第1話 四冊目の業務ノート
四冊目のノートに名前を書いた時、ペン先がかすかに引っかかった。
革の表紙は新しくて、まだ指に馴染んでいない。祖母と同じ製本法で綴じた、鉄インクの匂いのするノート。一冊目は辺境伯邸で使い潰した。二冊目も。三冊目は引き継ぎ用に書いて、暖炉で燃やされた。
四冊目は違う。表紙の裏に、自分の名前がある。
セレスティーヌ・フローレンス。
誰かの妻でも、誰かの協力者でもない名前。この字が自分のものだと、ようやく手が覚え始めている。
◇◇◇
薬学ギルドの朝は、薬草と埃の匂いで始まる。
鑑定室の窓を開けると、パン屋の焼きたての匂いと排水溝の匂いが同時に流れ込んでくる。王都に来て三ヶ月。もう鼻が慣れた。
作業台に道具を並べる。乳鉢、乳棒、鉄製の匙、精密秤。それから、ルーファスがくれた白大理石の乳鉢。使い込むうちに底が少しだけ滑らかになった。毎日同じ場所を擦るから、石の表面に癖がつく。私の手の形に。
「おはよう」
ルーファスが入ってきた。手に湯呑みが二つ。
「おはようございます」
「茶を淹れた。飲むか」
「いただきます」
向かい合って座り、湯気を立てる茶を啜る。普通の茶。薬草茶ではない。ルーファスは朝は普通の茶を好む。味覚が鈍っている時に薬草茶を飲むと、微妙な配合の違いがわからなくなるからだ、と先週聞いた。
こういう些細なことを一つずつ覚えていく。その人の習慣を、その人の好みを。辺境伯邸でもそうだった。使用人の誕生日、体調の癖、好きな料理。ただ、あの頃は覚えたことを業務ノートに書いた。今は――書かない。書かなくても、覚えている。
「セレスティーヌ」
名前を呼ばれて、手が止まった。まだ慣れない。この人が私の名前を呼ぶたびに、一瞬だけ空白ができる。辺境伯邸で五年間、誰にも名前で呼ばれなかった空白を、一音ずつ埋めていくような。
「はい」
「今日の鑑定依頼。辺境産の薬草が三件入っている」
「辺境産」
胃のあたりが少しだけ重くなった。辺境という言葉に反応する身体を、まだ制御できていない。
「……はい。見せてください」
◇◇◇
鑑定品の中に、銀木犀の乾燥花弁があった。
品質は下。私が精製していた頃とは比べものにならない。乾燥が甘く、花弁の端が黒ずんでいる。直射日光に当てたのだろう。低温乾燥の手順を知らない者が処理した痕跡。
拡大鏡で確認しながら、鑑定報告書を書く。品質評価、欠陥の原因、改善点。手は止まらない。でも頭の隅で、別のことを考えていた。
あの温室は今、どうなっているのだろう。ガラス屋根にひびが入っていないだろうか。精霊は――。
「品質が落ちているな」
ルーファスが横から覗き込んだ。
「ええ。精製法を知らない人が処理しています」
「フローレンス式の精製法は、ギルドに登録すべきだ。辺境に限らず、銀木犀の精製で困っている薬師は多い」
フローレンス式。私の名前がついた精製法。
ルーファスがそう呼び始めたのは二週間前のことだ。最初は「あなたの精製法」と言っていたのが、いつの間にか「フローレンス式」になった。ギルドの他の薬師たちもその呼び方を使い始めている。
――名前がつく。自分の仕事に、自分の名前が。
嬉しいのだと思う。いえ、嬉しいというのとは少し違う。なんというか、足の裏がちゃんと地面についている感覚に近い。ここにいていい、という。
「登録の手続き、教えていただけますか」
「ああ。書類は俺が準備する」
ルーファスがメモを書き始めた。角張った字。日付だけ雑。
◇◇◇
夕方、下宿に帰ると、リーゼが洗濯物を畳んでいた。
「おかえりなさい、セレスティーヌ様」
「ただいま。今日も洗濯屋さん?」
「はい。今日は毛布を三枚洗いました。重かったです」
リーゼの手が赤い。水仕事で荒れている。でも表情は明るい。辺境にいた頃より、ずっと。
テーブルの上に、手紙が一通置いてあった。見覚えのある几帳面な文字。
マルタからだ。
封を切る。指先が少しだけ冷えた。期待と不安が混じった冷たさ。
マルタの報告は、いつも通り過不足がなかった。
薬草園は完全に枯れたこと。精霊結界が消失し、森から魔獣が出没し始めたこと。領の護衛兵の巡回が三倍に増やされたこと。隣領ヴァイスフェルトとの薬草取引は完全に途絶えたこと。
孤児院の運営は困難を極めていること。食事がまた一日二回に戻ったこと。
読みながら、爪の間を見た。黒い土はもうない。王都の薬草畑の土は、辺境の土より色が薄い。
手紙の最後に、マルタの字がほんの少しだけ乱れていた。
「旦那様が、奥様のことを毎日お尋ねになります。元気でいるかと。何か変わったことはないかと。差し出がましいことを申しますが、旦那様は変わり始めておいでです」
便箋を膝の上に置いた。
変わり始めている。あの人が。五年間、一度も変わらなかった人が。
――それは、良いことなのだろう。たぶん。
でも、私はもう辺境伯夫人ではない。あの人の変化を見届ける義務も、権利もない。
窓の外を見た。王都の夕暮れ。建物に切り取られた狭い空が、オレンジ色に染まっている。
ルーファスが淹れてくれた茶の味を、まだ舌が覚えている。普通の茶。温かくて、何の変哲もなくて、でも毎朝同じ味がする。
それが、今の私の日常だ。
手紙を丁寧に折り直して、四冊目のノートの間に挟んだ。




