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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第9話 来年も、ここで


 辺境を去る朝は、曇っていた。


 雲の切れ間から時折光が差して、屋敷の石壁をまだらに照らす。この天気を、辺境では「精霊の洗濯日」と呼ぶ。雲が動くたびに光と影が入れ替わるから。誰に教わったのだったか。マルタだ。来たばかりの頃に。


 荷造りを終えて、客間を出た。廊下の石畳が朝の冷気を含んでいる。スリッパ越しに感じる冷たさが、五年間と同じだった。


◇◇◇


 玄関で、マルタが待っていた。


 白髪をいつもより丁寧に結い上げている。エプロンは新しいものに替えてあった。見送りのための身なりだと、一目でわかった。


「セレスティーヌ様」


「マルタ」


「差し出がましいことを申しますが」


 口癖。三十年変わらない前置き。でも今日は、その後に沈黙が挟まった。マルタが沈黙するのは珍しい。この人の言葉は、いつも正確で、過不足がない。


 沈黙の中で、マルタの指が動いた。エプロンの紐を、ほどいて、結び直している。無意識だろう。手持ち無沙汰を隠す仕草だ。


「これまで、奥様とお呼びしておりました」


「ええ」


「これからは――セレスティーヌ様と、お呼びしてもよろしいでしょうか」


 声がかすれた。マルタの声が。三十年間、同じ調子で報告を続けてきた声が、ほんの一音だけ震えた。


 奥様ではなく。セレスティーヌ様。


 その違いがわかるまで、一拍かかった。


 奥様は、辺境伯家の役割の名前。誰がその座にいても、奥様は奥様だ。でもセレスティーヌは、私だけの名前。マルタは、役割ではなく人を呼ぶと言っている。


 視界がにじんだ。


 ――いけない。ここで泣いたら、マルタも崩れる。この人は、私が泣かない限り、自分も泣かない。三十年間そうしてきた人だ。


「もちろんです」


 声が掠れた。実務モードに入ろうとして、失敗した。


「マルタ。ありがとう」


 短い。短すぎる。五年分の感謝を二文字に詰め込んで、それでも溢れている。


 マルタが深く頭を下げた。長い、長いお辞儀。それから顔を上げた時、目元が赤かった。でも笑っていた。マルタの笑顔を見たのは、五年間で三度目だった。


◇◇◇


「もう一つ、差し出がましいことを」


 マルタの声が、報告モードに戻った。切り替えが速い。


「今月をもちまして、辺境伯邸を辞することにいたしました」


「辞める?」


「三十年、お仕えいたしました。もう十分かと」


 驚いた。マルタがこの屋敷を離れるなど、考えたこともなかった。この人はこの屋敷そのもののような存在だった。石壁と同じくらい動かないものだと。


「旦那様にはすでにお伝えしてあります。引き継ぎも済ませました。後任の侍女頭は、ヒルダが務めます」


 用意周到だ。マルタらしい。退職の報告に、すでに引き継ぎが終わっている。


「それで、どうされるんですか」


「妹が王都で仕立て屋を営んでおります。しばらく手伝いを」


 王都。


「マルタ。王都に来るなら、うちに遊びに来てください。三階の狭い部屋ですけれど」


 言ってから、「うち」という言葉に自分で少し驚いた。下宿の三階の部屋を、いつの間にか「うち」と呼んでいる。


「セレスティーヌ様」


「はい」


「……お茶を、ご一緒させていただけますか。王都でお時間がある時に」


 お茶。主従ではなく、人として。


 喉が詰まった。頷いた。声が出なかったから。


◇◇◇


 フィーナが門の前で待っていた。


 手に何かを握りしめている。紙。折り畳まれた紙。


「セレス。これ」


 受け取った。広げると、字が並んでいる。前の手紙より、少しだけ整った字。


「おくすりのなまえ、おぼえた。ミント、カモミール、ラベンダー。おじさんがおしえてくれた」


 おじさん。ルーファスのことだ。


「せれすがかえっても、おみずはやるよ」


 便箋を折り畳んで、胸ポケットに入れた。四冊目のノートではなく、胸ポケットに。理由はわからない。ただ、そうした方がいい気がした。


「フィーナ」


「うん」


「薬草のこと、もっと知りたくなったら手紙をちょうだい。教えられることは、教えるから」


 フィーナが大きく頷いた。前髪が跳ねた。


 教える。守るのではなく。面倒を見るのでもなく。知識を渡す。それなら、私の立場でもできる。


◇◇◇


 馬車に乗り込んだ。ルーファスが先に座っていた。膝の上にメモ帳を広げて、何かを書いている。産地調査の報告書の下書きらしい。


 リーゼが隣に座った。窓の外を見て、小さく手を振っている。マルタに。フィーナに。門の前に立つ使用人たちに。


 馬車が動き出した。


 砂利を踏む音。車輪の軋み。五ヶ月前と同じ音。でも聞こえ方が違う。あの時は、全部を閉じる音だった。今は、引き出しを閉めるような音。必要なものは取り出した後の、静かな音。


◇◇◇


 辺境の門を出て、しばらく走った頃。


 ルーファスがメモ帳を閉じた。鞄の中から、何かを取り出した。


 小さな鉢植え。素焼きの鉢に、一本の苗。


「これは」


「月見草」


 見覚えがある。ギルドの鑑定室で、よく目にする草。ルーファスが研究用に育てていたもの。夕方に咲いて、朝に閉じる。目立たない花だけれど、薬効が高い。


「辺境の土壌で採取した株から、挿し木を取った」


「いつの間に」


「昨日の夜」


 昨日の夜。私がフィーナの手紙を読んでいる間に、この人は暗い薬草園で苗を作っていたのか。


「王都に戻ったら、ギルドの庭に植える。来年には花が咲く」


 来年。


「来年も、一緒に育てませんか」


 ルーファスの声が低くなった。いつもの無愛想さとは違う。慎重に、一音ずつ選んでいる。


「再来年も。その先も」


 メモ帳を閉じた手が、鉢植えの縁を掴んでいる。指の関節が白い。


 ――ああ。


 この人は、月見草の苗で求婚しているのだ。


 指輪でも、花束でもなく。一緒に育てる苗。毎年花が咲く。毎年世話をする。枯れないように、根が張るように。それを来年も、再来年もと。


 この人らしすぎて、おかしくて、胸が詰まる。


「覚えていますか」


 声が出た。思ったより小さかった。


「何を」


「ギルドに来たばかりの頃、茶を淹れてくれたでしょう。毎朝。味覚が鈍る時間帯だからと言い訳しながら」


「言い訳ではない。合理的な——」


「合理的な理由があった。ええ。でも、あの茶がなかったら、私はもっと長い間、自分の名前を思い出せなかったと思います」


 ルーファスの手が止まった。鉢植えの縁を掴んだまま、こちらを見た。目が合った。この人の目は、普段は何も映していないように見えるけれど、今は違う。光が揺れている。


「来年も、ここで」


 私は鉢植えに手を伸ばした。ルーファスの手の隣に、自分の手を置いた。素焼きの鉢の、ざらりとした感触。その下に、ルーファスの指の温度。


 引っ込めなかった。


「ここで、一緒に」


 ルーファスの首の後ろが赤い。耳の後ろも。白衣の襟の上で、肌がはっきりと色づいている。


「……ああ」


 一語。低い声。でもその一語に、この人の全部が入っていた。


 窓の外を、辺境の森が遠ざかっていく。月見草の苗が、馬車の揺れで小さく揺れている。


 指先が温かい。鉢植えの土ではなく、隣にある手の温度が。


 それだけのことだ。それだけのことが、何より確かだった。

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