17、いつでも離婚に応じますから
嵐のような数日間が過ぎ去って、侯爵家はすっかり落ち着きを取り戻した。
ミアがその日、いつものように厨房でケーキを作っていると、ふいにカルベスが現れて声をかけてきた。
「何を作っているんだ?」
「レモンケーキです」
「え? それは、俺の好きなケーキだよ」
「まあ、そうなんですね。侯爵家の特別レシピだと聞きました。ちょうどいいので、食べますか?」
「……ちょうどいい?」
カルベスが肩を落として「そっか。俺のためではないのか」とぼやいたが、ミアは気にも留めずにケーキを焼き上げた。
さっぱりしたレモンと甘いシロップの香りがふわっと広がる。
いつもなら、使用人たちとみんなで狭いテーブルを囲んで紅茶を飲みながらケーキを食べるのだが、なぜかこの日は全員用事があると言って次々と立ち去ってしまった。
リリーは立ち去る前にミアにこっそり耳打ちした。
「よく晴れていますし、お庭でお茶をされてはいかがですか?」
「それはいいわね」
こうしてミアとカルベスは庭のベンチに並んで腰を下ろし、雑に切り分けたケーキを手掴みで口に運んだ。
「美味い。俺がよく食べる味だ」
「よかったですわ。リリーが作り方を教えてくれたのです」
「そうか。使用人たちは俺の好みをちゃんと覚えてくれているんだな」
感激したように頬を赤らめて話すカルベスに、ミアはにこりともせずきっぱりと言い切った。
「当然ですわ。それが仕事ですから」
「えっ……」
「当主の好みを把握しておくのは使用人として当たり前のことです。それが務めですもの。私も妻の役目として旦那様の好みをきちんと把握しておきますね。レモンケーキがお好きであると」
「役目……」
カルベスは引きつった表情をしたが、ミアがにっこり笑うのでつられて笑みを返した。
澄んだ青空に鳥が高く舞う。
心地よい風がふわっとふたりを包み込む。
平穏な午後だが、ふたりのあいだに沈黙が続く。
カルベスはふとミアに話題を振った。
「君は平民だったと言っていたけど、どんな暮らしをしていたのか訊いてもいい?」
「はい、いいですよ」
ミアはぱっと明るい表情になり、隠すことなくすべての過去をためらいなく話し出した。
カルベスが訊くつもりもなかったことまで事細かに丁寧に。
「えっ……君のご両親は駆け落ちしたのか」
「はい。平民の父との結婚を両親が許可してくださらなかったようです。なので、母は父と一緒に逃げました。辺境のとある村で私が生まれたのです」
「しかし……貴族だった君の母は、平民の生活に耐えられたのか?」
「はい。まったく問題なかったようですわ。母は毎日とても幸せそうでしたもの。父ともすごく仲が良かったんですよ。私はふたりが言い争いをしているところを見たことがありません」
カルベスが感心したように嘆息する。
「私は母が貴族だったなんて知りませんでした。それほどに、母は毎日畑を耕したり、野菜を売りにいったり、裁縫の仕事をしていました。ちなみに父は荷物運びでしたが、ある日重い荷物に足を潰されて骨折してしまいました」
「そ、そんな大変なことをさらっと……」
カルベスが引きつった顔をすると、ミアは明るく答えた。
「命に別状はありませんでした。父が働けないあいだは私が荷物運びの仕事に行きました。まだ7歳でしたが、体力もあって力持ちだったので」
ミアは自分の両腕を掲げて拳を握り、筋肉があることを主張する。
「とはいえ、さすがにお金がなさすぎたので、パンを買うことができず、代わりにじゃがいもを細く切ったものを油で揚げて塩を振りかけて食べていました。これがとても美味しくて、私は毎日じゃがいもでもよかったくらいです」
ミアが笑顔で堂々と語るので、カルベスは驚き、呆気にとられている。
「すごいな。俺には想像もできない。だが、君が話すと楽しそうに思えてくるよ」
「はい、とても楽しかったですわ。一生この生活ができると思っていたんですけど、8歳でその人生は終了しました」
「えっ……」
「両親と初めての旅行に出かけたときに私は死にました」
カルベスが目を丸くして絶句している。
そんなことにお構いなく、ミアは笑顔で続ける。
「旅行は本当に楽しかったのですが、帰りに山の中で天気が崩れてしまって、崖崩れに遭遇したのです。私たちの馬車は崖下に落ちてしまったようです。両親は死んでしまいました」
「そ、そうだったのか……それは辛かっただろう。まだ8歳なら余計に……」
「んー、でも、私はよく覚えていないんです。気づいたら知らない人に手を引かれて知らないお屋敷に連れていかれていました。それが伯母様のおうちです」
カルベスは額に手を当てて戸惑いながら話す。
「それで君は伯爵に引き取られたんだね。しかし、そこから令嬢教育をされて、ここまで立派に育ったのは大したものだと思う」
「そうですか? 私はただ、伯母様に言われたことをしただけです。伯爵令嬢の嗜みをすべて完璧に習得すれば自由にしていいと言うので、その通りにしました」
にへらっと笑うミアに、カルベスは表情を強張らせる。
「君は……本当に強いな。両親のこと、寂しく感じたりもするだろうに」
「いいえ、寂しくはないです。だって私は両親と一緒に一度死んだと思っていますから。そして、伯母様の姪としての人生が8歳から始まっただけですわ」
「そんなに割り切れるものだろうか……」
ミアが笑顔のまま固まっているので、カルベスは慌てて返す。
「ああ、いや、君が楽しければいいんだ。俺に余計なことを言う権利などないからな」
「はい。とても楽しいですわ」
「そっか。よかった」
カルベスが安堵したようにため息をつくと、ミアは思いついたように人差し指を上げて言った。
「でも、ひとつお願いがございます」
「何だ?」
「旦那様は駆け落ちをなさらないでください」
「え?」
「旦那様はこの侯爵家の大切なご当主様ですから。もしマデリーン様と一緒になりたいと思いましたら、駆け落ちではなく私と別れてくださいませ」
「い、いやそんなことは……」
「ご安心ください。私はいつでも離婚に応じますから」
まったく悪気のない顔でそう言われて、カルベスは言葉を失った。
ミアは平然とした顔で続ける。
「私たちは貴族の慣習である家同士の結婚をしましたが、旦那様がどうしてもマデリーン様と結ばれたいとお思いでしたら、邪魔な私はさっさと出ていきますのでご心配なく」
固まるカルベスに構うことなく、ミアはにこやかに付け加える。
「伯母様はきっと許してくださらないでしょうけど、一度くらい反抗してもいいかなと思うんです。反抗期を経験してみたいですわ」
もはやどう返したらいいかわからないカルベスは、表情を強張らせたまま苦笑するしかない。
「いろいろと突っ込みたいことがあるけど、まあ……その心配は今はないよ」
「そうですか。あ、私はそろそろ庭仕事がありますので、これで失礼しますわ」
ミアはそう言って立ち上がると、丁寧にドレスの裾を持ってカーテシーをおこなった。
「それでは素敵な午後をお過ごしくださいませ」
カルベスはそれ以上何も言わず 「ああ、君も」と短く返答した。




