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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第1話 フローレンス式


 ギルド長の部屋は、薬草の匂いがしなかった。


 代わりに蝋燭と古い羊皮紙の匂い。書架に並ぶ分厚い台帳。窓は高い位置にあって、差し込む光が埃を金色に照らしている。何十年も換気されていない部屋特有の、時間が堆積したような重さ。


 「フローレンス式低温精製法」。書類の表題を目で追った。自分の名前がついた技法が、こうして公式の書面に載っている。見慣れたはずの字面なのに、奥歯の裏側が痺れるような緊張がある。名前がつくということは、失敗した時にその名前が傷つくということだから。


 祖母の声が聞こえる気がした。「怖がるのは自由。でも怖がりながらでも手は動かせるでしょう」。


「では、実演をお願いしたい」


 ギルド長は白髪の混じった顎髭を撫でながら言った。穏やかな声。でも目は鑑定士の目だ。素材の品質を見極める時の、あの光。四十年この部屋にいる人の目。


「はい」


 作業台の上に道具を並べた。乳鉢、乳棒、精密秤。それから銀木犀の乾燥花弁。辺境から持ち帰った原種と、王都のギルドで流通している一般品の二種。道具の配置は毎回同じにする。秤は右手側。乳鉢は正面やや左。これも祖母に教わった。「道具の場所が決まっていれば、手は迷わない」。


 手が動き始めると、緊張が薄れた。いつもの作業だ。花弁を秤に載せる。一グラム単位で量り分ける。温度計を確認する。低温乾燥の条件を口頭で説明しながら、手順を実演していく。


 指先に花弁の感触が伝わる。乾燥が適切な花弁は、紙とも布とも違う、独特のしなやかさがある。指の腹で軽く押すと、微かに弾力が返ってくる。この弾力が消えていたら乾燥のしすぎ。べたつくなら不足。


 祖母に教わった手順。指が覚えている。直射日光を避け、風通しの良い日陰で七日間。途中で一度だけ裏返す。裏返すタイミングは、花弁の端がほんの少しだけ反り始めた時。言葉にすると曖昧だが、指で触ればわかる。この感覚だけは、書物では伝わらない。


「ルーファス副長、品質比較のデータを」


 ギルド長がルーファスに声をかけた。


 ルーファスが書類を広げた。辺境での産地調査の結果。土壌成分、日照条件、標高、精霊との共生関係。口実だったはずの調査が、六十ページの報告書になっている。角張った字がびっしりと並んでいる。日付だけ、相変わらず雑。


「フローレンス式で精製した銀木犀の花弁は、一般的な高温乾燥法と比較して、有効成分の残存率が一・四倍。調合時の安定性も二三パーセント向上する」


 数値を並べるルーファスの声は平坦だった。いつもの報告口調。でも書類を持つ指先が、微かに力んでいる。紙の端が僅かに震えていた。


◇◇◇


 審査は二時間に及んだ。


 ギルド長の質問は十二回。うち五回は精霊との関係について。精霊契約者でなければ再現できないのではないか。汎用性はあるのか。


 答えた。精霊の力は精製の「効率」を上げるが、手順自体は精霊なしでも実行可能であること。実際にルーファスが精霊契約なしで同じ手順を追試し、有効成分の残存率が一・二倍まで出たこと。


 九回目の質問で、手が止まった。


「三年後、五年後に同じ品質を維持できる根拠は」


 ギルド長の目が、鑑定士の目のまま動かない。


 根拠。長期の品質データがない。フローレンス式は辺境で生まれた技法で、ギルドの基準で検証された期間は半年にも満たない。論理ではなく、経験を聞かれている。でも経験は、辺境での五年間しかない。そしてその五年間の記録は、暖炉で燃やされた。


 手の甲に汗がにじんだ。答えが出ない。沈黙が伸びる。ギルド長の目が待っている。


 ルーファスが口を開きかけた。助け舟を出そうとしている。でもそれでは意味がない。私の技法を、私の言葉で。


「根拠はあります」


 声が出た。自分でも驚くほど静かな声だった。


「祖母が五十年間、同じ手順を守り、同じ品質を維持しました。私はその手順を受け継いでいます。五十年のデータは祖母の手の中にあります。書面にはありません。でも、私の指が覚えています」


 ギルド長が眉を動かした。ペンを置いた。


「……続けてください」


 追試データを差し出した。ルーファスが先月、独りで夜の鑑定室で取ったデータ。知らなかった。いつの間に。茶も淹れずに、あの角張った字で一つずつ記録して。


 胸の奥で何かが軋んだ。感謝とも違う。もっと根の深い、名前のつけにくい圧力。


「……フローレンス殿」


 ギルド長が書類を机に置いた。羊皮紙が擦れる乾いた音。


「本日付で、フローレンス式低温精製法を、薬学ギルドの公式精製法として登録します」


 登録。


 公式。


 耳に入った音の意味を、脳が処理するのに一拍かかった。


「登録番号は四四七。発案者名はセレスティーヌ・フローレンス。ギルドの台帳に記載されます」


 四四七番。数字は覚えやすい。でも大事なのは数字ではなく、その横に書かれる名前の方だ。


 セレスティーヌ・フローレンス。


 誰かの協力者ではなく。誰かの報告書の一行ではなく。台帳に、私の名前が。


◇◇◇


 ギルド長の部屋を出た廊下で、足が止まった。


 壁に寄りかかって、息を吐いた。石壁がひんやりと背中に冷たい。手が震えている。今さら。審査の間は震えなかったのに。


「セレスティーヌ」


 ルーファスが隣に立っていた。白衣のポケットに手を入れたまま。


「よくやった」


 短い。でも今日はそれだけでよかった。いつもの「合理的」も「効率的」もなくて、ただ「よくやった」。


 なんというか。


 背骨がすっと伸びて、足の裏が床をちゃんと捉えている感覚。立っている。自分の名前で、自分の足で。


「ルーファスさん」


「なんだ」


「追試、いつしたんですか」


「先月」


「言ってくれればよかったのに」


「言う必要がなかった。データは審査の時に出せばいい」


 言う必要がなかった。確かにそうだ。でもそれは、私が気づかないところで私の仕事を支えていたということで。


「ありがとうございます」


「礼を言われるようなことではない。追試は学術的に必要な手続きだ」


 学術的に。


 見ないふりをした。白衣の襟の上で、耳の後ろがうっすら赤くなっていることに。でも口元が緩むのは、もう抑えなかった。


◇◇◇


 鑑定室に戻って、五冊目のノートを開いた。


 革の表紙が指に馴染んできている。四冊目より少しだけ薄い革。でも綴じ方は同じ。祖母と同じ製本法。


 日付。「フローレンス式低温精製法、ギルド公式登録。登録番号四四七」。


 書き終えて、ペン先を紙から離した。インクの点が一つ、余分に落ちた。鉄インクの、少し赤みがかった黒。紙の繊維にじわりと沁み込んでいく。消えない。燃やされない限り。


 三冊目のノートのことを、不意に思い出した。引き継ぎのために全てを書き出した、あのノート。暖炉の火に放り込まれた。紙が丸まっていく音。鉄インクが燃える、かすかに甘い焦げた匂い。


 でも、今日の記録は台帳に載る。ギルドの公式台帳。一個人の手元のノートではなく、機関の記録として。燃やされない。


 祖母のことを考えた。皺だらけの手。土の匂い。「自分の仕事には自分の名前をつけなさい」。


 つけた。祖母。ようやく。


 窓の外で、裏庭の銀木犀の挿し木が風に揺れている。葉が三枚。まだ根は張っていない。でも、光の方を向いている。

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