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暴君白澤帝の愛し妃  作者: 春日あざみ
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ツェツェグ・バヤルサイハン

 既婚者であることを示す、頬に描かれた小さな赤丸。牛の両角を下向きにしたような形の盛り髪は、錫製の髪留めと、鮮やかな赤や緑で編まれた髪紐で飾られている。両肩部分が大きく膨らんだ、足首丈の赤い長衣(デール)は、大風(ダーフェン)族の娘が皆焦がれるもの。


「とても綺麗よ」


 支度を手伝う従姉妹は、花嫁の仕上がりを確認してうなずいた。


『まさかツェツェグに先を越されるなんて』


 無表情を決め込んでいたツェツェグの左眉が、ぴくりと動く。

 それに気づいた従姉妹は、たちまち表情を歪めた。


「まあ、心読みの異能を使ったの? 本当に嫌な子。さて、これで私の役目は終わったんだから、失礼するわよ。いいね」


 従姉妹は去り際、使わなかった髪飾りの一つを盗んで行った。ひときわ華やかなものだったから、支度の前から目星をつけていたのだろう。

 盛り髪が重い。耐えきれず下を向けば、じゃらじゃらと音を立て、瑪瑙(めのう)を嵌め込んだ銀の髪飾りが揺れる。


「明後日には皇帝のお嫁さんになるのね。実感わかないわ」


 しんと静まり返った部屋の中に、掠れ気味の自分の声が響いた。

 大風の伝統的な婚礼準備であれば、本来は支度を手伝う娘や、親族の女たちで溢れているはずのテント——ユルトは、がらんとしている。一方で、隣のユルトからは笑い声が聞こえていた。


 諦めの境地で鏡を見る。髪飾り一本取られたことを除けば、手を抜くことはしなかったようだ。相手が悪名高き「暴君」であることで多少は恐れる気持ちが働いたのかもしれない。不恰好な花嫁など送りつければ、きっと不可侵の合意など瞬く間にひっくり返されてしまう。


「皇帝の花嫁と言っても、体のいい人質だもの」


 鏡に映る花嫁姿。日に焼かれ、乾燥して艶のない黒髪に、大きいだけの茶色の瞳。


 それなりに仕上がっているとは思うが、並の容姿の域は出ていなかった。


 ◇◇◇


 突然長老のユルトへ呼び出されたのは二週間前の夜。愛馬で遠乗りに出た帰り。

 その場にいる顔ぶれを見てすぐ、火急の用件であることはわかった。長老の横にツェツェグの父であるオトゴンフーが控えていたからだ。


「お前を(リェン)の皇帝へ嫁入りさせる」


 席に着くや否や、長老の口から出た言葉にツェツェグは首をすくめた。


「嫁入り……私が、ですか」


「しっかりトヤーに化粧をしてもらえ。あいつはこの集落で一番化粧がうまいからな」


 十七歳の誕生日を迎えたばかりで、嫁入りをしてもおかしくない年齢ではある。だが皇帝への嫁となれば、高貴な血筋のものが嫁ぐべきだろう。それに、ツェツェグはこの集落の「はぐれもの」。

 父に疑問の目を向けるも、視線を敷物に落として押し黙り、ツェツェグの方を見ようとはしなかった。


「此度の戦を平定するためだ」


 遊牧民族・大風は、かつて大陸全土を手中に収めていた。しかし大きな反乱が起こったことをきっかけに、大風は辺境へ追われた。そして建ったのが大国・蓮である。

 ゆえに蓮は、大風にとって自国を奪った簒奪者。兵の数は大幅に劣っているにも関わらず、未だ蓮を相手どった戦を起こしている。だがその武力差ゆえに、負け戦が続いていた。


(ワシ)の孫娘を人質として後宮に欲しいと、忌々しき暴君がそう仰せでな」


「私は長老の孫娘ではありませんが」


 ばちん、という乾いた音とともに、頬に鈍い痛みが走る。


「長老になんという口の聞き方だ。いいか、尊き長の血を継ぐ御息女を野蛮な男の嫁になどできるはずがないだろう」


 叩かれた頬がじわじわと熱をもつ。父に頬を張られたのだ。ツェツェグは思わず唇を噛み、眉間に皺を刻んだ。


「つまり……私を『長老の御息女の身代わり』として、皇帝に差し出すのですね」


「身代わりではない。今日からお前を息子の娘として迎える。事実上お前は儂の孫娘だ」


 ——養子にするってわけ。


『いい厄介払いだ。それに心読みの異能は、敵陣に送り込んでこそ活きる』


 ぼわんと頭に響いたしゃがれ声は、長老のもの。

 ツェツェグは、父の方へ視線を向けた。


「父様」


「なんだ」


 父はツェツェグと目を合わせぬまま、呼びかけに応えた。


「私がいなくなって、寂しくはありませんか」


 そう口にして、愚かにもいまだ自分が親の愛を信じていることに気づき、表情が歪んだ。


『何を馬鹿げたことを。厄介者がいなくなって清々する以外に何があるというんだ。ああ、でも働き手が減るのは痛いな。まだドルジは小さいし世話が……』


 父はハッとして、ツェツェグに背を向けた。


「働き手が心配なら、トヤーを嫁に迎えればいいではないですか父様。ずっとあの子が気になっていたでしょう。若くて細い首筋が好きなのですものね」


 意趣返しのつもりでそう言えば。情けない声を出してツェツェグを振り返った父は、日焼けした肌を赤銅色に染め、乱暴にツェツェグの胸ぐらを掴んだ。


「お前というやつは! ああ、なぜお前が俺の娘なんだ。お前がいなかったら、母さんもあんなふうに死なずに済んだ! お前がいたせいで、お前なんかが生まれなければ……」


 激昂した父は何度もツェツェグの頬を殴った。まるで積年の恨みでも晴らすように。

 父が自分を呪う言葉が、憎む言葉が、頭の中に響いた。その度に、ツェツェグの心はひどく軋む。


 ——母さんへの償いのためと思えばいいか。


 薄暗い記憶の中、父の慟哭と、弟妹たちの鳴き声がこびりついている。

 どうせここにいても、ずっと自分は孤立したまま。

 長老は父の気が済むまで叩かせると、「嫁入り前の顔に傷を残すな」と、ようやく諫めた。

 床に座り込み、じんじんと痛む頬をさするツェツェグを見下しながら、長老は言う。


「いいか、ツェツェグ。お前の夫となる男は残忍非道の悪党だ。一度機嫌を損ねれば、容易く胴と首が離れてしまうだろう。だが心読みの異能があれば、他の妃と同じ(わだち)は踏むまい。見目が優れていれば子を残せと命じたところだが。お前は諜報に徹すれば良い」


『その方が下手を打って命を失うより、長く大風に貢献できる』


 暗い水底に足枷をつけて沈められるような気分で、ツェツェグは深いしわの刻まれた長老の顔を見上げていた。


 髭を蓄えた大柄な御者が、馬車に乗ろうとしたツェツェグに手を差し出した。


『これで心を読まれる羞恥から解放されるわ。いなくなってくれてホッとする』


『きっとすぐに殺されるに違いない。こんな見窄らしい花嫁、受け入れられるはずがない』


『御者とバートルだけで、雪原を渡れるのかしら。かわいそうにバートル。あんな子のお付きだなんて』


 頭の中で響き合う声の中に、ツェツェグを心配するものはない。

 何もしなくとも、近くにいる人間の考えていることがわかる。生まれた時からそうだった。

 まるで水底から聞こえる音のように、人々の「心声(しんせい)(しんせい)」がツェツェグの頭には響いてしまう。


 人の道を外れたその能力に、里の皆は狼狽え、ツェツェグを忌んだ。

 厳しい自然の中で生きる大風にとって、部族民同士の強固な結びつきが何よりの生存戦略となる。輪を乱すような異質なものが混じれば、たちまち皆を危機に晒すと一族は考えた。

 結果、ツェツェグ一家は一族のつまはじき者となったのだ。


「いくぞ。さっさと席へ着け」


 バートルの粗野な声に急かされて、ツェツェグは座席に腰を下ろす。

 不安もある。恐ろしさもある。だが行く先は見たことのない、話でしか聞いたことのない未知の国。


「蓮になら、私の居場所はあるのかしら」


 つぶやいた言葉は、動き始めた車輪の音でかき消された。


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