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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第6話 ジーク・ヴァルトシュタインの秋


 男爵令息ジーク・ヴァルトシュタインの名前が、社交界の招待状から消えたのは秋のことだった。


 正確に言えば、消えたのではなく、載せてもらえなくなった。辺境伯領での虚偽報告の噂が王都まで届いたのだ。噂は尾ひれがつく。「手柄を横取りしていた」だけでなく、「横領していた」「精霊を怒らせた」まで膨れ上がっていた。事実は最初の一つだけだ。でも、火の出どころが本物である以上、煙の形を否定しても意味がない。


 実家の男爵家は距離を置いた。当主の父は、「しばらく静かにしていろ」と短い手紙を寄越したきり、音沙汰がない。母からは何もない。妹からも。家族の沈黙は、怒りより重い。


 ジークは辺境に残っていた。街外れの小さな宿に部屋を借りて、何をするでもなく日を過ごしていた。王都には戻れない。戻る顔がない。


◇◇◇


 朝。宿の薄い壁越しに、隣室の職人が仕事に出る音が聞こえる。扉が閉まる音。階段を降りる足音。軋む板の、乾いた音。


 ジークはベッドの端に座って、壁を見ていた。染みのある壁。辺境伯邸の白い漆喰壁とは違う。


 思考が勝手にそこへ行く。最近はずっとそうだ。五年間の日々を振り返るたびに、「私が」と書いた報告書の一行一行が、書き換わっていく。「私が」ではなく「セレスティーヌが」と。薬草園の管理も。孤児院の食事制度も。規格外野菜の仕入れルートも。


 全部。全部あの人だった。


 怖かった。


 違う。怖いなんて綺麗な言葉じゃない。失いたくなかった。自分の場所を。ダリウスの右腕という場所を。あの人の仕事が目に見えるようになれば、自分が要らなくなる。だから報告書を書き換えた。名前を消した。あの人の場所を奪ってでも。


 宿の枕は硬い。蕎麦殻。辺境伯邸の羽根枕の感触を覚えている体が、毎朝この硬さに驚く。慣れるのには、もう少しかかるだろう。


◇◇◇


 宿の階下に降りると、宿の主人が声をかけてきた。太った男。口髭が黄色い。煙草のせいだ。


「ヴァルトシュタインさん。農家のグレーテルが人を探しているんだが」


「人を」


「規格外野菜の仕分け作業。人手が足りないらしい。日雇いだが」


 規格外野菜。あの農家か。セレスティーヌが仕入れルートを築いた、最初の農家。ジーク自身がその取引を打ち切った農家。打ち切った理由は「非効率」だった。藍色のインクで、整った字で、「経費削減のため」と書いた。


「……私でいいのですか」


「手があればいいそうだ。字が書けるなら尚良い」


 字は書ける。報告書を五年間書き続けていた。藍色のインクで、整った字で。中身は全部、他人の仕事だったが。


 グレーテルの農場に行った。


 日焼けした女性が作業場で蕪を並べていた。ジークの顔を見て、一瞬だけ目を細めた。知っている。この人は知っている。取引を打ち切った通知を出したのが誰か。


「仕分けの仕方、わかるかい」


「……いえ」


「こっちが出荷用。こっちが規格外。規格外の中で、傷が浅いのとそうでないのを分ける。傷が浅いのは孤児院に回す」


 孤児院に回す。あの仕組みは、まだ生きていたのか。セレスティーヌが作ったルートは、ジークが打ち切った後も、グレーテルが個人的に続けていたのだ。


 蕪を手に取った。仕立てのいい上着は置いてきた。袖をまくる。土がついた蕪は冷たくて、握ると指の関節が痛んだ。爪の間に土が入る。黒い土。辺境の土は粘りがあって、洗っても簡単には落ちない。


 仕分けは単純な作業だった。目で見て、手で触って、分ける。善い蕪と、傷んだ蕪と、その間。間の判断が難しい。グレーテルは一瞬で分けていく。ジークは迷う。迷うたびに手が止まる。


 昼過ぎ、農場の入り口に馬が停まった。


 隣村の農家だった。種の取引に来たらしい。馬から降りた男がジークの方を見て、足を止めた。


「お前、ヴァルトシュタインか」


 声に温度がなかった。ジークは手を止めた。蕪を持ったまま。


「うちの村に来た薬師の処方箋、お前が止めたんだってな。孤児院の薬も、野菜も」


 覚えていた。経費削減のために隣村への薬草配給を打ち切った書類。ジークが書いた。藍色のインクで。


「おかげでうちの婆さんが冬を越せなかった」


 殴られるかと思った。殴られた方が楽だったかもしれない。でも男は殴らなかった。ただ、目を逸らした。目を逸らされる方が痛い。拳より。


 グレーテルが間に入った。「仕事中だよ」と低い声で言っただけだった。男は何も言わず、種の袋を受け取って、馬に乗って去った。


 蕪を仕分ける手が震えていた。肩甲骨の間がぞわりとして、止まらなかった。


 穏やかな笑みは、もう作れなかった。作ろうとしても、顔の筋肉が従わない。五年間使い続けたあの表情が、どうやって作っていたのか、思い出せない。


◇◇◇


 夕方。日当をもらった。銅貨が数枚。掌の上で鈍い光を放っている。辺境伯邸の家令代行の報酬とは桁が違う。でも、この銅貨は自分の手で稼いだものだ。蕪を仕分けた対価。


 宿に戻る道すがら、空を見た。辺境の空は広い。星が出始めている。


 セレスティーヌが言った言葉が、頭の隅にこびりついている。


「名前がないことの痛みは、私にもわかります」


 わかりますと言ったあの人の声には、怒りがなかった。許しもなかった。ただ、事実として。あの人は五年間、名前を奪われた側にいた。ジークは五年間、名前を奪う側にいた。今、自分の名前がなくなって初めて、あの言葉の重さがわかる。


 ジーク・ヴァルトシュタインは何者か。ダリウスの右腕。幼馴染。家令代行。全部なくなった。


 今日は蕪を仕分けた。


 明日も仕分ける。


 宿の食堂で、安い麦酒を一杯飲んだ。苦い。舌の先が痺れる。辺境伯邸で飲んでいた葡萄酒とは別物だ。でも、自分の銅貨で買った麦酒だ。蕪を仕分けた対価で。


 部屋に戻って、壁を見た。染みは昨日と同じ形をしている。


 五年間、嘘の上に立っていた。藍色のインクで綴った嘘。穏やかな笑みで隠した嘘。今、手の中にあるのは冷たい土だけだ。


 でも、土は嘘をつかない。蕪は嘘をつかない。傷がある蕪は傷がある。ただ、それだけが確かだった。

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