第8話 知らせ
婚約の知らせは、三通の手紙になった。
一通目。マルタ・ベルンシュタイン宛て。辺境の住所を書きかけて、止めた。マルタはもう王都にいる。指が勝手に覚えている住所を消して、書き直した。王都南区の仕立て屋宛て。
二通目。辺境伯領孤児院、フィーナ宛て。この手紙は漢字に振り仮名をつけた。「こんやくしました」。漢字だと「婚約」。フィーナにはまだ難しいかもしれない。
三通目。辺境伯ダリウス・フォン・シュテルン宛て。
三通目を書く時、ペンが長く止まった。鉄インクが、ペン先の上で微かに乾きかけている。何を書けばいいのか。報告する義務はない。もう離縁した相手だ。でも、知らせないのは隠すことだ。隠すほどのことではない。そうじゃない。隠したくないのだ。この人にはちゃんと伝えたい。理由はうまく言えない。
結局、簡潔に書いた。薬学ギルド副長ルーファス・グランツと婚約したこと。秋に式を挙げること。それだけ。
鉄インクの、少し赤みがかった黒。丸い字。署名はセレスティーヌ・フローレンス。もう少ししたら、この名前が変わる。変わるけれど、消えるのではない。フローレンス式は、ギルドの台帳に残り続ける。
◇◇◇
最初に返事が届いたのは、マルタからだった。出してから二日。返事が速い。
封を開けると、紙が二枚入っていた。一枚目は手紙。マルタの几帳面な字。一文字ずつが均等な間隔で並んでいて、定規で測ったように真っ直ぐだ。
「セレスティーヌ様。差し出がましいことを申しますが、おめでとうございます」
差し出がましいことを申しますが、おめでとうございます。この人は祝辞にまで口癖をつける。おかしくて、目尻が下がった。
「ルーファス様は、お茶を淹れてくださる方だと伺っております。それだけで、安心いたしました」
お茶を淹れてくれる人。マルタにとって、それが人を信頼する基準なのかもしれない。三十年間、毎朝茶を淹れ続けてきた人の。淹れる側も、もらう側もわかる人。
「式の日にはお伺いいたします。リーゼさんにもお伝えください。当日の身支度は、差し出がましいことながら、私にお任せいただければ」
身支度をマルタに。辺境伯邸で五年間、毎朝身支度を整えてくれた手。今度は式の日に。
二枚目は、小さな布の切れ端だった。白い絹。リボンの幅に裁断されている。端が丁寧にかがり縫いされていた。
「式の日に、お使いいただければ」
マルタが縫ったのだ。まだ下手だと言っていた針仕事で、一針一針。
布を手に取った。絹の滑らかな感触。指の腹に吸いつくような、冷たくて柔らかい手触り。端のかがり縫いが、ほんの少しだけ不揃いだった。でも、丁寧だった。不揃いなのは技術のせいで、気持ちのせいではない。
鼻に近づけた。新しい絹の、かすかに甘い匂い。その奥に、糸くずと針箱の匂い。仕立て屋の匂い。マルタの新しい日常の匂い。
◇◇◇
フィーナからの返事は、三日後に届いた。
封筒の表書きが大きな字で「セレスへ」。インクが少し滲んでいる。急いで書いたのだろう。
「セレス、けっこんするの? おじさんと?」
おじさん。ルーファスのことだ。
「おめでとう。けっこんしたら、セレスはなんてよばれるの。おじさんのなまえになるの?」
子供の質問は、時々核心を突く。名前が変わることの意味を、八歳の子供が正面から聞いてくる。
「セレスはセレスだよ。なまえがかわっても」
そう書いてあった。フィーナの字で。左利き特有の左に傾いた字で。インクの染みが一つ、「セレス」の「ス」の横についていた。書きながら手を止めた痕跡。考えてから、書いたのだ。
便箋を膝の上に置いた。目の奥が熱くなる。
名前が変わっても、セレスはセレス。
八歳の子供が、一番大事なところを知っている。
◇◇◇
ダリウスからの返事は、一週間後だった。
公式の封筒ではなく、私的な便箋。角張った大きな字。行間がまた歪んでいる。紙が少し波打っている。力を入れすぎたのだ。ペンの跡が裏面に凹凸を作っている。
「おめでとう」
一行だけだった。
一行。たった一行で。五年分の。
いや。この人はいつもこうだ。言葉が足りない人。でも今回は、足りないのではなく、余計なものを削ったのだとわかった。便箋の右端に小さな染みがあった。インクを拭った跡。何度か書き直して、結局この一行に絞ったのだ。
「おめでとう」。五文字。この人がこの五文字を書くのに、どれだけの感情を飲み込んだだろう。後悔も、安堵も、寂しさも、全部飲み込んで、残ったのがこの一行。
泣きそうになった。この人が不器用に「おめでとう」と書いたことが、五年間のどの言葉よりも、届いた。いつもこうだ。いつもこうなのに、いつも届く。
「ありがとうございます」と、返事は書かなかった。
代わりに、五冊目のノートにダリウスの手紙を挟んだ。マルタの手紙の隣に。フィーナの手紙の隣に。
ノートが少しずつ厚くなっていく。手紙と、布と、押し花と、記録。紙の重みが、革の表紙を少しだけ膨らませている。閉じた時に、少しだけ浮く。中身が増えた証拠。
一冊目は薄かった。業務記録だけだったから。五冊目は厚い。仕事の記録だけではなく、人の温度が挟まっているから。マルタの絹。フィーナのインクの染み。ダリウスの便箋の凹凸。全部、それぞれの手の温度が残っている。




