Prologue
一人――また一人。
殺しても殺しても、気が晴れることなんてない。
自分の身体をこんな風に作り替えてしまった科学者をすべて殺して回っても、この身体が元通りに戻る日など来ないのは百も承知している。
だが、どれだけ不毛でも、どれだけ空しくても、この生き方をやめるつもりはない。
平凡だったはずの人生をひっくり返した科学者たちに、残酷な死を。
頼みもしないのに、彼らに与えられたこの忌まわしい『能力』を以て、報復を――こうして、やり場のない憎しみを一つ一つ叩き返して行く。
これ以外の生き方なんて、きっともうできない。
***
男は走っていた。
その形相は、『必死』を絵に描いたような有様だ。
中年太りした体型と比例するような、お世辞にも早いとは言えない速度で走りながら、アンブローズ=ウェルズという名の男は、チラチラと背後を気にしている。
大した距離を走っていないはずなのに、彼の息はすでに上がっていた。それでも、懸命に足を一歩一歩前へ踏み出す。そうすれば、救われると思い込んでいるかのように。
陽が暮れたあとの路地裏は、街灯の明かりも届かず、薄暗い。
しかし、入り組んだ路地の奥まった場所にあり、いつもは心細いような暗がりの中に浮き上がって見える自宅のドアが、今日ほど頼もしく見えたことはなかった。
彼なりの『全力疾走』で自宅へ駆け戻ったウェルズだったが、その鍵を、いつもの習慣で財布の中へ入れていたことを猛烈に後悔した。臀部のポケットから財布を取り出し、その財布を開いて鍵を取り出すという、普段なら造作もなくできるはずの作業が、焦る気持ちからかちっとも捗らない。
こんなことになると分かっていたら、首からチェーンで下げる習慣にしておいたのに。
脳裏で独りごちながら、小刻みに震える指先でキーホルダー付きの鍵を取り出す。小銭が釣られるように引きずり出され、軽く甲高い金属音を立てながら地面へ散らばった。平時ならそれらを拾うだろうが、今日はそんな余裕はない。命あっての物種だ。
やはりしきりに背後を気にしながら、まだ震えている指先で、必死に鍵を開けようとする。けれど、今度はその鍵先が、中々鍵穴に入らない。
早く、と焦れば焦るほどに手は尚のこと震え、思う通りにならない。
ああ、どうして鍵穴は二つもあるのだろう、と、この日に限ってウェルズは真剣に考えた。
留守中に泥棒に入られなくとも、自分を守ってくれるはずのこの扉が、たった今開いてくれないことにはどうしようもない。
ようやく、縦一列に二つある鍵穴の内、一つに鍵を差し込んだ、その時。
「随分、震えてんじゃねぇか。手伝ってやろうか?」
「ヒッ……!」
唐突に耳元へ張りのある若い声音が落ちて、ウェルズは飛び上がった。
自分を追い掛けて来た相手がすぐ背後にいるというのに、開錠作業を続けていられるほど、彼の神経は図太くない。
扉の前から、先刻までの走る速度からは考えられないような機敏さで飛び退き、背後の相手から少しでも遠ざかろうと再び足を動かした。
しかし、残念なことに、五メートルほどでそこは行き止まりの袋小路になっている。
「くっ……くっ、来るなっ!」
それでもウェルズは、背中を行き止まりの壁に貼り付けるようにして後退ろうとする。
彼を憐れむように眺めているのは、ひどく整った容貌の持ち主だった。
切れ上がった目元に縁取られた瞳は、明るい場所で見れば深い青色をしているのが分かっただろう。綺麗に通った鼻筋と、薄く引き締まった唇は、逆卵形の輪郭の中に品良く収まっていた。
どちらかと言えば女性寄りに整った容姿と言える。
超絶美少女、と言ってもおかしくないが、十代半ばの年齢にしては小柄な体躯の相手は、立派な少年だ。
極上の黒真珠の色合いの、やや長い髪の毛で覆われている頭部に、黒のジャケットとボトムという出で立ちが、路地裏の薄暗さとも相俟って、その美貌の少年を濃い影のように演出している。
ウェルズの自宅ドアの前に立っていた少年が、流れるような動きで扉を離れ、足を踏み出した。さながら、獲物を追い詰める豹のように優雅な動きだ。
そんな美しき『豹』に迫られる『獲物』は堪らない。下がる場所などないのに、ウェルズは壁へ、懸命に背を押し付ける。
「かっ……か、勘弁してくれ! 何でもするから! 何が望みだ!? 金か? 謝罪か!?」
十代半ばの少年を相手に、大の大人が情けない話だが、その表情は恐怖としか言い様のない色に塗り固められ、脂汗が流れている。やや脂肪を蓄えた腹部がブルブルと震えているのが、嫌でも分かった。
「謝罪?」
男か女か、判別の付きにくい容姿を持った美貌の少年は、クス、と嘲るような笑いをこぼす。
「謝罪して貰って、この身体が元通りになるなら喜んでして貰うけどな。無理だろ?」
『身体が元通りになる』。
その言葉の意味は、部外者には理解できないに違いない。
一見したところ、少年の身体に異常なことは何一つないからだ。
しかし、ウェルズと少年の間では、それだけで何の話をしているかは瞭然だった。
「そっ……それなら、私を殺したって同じことだろう! そんなことをしても意味がない!」
「意味がない?」
少年の唇に刻まれた笑みが、益々深くなる。
比例するように、深い青の瞳は冴え凍るような昏さを帯びていった。
黒のハーフミットで覆われた細長い指先に、パシン、と乾いた音を立てて青白い筋が踊る。
「意味ならあるさ」
しなやかな足が無造作に、だが隙のない身のこなしでまた一歩ウェルズのほうへ踏み出される。
顔色をなくしたウェルズは、急に壁を通り抜ける能力を得たかのように、尚も壁へ背中を押し付け続けた。
「なっ……な、何の意味があるって言うんだ! 頼む! 頼むから、命だけはっ……!!」
「命だけは?」
途端、彼の言葉を面白がるようだった声音から、感情が削げ落ちる。
「命だけは、何だよ。助けて欲しいって言うのか? あんた、今更どの口でそんな戯言ほざいてんだよ」
ウェルズは、頷いたらいいのか、首を振ったらいいのか分からない体で、ただひたすら震えていた。
「じゃあ、あんたらが俺の身体にしたことは何だって言うんだ? 俺がいつ、あんたらに頼んだよ。こんな、――歩く殺戮兵器にして欲しい、なんてよ」
「だっ……だが、そうでなければ、お前はとっくに死んでたんだぞ!!」
低く冷ややかに落とされた声に、ウェルズは懸命に反駁する。
「そっ、そうだ……お前は確か……内臓密売組織から、身体だけが研究所へ転売されて来たんだ。ノワール経由でな」
『ノワール』というのは、裏社会では有名な、兵器開発・密造組織の名称だ。
「内臓のなくなった身体なんて死体と同じだ。だから、我々の技術でお前を蘇生させてやったんじゃないか!」
「こんなモノ、埋め込んでか」
次の瞬間、少年の華奢な腕に、糸状の青白い燐光がスパークして飛び跳ねた。
「ヒッ……!!」
「確かに感謝してるよ。お前らに報復する力を与えてくれたことにはな」
見た目に似合わぬ威圧感を伴った声音が、低く落ちる。
音叉のような、透明な高音を立てて、少年の掌に青白い光弾が生まれる。美しくも恐ろしいそれは、スパークを纏いながら肥大していく。
「助け……た、助けてくれっ……頼む」
「じゃあ、返せよ。俺の生まれ持った臓器と平凡な人生を今すぐ、この場で!!」
「私はっ……私は、何もしてない! ただ、私は」
ウェルズが、最後まで言うことはできなかった。
憎悪を込めてウェルズを睨み据えた少年は、青白い光弾を携えた手を叩き付けるように鋭く、上から下へ向けて一振りする。
その手から放たれた光弾は稲妻のような速度で疾駆し、ウェルズを捉えて破裂した。
世界が白く塗り潰された錯覚の中で、彼の意識は永久に途絶えた。
©️神蔵 眞吹2022.