表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/30

第6話 誰の名前で


 屋敷の裏庭を歩いていたら、声をかけられた。


「お久しぶりです、セレスティーヌ様」


 穏やかな声。柔らかい笑み。五ヶ月経っても、この人の微笑みは一切変わっていなかった。仕立てのいい上着も、背筋の伸ばし方も、目元の柔和な皺の作り方も。


 ジーク・ヴァルトシュタイン。


 領内の小貴族の館に滞在していると聞いていた。まさかこんなに早く顔を出すとは。


「殿下もきっとお喜びになりますよ。あなたが戻ってくださったことを」


 殿下。五年間聞き続けた呼び方。ダリウスのことを「殿下」と呼ぶのは、この人だけだった。幼馴染の特権のように。


「ジーク様。あなたに用はありません」


 自分の声が、思ったより平らだった。袖口に手が伸びかけて、止めた。握る必要はない。もうその段階ではない。


「ギルドの公務で来ています。私的な面会は受けていません」


「ええ、もちろん。ただ、旧知として少しだけ」


 旧知。


 この人は言葉の選び方が巧みだ。「旧知」と言えば、私が拒めば狭量に見える。五年間、こうやって私の立場を少しずつ削ってきた。


 ――いえ、今はそんなことを考えている場合ではない。


「失礼します」


 背を向けた。三歩、歩いた。


「セレスティーヌ様」


 声が変わっていた。


 柔らかさが抜けて、乾いた音が残った。秋口の、水を絶たれた枝が軋むような。


「一つだけ。聞いてほしいことが」


◇◇◇


 振り返るべきではなかったのかもしれない。


 でも振り返った。振り返ったのは、あの声に聞き覚えがなかったからだ。五年間、毎日のように聞いていたジークの声に、あんな音は混じっていなかった。


 屋敷の裏手、使用人用の通用口の脇。石壁に寄りかかるジークの顔から、微笑みが消えていた。


 初めて見る顔だった。


 いや。初めてではないのかもしれない。五年間、ずっとそこにあったのに、笑みの下に隠されていたもの。


「あなたが来た時から、わかっていたんです」


 ジークの声は低い。視線は地面に落ちている。


「精霊契約者。薬草の知識。領民との関わり方。全部、私より上だった。最初の半年で」


 最初の半年。あの頃、私は必死だった。慣れない土地で、口もきいてくれない夫の領地を少しでもよくしようと。孤児院に通い、薬草園を作り、精霊に話しかけ続けた。


 その間、ジークは笑っていた。穏やかに。いつもの笑みで。


「私の役割は、殿下の右腕でした。幼い頃からずっと。戦場でも、領地でも。殿下が言葉にできないことを、私が代わりに伝える。殿下が気づかないことを、私が拾う。それが私の名前だった」


 ――名前。


「あなたが来て、それが要らなくなった」


 ジークの手が、上着の裾を握っていた。しわが寄る。仕立てのいい生地に、不釣り合いな力が入っている。


「領民はあなたを頼るようになった。薬草園も、孤児院も、精霊結界も。全部あなたの手柄です。本来は」


 本来は。


「それを、私は自分のものにした」


 言葉が途切れた。石壁に額をつけるようにして、ジークが息を吐いた。


「悪意があったと言えれば、まだ楽でした。あなたを陥れたかったと。でも違う。ただ、怖かった」


 喉が鳴る音が聞こえた。ジークの喉だ。


「私が殿下の隣に立てる理由がなくなるのが。『ダリウスの右腕』以外の名前を、私は持っていなかった。あなたに居場所を奪われるのではなく、居場所がそもそも借り物だったと気づくのが」


◇◇◇


 黙って聞いていた。


 怒りは、なかった。――いえ、怒りがないわけではない。五年分の怒りは確かにある。手柄を盗まれた。名前を消された。それは事実で、許せることではない。


 でも今、目の前にいるのは、笑みを剥がされた人間だった。


 ジーク・ヴァルトシュタインではなく、「ダリウスの幼馴染」でしかなかった人。殿下の右腕という役割を取り上げられたら、何者でもなくなる人。


 なんというか。


 五年間の白い結婚の中で、名前のなかった私と、鏡写しのように。


「ジークさん」


 声を出した。感情を乗せないように気をつけた。実務モードだ。


「あなたのしたことは許せません。五年間、私の仕事を奪い、名前を消し、存在しないもののように扱った。それは恐怖が理由であっても、正当化されない」


 ジークが顔を上げた。目が赤い。泣いてはいなかったが、泣く手前の、乾いた赤さだった。


「ただ」


 言葉を選んだ。慎重に。薬草の配合を量るときのように。


「名前がないことの痛みは、私にもわかります」


 それだけ言って、背を向けた。今度は振り返らなかった。


 通用口を抜けて、表の庭に出る。五月の風が顔に当たった。薬草園の跡地から、かすかに土の匂いがする。死んだ銀木犀の、根だけが残した匂い。


 許してはいない。理解しただけだ。そしてその理解は、あの人のためではなく、私自身のためだ。


 あの人も名前がなかった。それを知ったことで、私の五年間の輪郭が、少しだけはっきりした。


 明日、ダリウスと話す。


 指先は冷えていたが、足は止まらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
右腕じゃなくても、足だったり、共存できたと思うけどな。そばに立つ方法は、色々あるはずなのにね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ