろうとしていたのか、なんてバカなんだろう……)
そこまでいけば、もう彼が考えることは決まっていた。
「じゃあ、俺も何でも頼めるってことでいいんだよな?」
「それはもちろん! おじさんは私に選ばれた変身する権利のある人ですからね!」
女の子の顔が今までになく輝く。
「それじゃあね……」
金入はポケットの中の一円玉を取り出した。
「……これ、一円玉ですよね?」
女の子は首をかしげる。
「ああ。これを数えきれないくらいの札束にしてほしいんだ。君ならそれも簡単にできるんだろう?」
「え、ええ。まあできるかできないかと聞かれたらできますけど……、ホントにそれでいいんですか?」
女の子は浮かない顔だ。
「そりゃあ、俺が今一番欲しいものが何だか分かるか? 金だよ金! 金さえあればやりたかったことが何でもできる! 欲しかったスポーツカーだって買えるし、金目当てかもしれないが、彼女だってできるだろう? 世の中金がすべてなんだよ!」
「……確かに正論ですけど」
女の子は複雑そうな顔をする。
「だから、これを札束に変えろ! そうすればお前が俺に付きまとうこともなくなるし、俺は金持ちになれる! 一石二鳥じゃねーか!」
金入の目が血走る。
「……まあいいですけど。それじゃあいきますね」
女の子は仕方なさそうに人差し指を天高く上げる。
「せーのっ、えいっ!」
すると、一円玉はとたんに数えきれないくらいの札束となって、
「おおっ! ……ってああっ!」
宙を舞った。それはそうだ。髪の毛が振り回されるほどの風の中、札束がそのままその場所にとどまっているはずもない。あっという間に四方八方に飛んで行ってしまった。残ったのは急いで金入が引っ掴んだ数枚の一万円札だけ。残りはもう影も形も見えなくなってしまっていた。
「そ、そんな……」
「だから言ったのに。それじゃあ、私はもう行きますね。あなたの願いはもう叶えたので、私もあなたにもう用はありませんので」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! もう一度、もう一度だけ!」
すると、女の子は金入に冷たい視線を向け、こう言い放った。
「……最初に言ったでしょう、チャンスは一度だけだって。そのチャンスを棒に振ったのはあなたです。私はそれでいいのか、とちゃんと聞きましたからね。あなたも私から離れたかったようですし、ちょうどいいでしょう?」
すたすたと歩き出す女の子。先ほどまでの明るい口調などどこにもなく、そこにあったのはただの見知らぬ人間と交わすただ一瞬の会話だけだった。
「そ、そんな、ま、待ってくれ……」
後には数枚の紙切れを手に膝をついて泣くだけの哀れな男性の姿しかなかった。
まあ、このおじさんはそれだけお金に困っていたということなんでしょうけど、それでももう少し考えようはあった気がしますよね。例えば就職したい、とか、倒産した会社をまた復活させたい、とか。……えっ、何で私がこのおじさんの会社が倒産したことを知ってるかって? 顧客のリサーチを事前に行っておくのも大事な仕事のうちの一つなのですよ? というわけで、もしあなたが困ったときにはあなたの目の前にいつでも現れますのでご心配なく。ただし、お願い事はよく考えてくださいね? それでは、また会う日まで。