第10話 私の名前は
王都の門が見えた時、リーゼが声を上げた。
「帰ってきた!」
窓から身を乗り出して、門の向こうの街並みを見ている。パン屋の煙突から煙が上がっている。洗濯屋の看板が風に揺れている。
「リーゼ、身体が出すぎよ」
「だって、洗濯屋さんの看板が見えます。ちゃんとあります」
この子にとって、洗濯屋の看板が目印なのだ。帰る場所の。
隣の座席で、ルーファスがメモ帳を閉じた。五冊目が半分埋まっている。産地調査の報告書は、口実のはずだったのに、分厚い論文になりそうな気配がある。
◇◇◇
下宿の三階。鍵を開けると、出発前と同じ部屋が待っていた。
テーブルの上に、出がけに置いた茶葉の缶。窓辺の鉢植えは、大家さんが水をやってくれていたらしく、新しい葉が出ている。
鞄を下ろした。リーゼが窓を開けた。パン屋の匂いと、排水溝の匂い。王都の匂い。
「ただいま」
リーゼが誰に言うでもなく呟いた。私も呟いた。同じ言葉を。声が重なった。
五ヶ月前、この部屋に初めて入った時は「ただいま」とは言わなかった。言えなかった。帰る場所だと思っていなかったから。
今は、言える。
◇◇◇
翌朝。薬学ギルドに出勤した。
鑑定室の扉を開けると、薬草と埃の匂い。窓から差す光が、作業台の上の乳鉢を照らしている。白大理石の乳鉢。底が私の手の形に馴染んでいる。
「おはよう」
ルーファスが茶を二つ持って入ってきた。普通の茶。朝は味覚を鈍らせないために。
「おはようございます。いただきます」
向かい合って茶を啜る。いつもの朝。旅に出る前と同じ。何も変わっていない。
でも、何かが違う。
茶を持つルーファスの手が、昨日と同じ距離にある。近すぎず、遠すぎず。でもその距離の意味が変わった。馬車の中で触れた指の温度を、私の手が覚えている。
ルーファスも覚えているのだろう。茶碗を置く時、指先がほんの一瞬、作業台の上で迷うように動いた。何かに触れようとして、やめた動き。
耳の後ろ。赤い。
――見ないふりをした。今は。
◇◇◇
午後。ギルドの裏庭に出た。
鞄から銀木犀の挿し木を取り出した。辺境の薬草園から持ち帰った、小さな枝。葉は三枚だけ残っている。乾燥を防ぐために湿った布で包んであった。ルーファスが旅の間、毎晩水を替えてくれていた。
裏庭の隅に穴を掘った。王都の土。辺境の土より色が薄い。乾くと白くなる。
挿し木を植えた。根がない。根は、ここで新しく張る。
土を押さえて、水をやった。ジョウロではなく、鑑定室の計量カップで。ちょうどいい量を測って。
手を土の上に置いた。
待った。
精霊は、すぐには来ない。新しい土地で根を張るのと同じで、信頼には時間がかかる。祖母はそう言っていた。「精霊は、急がない人のところに来るの」
一分。二分。
微かに、指先に温もりを感じた。
辺境の精霊とは違う。もっと軽い。乾いた風のような気配。王都の精霊だ。この土地の。
でも、その奥に、かすかに知った気配が混じっている。辺境の根を通って、ここまで届いた残響。一つの挿し木が、二つの土地の精霊を繋いでいる。
祖母が、そうだった。子爵家の庭と、隣村の薬草畑。二つの場所に精霊がいた。祖母が歩けば、どちらの精霊も応えた。一つの心が、複数の場所に根を張れる。
私も、そうなれるかもしれない。
辺境と、王都と。捨てた場所と、選んだ場所と。どちらにも根を張る。どちらにも、名前を残す。
――いえ、根を張る、というのとは少し違う。
繋がる、の方が近い。根は一つで、枝分かれしているだけ。
◇◇◇
夕方。鑑定室に戻ると、ルーファスが作業台に新しいノートを置いていた。
革表紙。鉄インクの匂い。祖母と同じ製本法。
五冊目だ。
「いつ用意したんですか」
「辺境に行く前に注文していた」
辺境に行く前。旅に出る前から、帰った後のことを考えていたのだ。
「表紙の革、前のと同じ職人に頼んだ。色は少し違うが」
確かに、四冊目より少しだけ明るい色をしている。茶色が薄い。日に当たった革のような、温かみのある色。
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことではない。消耗品の補充は業務の一環だ」
業務の一環。
――この人は、月見草の苗で求婚して、ノートの補充を業務と呼ぶ。順序がおかしい。でも、それがこの人だ。
口元が緩んだ。抑えなかった。
◇◇◇
ノートを開く。
一ページ目。白い紙。鉄インクの匂い。
ペンを取る。
一冊目のノートには、「辺境伯邸業務記録」と書いた。二冊目も同じ。三冊目は「引き継ぎ用」と書いて、燃やされた。四冊目には、初めて自分の名前を。
五冊目。
ペンを紙に置く。インクが紙に沈む、小さな音。
セレスティーヌ・フローレンス。
四冊目と同じ名前。同じ字。でも書いている手の感覚が違う。四冊目の時は、名前を取り戻す手つきだった。恐る恐る、確かめるように。
五冊目は違う。この名前は私のものだ。もう確かめる必要はない。
――いえ。
ペンが止まった。
もう少ししたら、この名前が変わるかもしれない。フローレンスではなく。
耳が熱くなった。髪で隠そうとして、ペン立てにぶつかった。ペンが一本、床に落ちた。
拾い上げる。顔が熱い。誰も見ていないのに。
――いえ、今はフローレンスだ。今は。この名前で。
名前の下に日付を書いた。五月。王都。晴れ。
◇◇◇
扉が開いた。
「書けたか」
ルーファスが茶を持って入ってきた。夕方の茶。薬草茶。午後の仕事が終わった後は、味覚を気にしなくていい。マジョラムの比率が高い配合。この人の好みの味。
「まだ、名前だけ」
「名前が書ければ十分だ。中身は明日からでいい」
ルーファスが作業台の反対側に座った。自分のメモ帳を開いた。産地調査の報告書。角張った字が並んでいく。日付だけ、やはり雑。
向かい合って、それぞれのノートを書いている。窓から夕方の光が差し込んで、作業台の上の乳鉢を琥珀色に染めている。
静かだ。
ペンが紙を走る音。茶碗から立ち上る湯気。薬草の匂いと、鉄インクの匂い。同じ部屋で、同じ仕事をしている二人の気配。
それだけのことだ。
それだけのことが、温かい。五年間の空白と、五ヶ月の旅路の果てに辿り着いた場所が、この静かな午後だった。
大袈裟なことは何もない。劇的な場面もない。ただ、名前を書いたノートと、向かいに座る人と、冷めかけた薬草茶がある。
指先が温かい。ペンを持つ右手も。茶碗に触れた左手も。
窓の外で、夕暮れの風が銀木犀の挿し木を揺らしている。根はまだない。でも葉は、光の方を向いている。




