第一回
初めまして。夢田浪洋です。
薄い安布団から朝日がじわじわと浸透してくるのを感じながら、山田英吉は布団の中で目を閉じ、赤ん坊のように丸まってじっと外から聞こえてくる社会の足音に耳を傾けていた。往来を走る車や電車の音は勿論であるが、コツコツと鳴る靴の集団音も、神経を極限まで研ぎ澄ますと本当に聞こえてきそうなくらい、英吉はジッと耳を澄ませていた。英吉はしばらくそれらの音を聞くことに努めた。
そしてそれが一段落つくと、英吉は布団を右足で蹴っ飛ばして布団から身を起こした。そして、部屋の中を意味も無く見渡し始めた。古びたボンボン時計がふすまの上の壁の真ん中辺りに釘で打ち付けてある。振り子が絶えずブラブラ揺れている。時刻は九時半を回ろうとしていた。彼の右手側には天井すれすれの高さの本棚がある。本がたくさん入っている。読みかけの本が四、五冊畳の上に乱雑している。彼の頭側には置き机と卓上ランプとラジオと、薄く、そして黄ばんだカーテンに隠された窓がある。ここから日がいつも入ってくるため、英吉は朝日が上がったのが分かると先ほどのように布団を頭まで覆って丸まる癖がある。そして彼の左手側には押し入れがある。そして部屋の隅の方にほこりを被った、かつての威厳も消え失せた卒業証書が、筒からだらしなくベロンとはみ出して倒れていた。
一通り部屋の中を見渡すと英吉は昨日の夜寝る前と何ら変化がおこっていないことに安堵した。そして重い体を起こし、パジャマから私服に着替えて長髪で癖のある髪をむやみにかき回しながら一階へ降りた。
英吉は安下宿に住んでいる。上京時から今日まで住み続けている。七十代くらいの老婆が一人できりもりしている。商売をする気はあまりないらしく、年金だけだと心細いため、小遣い稼ぎ程度でやっているだけだと英吉は移り住んだ当時、聞いた記憶がある。それもそのはずで、一ヶ月分の家賃が二万円である。相場を遙かに下回っているであろう。が、英吉は詳しいことは何も知らぬ。だが、相場よりも遙かに安いことはそんな事情も知らぬ英吉でも察せれた。二万というはした金で果たして年金の足しになるのかどうか、疑問に思うことがあるが、考えても仕方がないため、今ではどうでも良くなっている。ただ、安いことに感謝するばかりである。
この安下宿には英吉の他に二人の男が住んでいる。一人は老婆の息子で、名は確か長谷川孝介と言った。今年で四十後半だった気がする。もう一人は英吉の同級生で、同じく上京時からこの安下宿に住んでいる、友人の野山大助である。野山とは生まれも育ちも違うが、たまたま同じ下宿で、しかも、たまたま同じ大学だったため、自然の成り行きで親しくなった。
階段をおりてすぐ右側にあるふすまを開けると、そこは居間である。ここでいつも婆さんの作ってくれた飯を食う。作ってくれと図々しく頼んだ覚えはないから婆さんのご厚意だと思って毎日ありがたく頂いている。だが、礼は言ったことが無い。そして英吉は毎朝寝坊するため、飯を食う時間は極めて遅い。十時を回る少し前か、十時過ぎに食うのが日常である。そんな英吉の生活習慣を学習してか、毎朝冷めたご飯ではなく、まだ温かい美味そうなご飯が食べられるように婆さんが一々また温めなおしてくれる。これにも礼を言ったことが無い。
いつも彼一人で食うかというと、そうではない。もう一人いる。それが、野山である。野山も英吉に負けず劣らずで、寝坊助である。大学におった頃はよく二人揃って遅刻していた。これはもう癖だと諦めて二人とも治すことはしない。それにもう治らないだろうとも思っている。




