第7話 月見草ではなく
ルーファスが改まった顔をしている時は、眉の間に縦皺が寄る。
今日がそうだった。朝、鑑定室に入ると、ルーファスは作業台の前に立っていた。茶は持っていない。二つの湯呑みは棚の上に置かれたまま。朝の光が窓から斜めに差し込んで、薬草の瓶と乳鉢を照らしている。いつもの鑑定室だ。でも空気が違う。薬草と鉄インクの匂いの奥に、微かに石鹸の匂いが混じっている。ルーファスの白衣がいつもよりぴしっとしていた。
「おはようございます」
「……ああ。おはよう」
返事が遅い。一拍。ルーファスの「おはよう」は普段、私が言い終わる前に重なる。今日はその一拍の間に、何かが詰まっている。
「茶、淹れましょうか」
「いや。座ってくれ」
座った。椅子の座面が冷たい。朝はまだ気温が低い。ルーファスは立ったままだった。窓から入る光が白衣の肩に落ちている。
沈黙が数秒。ルーファスの右手が白衣のポケットに入って、出て、また入った。何かを握っている。ポケットの布が、中身の形に膨らんでいる。
「セレスティーヌ」
「はい」
「前に、月見草の苗のことを言った」
覚えている。馬車の中で。来年も、再来年も、その先も、と。鉢の上で指が触れた日のこと。あの時の指先の温度を、まだ手が覚えている。
「あれは」
ルーファスの声が、普段より低い。いつもの無愛想さとは質が違う低さ。慎重に一音ずつ選んでいる。喉の奥で言葉を転がしてから、一つずつ口に出しているような。
「あれは、苗の話ではなかった」
「知っています」
「知っていて、受けてくれた」
「ええ」
「だから」
ポケットから手が出た。握っていたのは、小さな箱。木の箱。掌に収まるサイズ。木目が細かい。蓋の噛み合わせが丁寧で、開ける時に小さな、乾いた音がする種類の箱。
「今度は、月見草ではなく」
箱を開けた。
中には指輪が入っていた。銀の細い輪。装飾は控えめで、表面に小さな模様が彫られている。よく見ると、月見草の花弁だった。五枚の花弁が、輪の外側にぐるりと続いている。
「……一緒にいたい」
言った。
たった一言。飾りがない。論理の組み立ても、学術用語も、「合理的」も何もない。ただ、一言。この人が「合理的」の鎧を全部脱いで、最後に残った言葉。
◇◇◇
鎖骨のあたりが熱い。
振動。低い振動が、肋骨の裏側を伝っていく。耳が熱い。全身の温度が二度くらい上がった気がする。
ルーファスの手が震えていた。箱を持つ指が、白い。力が入りすぎて血の気が引いている。
「……合理的な理由は、ないのですか」
声が上擦った。冗談を言うつもりだったのに、声が素直になってしまった。
「ない」
ルーファスが言い切った。即答だった。
「合理的な理由はない。お前がいないと茶の味が変わるとか、鑑定室が広すぎるとか、そういう非論理的な理由しかない」
非論理的な理由。
この人がそれを認めるのに、どれだけの覚悟がいっただろう。論理で世界を測ってきた人が、論理の外にあるものを差し出している。箱を持つ手が震えているのは、その重さのせいだ。
「ルーファスさん」
「なんだ」
「私も」
言葉が詰まった。何と言えばいいのか。
はい、はい、はいです。
違う、もっとちゃんと。一緒にいたい。私も。ああ、順番が逆だ。
代わりに、手を伸ばした。箱の中の指輪に触れた。銀の冷たさ。月見草の彫り模様の凹凸が指の腹に伝わる。
そして、ルーファスの手に触れた。震えている指を、自分の手で包んだ。冷たい。この人の手は、いつもは温かいのに。今日は冷たい。緊張で。
「一緒にいたいです」
同じ言葉を返した。他に言葉が見つからなかったから。でも、同じ言葉を返すことが、今は一番正確だった。
ルーファスの指が、私の手の中で止まった。震えが収まっている。
「……ありがとう」
この人が「ありがとう」と言うのを、初めて聞いた。いつもは「礼には及ばない」か「学術的に必要な手続きだ」だった。裸の「ありがとう」。鎧が一枚もない言葉。
目の奥が熱い。泣きそうだった。泣きたいのではない。ただ、器の容量を超えた液体が、一番近い出口から溢れようとしているだけ。
深呼吸をした。薬草の匂い。鉄インクの匂い。ルーファスの白衣から微かに漂う石鹸の匂い。全部混じって、この朝の空気を作っている。
◇◇◇
指輪は左手の薬指に収まった。少しだけ緩い。ルーファスが「調整する」と言ったが、私は「このままでいい」と答えた。
ぴったりでなくてもいい。馴染むのはこれからだ。指輪も、この関係も。乳鉢が手の形に馴染むまで三ヶ月かかった。指輪はもう少しかかるかもしれない。でも、毎日つけていれば、いつか自分の指の一部になる。
二人とも黙っていた。鑑定室の窓から午前の光が差し込んで、作業台の上の薬草と乳鉢と、二つの湯呑みを照らしている。いつもの風景。何も変わっていない。でも全部、違って見える。
ルーファスが立ち上がった。
「茶を淹れる」
「はい」
普通の茶。朝の茶。いつもと同じ。
でも湯呑みを受け取る時、ルーファスの指が私の指に触れた。一瞬だけ。意図的に。指の腹が湯呑みの縁で重なって、温かさが移る。
茶を啜った。美味しかった。いつもの茶。いつもの味。でも今日は少しだけ甘い気がした。同じ部屋で同じ茶を飲むことの意味が、今朝から変わったのだ。
窓の外で、裏庭の月見草が風に揺れている。まだ蕾。咲くのはもう少し先だ。
指輪の銀が、光を小さく反射した。




