第8話 精霊は、覚えている
薬草園に入ったのは、朝露が乾く前だった。
ルーファスが先に来ていた。しゃがみ込んで、小瓶に土を詰めている。三日前に採取したサンプルとの比較用らしい。白衣の裾が泥で汚れていることに、本人は気づいていない。
「pH測定の結果が出た。東側の区画だけ数値が違う」
「どう違うんですか」
「精霊の残留があると仮定すれば、説明がつく数値だ」
仮定すれば。科学者の言い方。でも声が少しだけ上擦っている。期待しているのだ、この人も。
◇◇◇
枯れた銀木犀の根元に手を置いた。
土が冷たい。指を沈めていく。爪の間に黒い土が入り込む。辺境の土。王都の土より重くて、色が濃い。五年間、毎朝この感触で始まっていた。
精霊を呼ぶ。
正確には、呼ぶのではない。語りかける。精霊は命令では動かない。祖母がそう教えてくれた。「精霊は犬ではないの。友達よ。友達には、お願いするものでしょう」
目を閉じて、意識を根の方へ沈めた。
何もない。冷たい土と、乾いた根の感触だけ。
――やはり、もういないのか。
指を引き抜こうとした時、微かに、温もりを感じた。
錯覚かと思った。指先が冷えているから、土の温度を勘違いしているのかもしれない。でも違う。これは土の温度ではない。もっと奥から、根の繊維を伝って、ほんの僅かに――。
「……まだ、いたの」
声が出た。自分で驚いた。
精霊は、完全には去っていなかった。眠っているだけ。根の一番深いところで、小さく、小さく。
なんというか。
置いていったと思っていたのは、私の方で。精霊は、覚えていてくれたのだ。五ヶ月間、枯れた根の中で、待っていた。
◇◇◇
「残留精霊を確認しました」
ルーファスに報告した。実務モードの声。でも手が震えていた。
ルーファスは何も言わず、メモ帳を開いた。「精霊残留――確認」と書いて、日付を添えた。角張った字。日付は、やはり少し雑。
「応急処置ができます。原種の苗を移植して、精霊の経路を繋ぎ直せば、結界の基礎だけは復旧できる」
「時間は」
「三日。最低限の処置だけなら」
「やる」
短い言葉。でも、ルーファスが鞄から道具を取り出す手つきは丁寧だった。乳鉢を二つ。秤を二つ。五冊のメモ帳のうち、三冊目を開いた。口実だった産地調査の道具が、本物の仕事道具になっている。
――この人は、嘘を本当にしてしまう人だ。
◇◇◇
午後。苗の移植を終えて手を洗っていたら、足音がした。
軍靴の音。石畳を叩く硬い音。
ダリウスが庭に立っていた。
五年間、この庭でこの人を見たのは数えるほどしかない。薬草にも精霊にも興味がなかったから。――いえ、興味がなかったのではなく、近づかなかったのだ。昨日の話を聞いた今なら、それがわかる。
「作業の邪魔をするつもりはない。一つだけ」
ダリウスの声は低い。でも昨日とは違う。少しだけ柔らかい。少しだけ。
「お前の功績を公にする。辺境伯家として正式に、領主布告を出す。薬草園も、孤児院の運営も、隣領との薬草取引も、全てセレスティーヌ・フローレンスの功績だと」
風が止まった。
いや、止まっていない。髪が揺れている。風は吹いているのに、体が動かなくなったのだ。
「ジークの名で登録されている実績は全て取り消す。マルタが保管していた業務記録を証拠として提出する」
マルタの記録。あの人は、全部残していたのか。私が書いた業務ノートは燃やされたけれど、マルタは自分の記録帳に複写していた。
知らなかった。いえ、知っていたのかもしれない。マルタならそうする。
「いいえ」
声が出た。自分でも予想していなかった言葉が。
「要りません」
◇◇◇
ダリウスの表情が固まった。
「……何を言っている」
「五年前の私なら、欲しかった」
手を見た。泥がついている。爪の間が黒い。辺境の土と王都の土が混ざった色。
「でも今は、自分の名前で新しい仕事があります。フローレンス式の精製法は、ギルドに正式登録される予定です。私の名前で。新しい業績として」
過去の手柄を返してもらうことと、今の仕事で名前を刻むこと。どちらが大切かと聞かれたら、迷わない。
「あの五年間を、今さら正しくしても、時間は戻りません。それより」
フィーナの顔が浮かんだ。爪の間に土を詰めた、小さな手。
「孤児院への支援を、制度として整えてください。私の功績の公表ではなく、あの子たちの食事の回数を増やすために」
ダリウスが黙った。拳を握って、開いて、もう一度握った。
「……わかった」
短い。でも重い声だった。
――いえ、重いのは声ではなく、この人が今飲み込んだものの重さだ。自分が犯した過ちを公に正す機会を、私が不要だと言った。それは、ダリウスにとっての贖罪の道を一つ閉ざしたことになる。
でも、私の名前は、あの人の贖罪のための道具ではない。
◇◇◇
ダリウスが去った後、薬草園に戻った。
移植した苗の根元に、ルーファスがしゃがみ込んでいた。土壌サンプルの小瓶が、並んでいる。さっきより三本増えている。
「聞こえていましたか」
「聞くつもりはなかった。声が大きかった」
嘘だ。私の声は大きくなかった。この人が、庭の隅で聞き耳を立てていたのだ。
首の後ろ。白衣の襟の上。赤い。
「功績の公表を断ったのは、合理的だ」
「合理的、ですか」
「過去の業績に依存するより、現在の実績を積む方が、ギルドでの評価基準に合致する」
並べ立てている。また。合理的な理由を。
――この人は、「よくやった」と言いたいのだ。でもその言葉が出てこないから、学術用語で代替している。
「ルーファスさん」
「なんだ」
「ここの精霊、あなたのことを覚えていますよ」
ルーファスが顔を上げた。眉が動いた。
「精霊に会ったのは三日前が初めてだ。覚えているはずがない」
「精霊は、土を大切にする人を覚えるんです。祖母がそう言っていました」
ルーファスの耳の後ろが、首の後ろと同じ色になった。
枯れた銀木犀の枝の先に、何かが膨らみかけていた。蕾、と呼ぶには小さすぎる。芽未満の、兆し。
精霊が、ほんの少しだけ、目を覚ましている。




