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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第2話 届かなかった手紙、届いた手紙


 朝食の黒パンにチーズを乗せていたら、扉を叩く音がした。


 配達人だった。手に持っているのは、二通の封書。一通は厚くて重い。辺境伯家の紋章が蝋で押されている。もう一通は薄くて、文字がぎこちない。子供の字だ。


 紋章入りの方を先に手に取った。指先が冷えた。


「セレスティーヌ様、お顔が白いですよ」


 リーゼが心配そうに覗き込む。


「大丈夫。……大丈夫だと思う」


 封を切る。中身は二枚。一枚目は公式な書簡。ダリウスの署名。いや、正確には署名だけがダリウスの字で、本文は書記官の字だった。


「辺境伯領の精霊結界が完全に消失し、森からの魔獣の出没が深刻化しております。薬草園の復旧を含む精霊関連の対処について、セレスティーヌ・フローレンス殿のご助力を仰ぎたく」


 助力。ご協力ではなく、助力。


 ――いえ、言葉の選び方を気にしている場合ではない。


 書簡の末尾に、ダリウスの手書きで一行だけ添えてあった。


「これは命令ではなく、お願いです」


 書記官の整った字と、ダリウスの硬い字のコントラストが妙に生々しかった。この一行を書くのに、どれだけの時間がかかったのだろう。五年間、「お願い」という言葉を使ったことのない人が。


◇◇◇


 もう一通を開いた。


 子供の字。大きくて、不揃いで、ところどころ滲んでいる。


「セレスへ」


 ああ。あの子だ。


「セレス、いつかえってくるの。やくそうばたけ、まもってるよ。まいにちおみずやってる。はながさかない。でもはっぱはみどり。セレスがつくったんだから、まもらなきゃっておもった」


 便箋を持つ手が震えた。袖口を――握らなかった。代わりに、便箋の紙を両手で包んだ。


 子供のインクの匂い。安い鉄インクの、少し酸っぱい匂い。


「リーゼ」


「はい」


「……朝ごはん、冷めちゃったわね」


「いいですよ。パンは冷めても食べられます」


 リーゼが黙ってチーズを切り直してくれた。その手の動きを見ながら、便箋をもう一度読んだ。


 はながさかない。でもはっぱはみどり。


 あの子が毎日水をやっている。私が作った薬草畑に。私がいなくなった後も。


 花が咲かないのは、精霊がいないからだ。精霊は契約者の心と共にある。私の心がここにある以上、あの畑の精霊は眠ったまま。


 ――でも、葉は緑だと言っている。


 精霊がいなくても、水をやれば根は生きる。祖母が教えてくれたことだ。「精霊の力がなくても、土と水と陽があれば植物は育つ。精霊はそれを少し助けるだけ」。


 あの子は、精霊のことなんて知らない。ただ水をやっている。それだけのことが、根を生かしている。


◇◇◇


 ギルドに出勤して、作業台の前に座った。鑑定依頼の品を並べる。手は動く。頭も動く。でも、胸の奥に便箋の重みが残っている。


 ルーファスが横を通りかかった。何も言わなかったが、私の手が止まっていることには気づいたはずだ。この人は観察力がある。見ていないふりをして、全部見ている。


 昼前、ルーファスが作業台の隅に湯呑みを置いた。いつもの茶ではなく、香草茶だった。


「味覚が鈍る時間帯では」


「今日は鑑定の予定がない。気にするな」


 ……そういうところだ。


 茶を啜る。温かい。舌の上でほろ苦い味が広がる。ルーファスの配合は、私の配合とは少し違う。マジョラムの比率が高い。辺境の調合より、少しだけ苦い。


「辺境から手紙が来たのか」


 見透かされている。驚かなかった。


「ええ。精霊結界の件で。それと」


 言葉を切った。子供の手紙のことを、どう説明すればいいかわからなかった。


「それと?」


「……孤児院の子から。薬草畑を守っていると」


 ルーファスは何も言わなかった。茶を啜って、書類に目を戻した。


 沈黙が降りる。でも、気まずい沈黙ではなかった。この人の沈黙には、考えている時の密度がある。何かを計算している。調合の配合比を決めるように。


「行くのか」


「……わかりません」


「行きたくないのか」


「行きたくない、のとは違って」


 指先を見た。爪の間に土はない。王都の薬草畑の土は、乾くと白くなる。辺境の土は、乾いても黒かった。


「あの場所は、もう私の場所ではないのです。帰る場所ではなく、出てきた場所で。戻れば、また名前がなくなるかもしれない」


 言葉にしたら、自分でも驚くほど正確だった。怖いのだ。名前を取り戻したばかりなのに、また失うことが。


 ルーファスが茶を置いた。音が小さかった。


「お前の名前は、場所に紐づいていない」


 低い声。無愛想な口調。でも、一語ずつ選んでいるのがわかる。


「フローレンス式の精製法は、辺境にいた時のお前が作った。でも登録されるのは王都のギルドだ。名前は、場所ではなく仕事についている」


 ああ。


 この人は、いつもこうだ。詩的なことは言わない。論理で説明する。でもその論理が、時々、詩より深いところに届く。


「……ありがとうございます」


「何が」


「考える材料を、もらいました」


 ルーファスが耳の後ろを掻いた。視線が書類に戻る。首の後ろが、ほんの少しだけ赤かった。


◇◇◇


 夜。下宿の窓際に座って、二通の手紙をもう一度並べた。


 辺境伯家の紋章入りの書簡と、子供のぎこちない字の便箋。


 重さが違う。紙の重さではなくて。


 ダリウスの書簡は、領主としての要請だ。正式な手続きを踏んでいる。合理的で、冷静で、距離を保った文面。「命令ではなく、お願い」という一行だけが人間の温度を持っている。


 子供の手紙は、何も求めていない。「まもってるよ」と書いてあるだけ。報告でもなく、お願いでもなく。ただ、私が作ったものを、守っている。


 どちらに応えるべきか。


 ――いえ、そうではない。どちらに応えたいか、だ。


 袖口に手が伸びかけて、止めた。代わりに便箋の端を指で撫でた。子供の字のインクの凹凸が、指先に伝わる。


「セレスティーヌ様」


 リーゼが毛布を畳みながら、こちらを見ている。


「行かないんですか」


「……行きたくない理由と、行きたい理由がある」


「どっちが多いですか」


 考えた。数えてみた。行きたくない理由は三つ。行きたい理由は――


 一つ。


 でも、その一つが、三つより重い。


「明日、ルーファスさんに相談するわ」


 リーゼが微笑んだ。辺境にいた頃には見せなかった、のびのびとした笑い方。


「ルーファスさんに、ですか。ギルド長にではなくて」


「……仕事の相談よ」


「はい、はい」


 この子は最近、ちょっと言い返すようになった。良いことだと思う。たぶん。

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