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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第7話 月見草ではなく


 ルーファスが改まった顔をしている時は、眉の間に縦皺が寄る。


 今日がそうだった。朝、鑑定室に入ると、ルーファスは作業台の前に立っていた。茶は持っていない。二つの湯呑みは棚の上に置かれたまま。朝の光が窓から斜めに差し込んで、薬草の瓶と乳鉢を照らしている。いつもの鑑定室だ。でも空気が違う。薬草と鉄インクの匂いの奥に、微かに石鹸の匂いが混じっている。ルーファスの白衣がいつもよりぴしっとしていた。


「おはようございます」


「……ああ。おはよう」


 返事が遅い。一拍。ルーファスの「おはよう」は普段、私が言い終わる前に重なる。今日はその一拍の間に、何かが詰まっている。


「茶、淹れましょうか」


「いや。座ってくれ」


 座った。椅子の座面が冷たい。朝はまだ気温が低い。ルーファスは立ったままだった。窓から入る光が白衣の肩に落ちている。


 沈黙が数秒。ルーファスの右手が白衣のポケットに入って、出て、また入った。何かを握っている。ポケットの布が、中身の形に膨らんでいる。


「セレスティーヌ」


「はい」


「前に、月見草の苗のことを言った」


 覚えている。馬車の中で。来年も、再来年も、その先も、と。鉢の上で指が触れた日のこと。あの時の指先の温度を、まだ手が覚えている。


「あれは」


 ルーファスの声が、普段より低い。いつもの無愛想さとは質が違う低さ。慎重に一音ずつ選んでいる。喉の奥で言葉を転がしてから、一つずつ口に出しているような。


「あれは、苗の話ではなかった」


「知っています」


「知っていて、受けてくれた」


「ええ」


「だから」


 ポケットから手が出た。握っていたのは、小さな箱。木の箱。掌に収まるサイズ。木目が細かい。蓋の噛み合わせが丁寧で、開ける時に小さな、乾いた音がする種類の箱。


「今度は、月見草ではなく」


 箱を開けた。


 中には指輪が入っていた。銀の細い輪。装飾は控えめで、表面に小さな模様が彫られている。よく見ると、月見草の花弁だった。五枚の花弁が、輪の外側にぐるりと続いている。


「……一緒にいたい」


 言った。


 たった一言。飾りがない。論理の組み立ても、学術用語も、「合理的」も何もない。ただ、一言。この人が「合理的」の鎧を全部脱いで、最後に残った言葉。


◇◇◇


 鎖骨のあたりが熱い。


 振動。低い振動が、肋骨の裏側を伝っていく。耳が熱い。全身の温度が二度くらい上がった気がする。


 ルーファスの手が震えていた。箱を持つ指が、白い。力が入りすぎて血の気が引いている。


「……合理的な理由は、ないのですか」


 声が上擦った。冗談を言うつもりだったのに、声が素直になってしまった。


「ない」


 ルーファスが言い切った。即答だった。


「合理的な理由はない。お前がいないと茶の味が変わるとか、鑑定室が広すぎるとか、そういう非論理的な理由しかない」


 非論理的な理由。


 この人がそれを認めるのに、どれだけの覚悟がいっただろう。論理で世界を測ってきた人が、論理の外にあるものを差し出している。箱を持つ手が震えているのは、その重さのせいだ。


「ルーファスさん」


「なんだ」


「私も」


 言葉が詰まった。何と言えばいいのか。


 はい、はい、はいです。


 違う、もっとちゃんと。一緒にいたい。私も。ああ、順番が逆だ。


 代わりに、手を伸ばした。箱の中の指輪に触れた。銀の冷たさ。月見草の彫り模様の凹凸が指の腹に伝わる。


 そして、ルーファスの手に触れた。震えている指を、自分の手で包んだ。冷たい。この人の手は、いつもは温かいのに。今日は冷たい。緊張で。


「一緒にいたいです」


 同じ言葉を返した。他に言葉が見つからなかったから。でも、同じ言葉を返すことが、今は一番正確だった。


 ルーファスの指が、私の手の中で止まった。震えが収まっている。


「……ありがとう」


 この人が「ありがとう」と言うのを、初めて聞いた。いつもは「礼には及ばない」か「学術的に必要な手続きだ」だった。裸の「ありがとう」。鎧が一枚もない言葉。


 目の奥が熱い。泣きそうだった。泣きたいのではない。ただ、器の容量を超えた液体が、一番近い出口から溢れようとしているだけ。


 深呼吸をした。薬草の匂い。鉄インクの匂い。ルーファスの白衣から微かに漂う石鹸の匂い。全部混じって、この朝の空気を作っている。


◇◇◇


 指輪は左手の薬指に収まった。少しだけ緩い。ルーファスが「調整する」と言ったが、私は「このままでいい」と答えた。


 ぴったりでなくてもいい。馴染むのはこれからだ。指輪も、この関係も。乳鉢が手の形に馴染むまで三ヶ月かかった。指輪はもう少しかかるかもしれない。でも、毎日つけていれば、いつか自分の指の一部になる。


 二人とも黙っていた。鑑定室の窓から午前の光が差し込んで、作業台の上の薬草と乳鉢と、二つの湯呑みを照らしている。いつもの風景。何も変わっていない。でも全部、違って見える。


 ルーファスが立ち上がった。


「茶を淹れる」


「はい」


 普通の茶。朝の茶。いつもと同じ。


 でも湯呑みを受け取る時、ルーファスの指が私の指に触れた。一瞬だけ。意図的に。指の腹が湯呑みの縁で重なって、温かさが移る。


 茶を啜った。美味しかった。いつもの茶。いつもの味。でも今日は少しだけ甘い気がした。同じ部屋で同じ茶を飲むことの意味が、今朝から変わったのだ。


 窓の外で、裏庭の月見草が風に揺れている。まだ蕾。咲くのはもう少し先だ。


 指輪の銀が、光を小さく反射した。

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