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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第7話 俺も名前がなかった


 書斎の扉は、五年間で三度しか開けたことがない。


 一度目は、結婚の挨拶。二度目は、離縁届に署名した日。そして今日。


 ノックをした。二回。返事はなかった。でも鍵は開いていた。マルタが事前に伝えてくれたのだろう。「差し出がましいことを申しますが」と前置きして、ダリウスに私の訪問を告げた顔が目に浮かぶ。


 扉を開ける。


 書斎は変わっていなかった。重い木の机。革張りの椅子。壁一面の書架に並ぶ軍務記録。窓は一つだけで、光が細く差し込んでいる。


 ダリウスが机の前に立っていた。座っていない。椅子を引いた形跡もない。最初から立って待っていたのだ。


 軍人の姿勢。背筋が真っ直ぐで、肩が水平で、両手が体の横に下りている。でも、その手が握られていた。拳。白くなるほど。


「――失礼します」


「ああ」


 低い声。五ヶ月ぶりの、ダリウスの声。変わっていない。変わっていないのに、聞こえ方が違う。たぶん私の耳が変わったからだ。


◇◇◇


「精霊結界の復旧について、現地調査の結果をまとめました」


 実務モードに入った。そうしないと、この部屋の空気に飲まれる。分厚い壁、薄い光、インクと古い紙の匂い。五年分の記憶が染みついた空間。


「銀木犀の植え替えが必要です。原種の苗を辺境の森から採取しました。ルーファスさん――薬師ギルドの鑑定士が土壌分析も済ませています」


 ダリウスが頷いた。報告を聞く表情だった。領主として。司令官として。この顔は知っている。


 知らないのは、その奥にあるものだ。


「セレスティーヌ」


 名前ではなかった。呼びかけでもなかった。ダリウスが自分に言い聞かせるように、口の中で転がした音だった。


「……話がある」


 机の上に、書類がなかった。いつもは地図や報告書が積まれている机の上が、何もない。片付けたのだ。この会話のために。


「聞きます」


◇◇◇


 ダリウスが話し始めた。


 窓の方を向いたまま。私の方を見ずに。


「辺境軍の指揮を執った最初の年、部下が十四人死んだ」


 声は平坦だった。報告書を読み上げるような口調。


「名前を全員覚えていた。出身地も、家族構成も。ベルンハルト・ケスラー、農家の三男、妻と娘が一人。ヨハン・メッツ、鍛冶師の次男、婚約者あり。マティアス・ブルーム――」


 拳が震えていた。名前を一つ挙げるたびに、指の関節が白くなる。


「翌年は二十三人。その次は十一人。名前を覚えるのをやめたのは四年目だ」


 やめた。


「名前を覚えれば、死んだ時に壊れる。壊れれば指揮ができない。指揮ができなければ、もっと多くの部下が死ぬ。だから」


 ダリウスが振り返った。青い目。深い海の底のような色。でも今、その底に何かが揺れている。


「名前を呼ばなくなった」


◇◇◇


 私の名前を呼ばなかった理由を、ようやく聞いた。


「お前を見下していたのではない」


 ダリウスの声がかすれた。軍人の姿勢が、ほんの少しだけ崩れた。肩が内側に入る。拳を握ったまま、腕が微かに震えている。


「お前がここにいると認めてしまえば、失った時に壊れると思った」


 ――ああ。


 五年間の答えが、こんなに単純な言葉だった。


 見下していたのではなく。無関心だったのではなく。認めることが怖かった。名前を呼んで、存在を受け入れて、そして失う。兵士たちと同じように。


「五年の期限も、俺がつけた」


 知っていた。――いえ、知らなかった。薄々感じてはいたけれど、確信はなかった。


「お前が幸せでなければ、出ていけるように。夫として与えるべきものを何も与えられない代わりに、出口だけは作っておきたかった」


 出口。


 あの五年間の契約は、私を縛るためではなく、逃がすためだったのだ。


 喉が詰まった。目の奥が熱くなる。泣いているのではない。たぶん。ただ、五年分の空白に、一気に意味が流れ込んできて、器が追いつかないだけだ。


「ダリウス様」


「ダリウスでいい」


「……ダリウス」


 呼び捨てにしたのは初めてだった。舌の上で転がる音の感触が、不思議だった。


「私は」


 言葉を探した。怒りではなく。許しでもなく。ちょうどいい場所にある、正確な言葉を。


「それでも、名前を呼んでほしかった」


 ダリウスの息が止まった。


「五年間。毎日。あなたが怖がっていたことは、今ならわかります。でも、名前を呼ばれないまま過ごした時間は、私にとって確かに痛みでした。あなたの事情を知っても、それは変わらない」


 言い切った。袖口は握らなかった。胸の前で手を組んだ。祖母が精霊に祈る時の形。


「ああ」


 ダリウスが頷いた。一度だけ。深く。


「知っていた。――いや」


 口癖が出かけて、止まった。止めたのだ、自分で。


「知らなかった。知ろうとしなかった」


◇◇◇


 沈黙が落ちた。長い沈黙だった。


 窓から差す光の角度が変わるくらい、長い。


 ダリウスが口を開いた。


「俺も名前がなかった」


 声が低い。でも、さっきまでの平坦さとは違う。底から絞り出すような音。


「辺境伯。司令官。伯爵家当主。全部、役割の名前だ。ダリウス・フォン・シュテルンという人間は、戦場のどこかに置いてきた」


 なんというか。


 ジークと同じことを言っている。昨日のジークと。名前がない。役割に埋もれて、自分が消えた。


「お前は五年間、名前を呼ばれなかった。俺は、もっと前から自分の名前がなかった。だから呼び方がわからなかった。自分の名前すら持っていない人間に、他人の名前を呼ぶ資格があるのかと」


 資格。


「セレスティーヌ」


 声が震えた。


 ダリウスの唇が微かに歪んだ。笑おうとしたのか、泣きそうだったのか、わからない。拳は握ったままで、目は真っ直ぐにこちらを見ていた。海の底の色が、光を受けて揺れている。


「セレスティーヌ」


 二度目は、少しだけ音が安定していた。名前を呼ぶ練習をしているように。


 胸の奥で、五年分の結び目が一つ、ほどけた。全部ではない。一つだけ。でもその一つで、呼吸が少しだけ楽になった。


「ありがとうございます」


 言えた。感謝だ。許しではなく。過去を清算する言葉でもなく。ただ、名前を呼んでくれたことへの、遅すぎる受領証。


「もう行きます」


 ダリウスが頷いた。何か言いかけて、やめた。言葉を探して見つからない顔。五年間見てきた顔だ。でも今は、その不器用さが痛みではなく、ただの事実として見えた。


◇◇◇


 書斎を出る。


 廊下を歩く。五ヶ月前、離縁届に署名した日と同じ廊下。同じ石畳。同じ高い天井。


 でも、足取りが違う。


 あの日は、一歩ごとに何かが剥がれ落ちていくようだった。今は、一歩ごとに足の裏が床を感じる。冷たい石の、確かな硬さ。


 窓から差す光が、廊下の半分を照らしている。影と光の境目を、ちょうど踏んで歩く。


 名前をもらった。


 ――いえ、名前はもともと私のものだ。もらったのではなく、ようやく呼ばれただけのこと。


 それに、五年かかった。


 廊下の先にマルタが立っている。何も聞かず、ただ頭を下げる。その目元が少しだけ赤いのを、私は見ないふりをした。


 足が軽い。五ヶ月前より、ずっと。

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