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隣を見ると、いつの間にか戸川さんが座っていた。
「林さん、また事件があったみたいです」
「っ・・・えっ・・・ま、た?」
僕の声がかすれた。かろうじて受け応えたが、彼女の顔を見るのが恐ろしい。
「どうしたんですか?」
いつもの彼女だ。少し気弱そうで優しい顔をして僕のことを見つめている。
「あ、ちょっと怖い夢を見ていて」
そうだ。夢だったんだ。僕は手汗を握りながら平静を装おうとした。
「大丈夫ですか?やっぱりこの電車、怖いですね」
「そ、そうだね」
僕は無理やり、さっき見たことが夢だったと思いこもうとした。
だいたい、あれが彼女だったかどうかは定かでないし、もし、あれが本当に殺害現場だとしても、あんな数秒で生きている人の頭をどうにかなんてできるはずがない。ましてや、こんな力も気も弱い彼女には絶対にできないことだ。
夢だったんだ。
そうだ、できるはずないじゃないか。バカだな、俺って。
うたた寝すると怖い夢を見るってわかってるじゃないか。冷静に考えれば考えるほど、バカバカしくなった。そんなの、ちょっと考えればわかることだ。彼女が男の人の頭部をどうにかして取りのけるなんてできっこないんだ。それを、夢と混同しちゃうなんて、僕も案外怖がりだな。
やっとのことで、僕の頭の中が整理できた時、また駅員がやってきて、僕たちを振り替え輸送のバスに誘導した。
僕たちは一駅だけだから、バスには乗らず、歩いて帰った。
途中彼女が言った。
「私、やっぱり、あの電車に乗るの、やめることにしました」
「うん、そうだね」
僕はホッとため息をついた。彼女と一緒に通学できることは楽しかったが、先ほどの生々しい夢のせいで、彼女が少し怖かったのだ。いや、それはいくらなんでも彼女に対して失礼ではあるが、仕方がないじゃないか。僕だってあの電車は怖いんだ。
「しばらくは会社からタクシー代が出るそうなんです。それで通おうと思って」
「へえ、いい会社だね」
そういうことで、僕たちはそれっきり、もう会うこともなくなったのだった。
彼女が乗らなければ、事件は起こらないだろう。
そう思うのは、僕があの夢を完全に整理できていないせいではある。彼女が犯人だなんてはずは、どう考えたってありえないのに、僕の頭の中では彼女が限りなく犯人なのだ。いかんいかん。そんなわけないじゃないか。
とにかくそれを限りに、もう彼女と会うことはなかった。
殺人犯は捕まらなかったが、僕は心のどこかでホッとするのを感じた。
◇◇◇
電車には、警備員が配備された。
各車両に一人ずつ、いつでも警備員が乗っている。安心だけど、これって相当大変なことだよな。鉄道会社も大変だな。
町の新聞には、しばらくの間、あの事件のことが書かれ続けていた。都会のテレビの取材もあった。
いつも同じ時間に、寝ている人の頭が切り取られる凄惨な事件。そして血があまり流れていないという不可思議な現象。
それから、偶然かもしれないが、一番後ろの車両から順番に殺された、ということだ。
ということは、あと残っているのは、僕がいつも乗る、一番前の車両か。いや、もう大丈夫だ。警備員がいるじゃないか。
そのせいか、犯人は捕まらなかった。
被害者の共通点は何もなく、怨恨による犯罪とは考えられなかった。それに、凶器が何かもわからないのだ。そういう意味では、本当に不思議で不気味な事件ではあった。
結局、事件の謎は何も解決しないまま、もう夏になろうとしていた。
日が伸びて、僕が帰りの電車に乗るころは、まだ明るい時間になっていた。あの事件が起こったのは夕暮れ時だったから、こう明るくなると少し気も楽だ。
そうして少しずつ、みんなが事件のことを忘れるようになった。
乗客も少しずつ戻り、まあ、もともと乗客は多くはなかったけれど、事件前と変わらないくらいにはなっていた。
だけど、彼女は戻ってこなかった。あれから一度も姿を見ていないところを見ると、もしかすると引っ越ししたのかもしれない。
僕の頭からは、あの夢のことはほとんど消え去っていた。だいたい、夢なのだから本気にもしていないが、あのころは実はとても怖かったんだ。
まあ、こう田舎らしい平和なトトンという音を聞いて、毎日通学していると、あの、春の日の事件すら、何だったんだろう、というか、それこそが夢だったのではないか、という気にすらなった。
それくらい、この辺りは田舎なんだ。
いつしか僕は、また下を向いて目を瞑りながら、電車の音を聞くようになった。いや、さすがに眠ってしまうのは危険だと思って、本気で眠ったりはしない。いくら警備員が見張っているとはいえ、そこまで気を許すには、あの事件は重すぎた。
町の人たちは通常に戻ったように見えた。
乗客も以前と同じくらいには戻っているし、おばあちゃんがうつらうつら舟をこいでいる姿とか、制服の高校生がキャッキャと笑い合っていたり、まあ、平和な見慣れた風景だ。
唯一違うのは、警備員がいる、ということだけ。
警備員も配備されたころのピリピリ感はなくなって、今は風景に溶け込んでいるようにみえる。
乗客が乗ってくれば、挨拶をする仲だし、列車ごとに人は違うとはいえ、ほぼ毎日同じ電車に乗る僕から見れば、顔なじみになったものだ。足腰の弱いご老人に手を貸したり、時には路線案内までしているのを見ると、警備員というよりは駅員や車掌さんのようだ。
夏のある日。僕はいつもよりずいぶんと遅い時間に電車に乗った。
たまたま、学校の終わりが遅くなったんだ。日が長くなっていたから、久しぶりに夕暮れの電車に乗り込んだ。
「ふう」
遅くなったのもあり、僕は疲れていた。
座席に座るとホッとため息をついて、すぐに目を瞑った。警備員がいる電車だ。眠っても平気だろうか。それくらい疲れていた。
とはいえ、僕はあの事件を忘れていなかった。
たまたま、僕が乗っていた電車で3回も事件があったんだ。さすがに忘れられない。
ただ、今日乗った電車は、あの頃に乗っていたいつもの時間の電車ではない。いつもより1時間も遅い時間だから、まあ、大丈夫だとは思うが・・・深く眠るのはやめておこう。
トトン、トトン、と電車は走る。
心地いい揺れの中で、電車と夕暮れ時の音が聞こえる。
トトン、トトン、と電車は走る。
正面から夕陽が差し込んできて、瞑った瞼が赤い。夕暮れの色だから刺すような赤ではなくて、もっと柔らかい色だけど。
夕暮れの色は柔らかくて、夕暮れの音は静かだ。
みんな眠っているのだろうか。
ふと、瞼の中の赤い色が翳った。急に暗くなって驚いた僕は、うっすらと目を開けた。疲れていて、眠くてうまく瞼が開かない。
寝ぼけ眼で前を向くと、目の前に人が立っていた。
可愛い女の子だった。女子高生のような顔をしているけれど、大人っぽい服装をしている。
好みの顔だ。
「ぴょんちゃんは、少し萎れかけたひなぎくが好きだった」
僕の声が、僕の口から出た。
自分でそう言ったとは意識していないのに、なんで今頃、ぴょんちゃんのことを。
そう思ったとき、彼女は笑った。長い前歯を見せてにっこりと笑うと。豪快にかぷっとかじりついた。
僕の血が、栄養が、ぴょんちゃんに吸い尽くされるのを感じた。
― 首が切られて、血がほとんど出ない ―
それがどういうことか今わかった。
ぴょんちゃんはひなぎくの花にかじりついて、花だけを食べる。茎は残すけれど栄養は吸い取っていたんだ、きっと。
僕の頭も、彼女にかじり取られた。いとも簡単にかじり取ると、身体の血を吸い取っていたんだ、きっと。
だから、首が切られて、頭がなくなっても、血がほとんど出ていないんだ。
そうか。
そういう事件だったのか。ああ、そうだったのか。
遠のく意識の中、ぴょんちゃんとの幸せな思い出とこの事件が結びつく。ああ、そうだったのか。
「おやすみなさい」
聞こえるはずのない僕の耳に、僕が聞きたかったぴょんちゃんの声が聞こえた。